DD
駆逐艦

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です


軽荷排水量:1,500t 満載排水量:2,286t 全長:104.03m(DD-397は104.01m、DD-398、DD-399、DD-402〜DD-408は103.96m) 幅:10.82m(DD-397は10.56m、DD-402は10.79m) 吃水:3.91m(5.25mともいわれる、DD-402は4.36m) 主缶:バブコック&ウィルコックス式水管缶(重油専焼)4基(DD-397〜DD-399、DD-402〜DD-408は3基) 主機/軸数:ジェネラル・エレクトリック式オール・ギアード蒸気タービン2基/2軸 出力(計画):46,000馬力(DD-397〜DD-399、DD-402〜DD-408は50,000馬力) 速力(計画):37.0kt(DD-397は38.5kt、DD-398、DD-399、DD-402〜DD-408は38.8kt) 燃料搭載量(計画):重油509t(DD-397〜DD-399、DD-402〜DD-408は530t) 航続力(計画):12ktで6,500浬(戦時は12ktで6,940浬、DD-397〜DD-399、DD-402〜DD-408は12ktで5,390浬) 兵装:38口径127mm単装両用砲4基、12.7mm単装機銃4基、533mm4連装魚雷発射管4基、爆雷投下軌条2条、爆雷14個 乗員:158名(DD-397、DD-402は184名、DD-407は251名)
※仕様の差異から、後期建造艦をベンハム級あるいはマッコール級ともいわれる
↑バグリー級駆逐艦ブルー(DD-387)
↑USS Henley (DD-391). Off the Mare Island Navy Yard, California, 26 February 1942. Photograph from the Bureau of Ships Collection in the U.S. National Archives.

↑Image courtesy of Shipbucket.
艦名 NAME 艦種記号 建造所 就役日 退役日 除籍日 備考
バグリー
12
Bagley DD-386 ノーフォーク海軍工廠 1937/6/12 1946/6/14 1947/2/25 ◎1947/10/3 解体のため売却
Pearl Harbor, Salamaua-Lae Raid, Guadalcanal-Tulagi, Arawe, Cape Gloucester, Saidor, Saipan, Philippine Sea, Guam, Tinian, Bonins-Yap Raids, Palau, Philippines Raids Sep 1944, Okinawa Raid Oct 1944, Luzon Raids Oct 1944, Surigao Strait, Leyte, Lingayen, Iwo Jima, Okinawa.
ブルー Blue DD-387 ノーフォーク海軍工廠 1937/8/14 1942/8/23 日本海軍駆逐艦神風の雷撃により沈没
Pearl Harbor, Marshall-Gilberts Raid 1942, Wake I. Raid 1942, Guadalcanal-Tulagi, Solomons.
ヘルム Helm DD-388 ノーフォーク海軍工廠 1937/10/16 1946/6/26 1947/2/25 ◎1946夏 ビキニ環礁の原爆実験標的として使用
◎1947/10/2 解体のため売却
マグフォード
12
Mugford DD-389 チャールズタウン海軍工廠 1937/8/16 1946/8/29 1948/4/5 ◎1935/10/28 起工
◎1936/10/31 進水
◎1930年代末 オーヴァーホール
◎1940末 40mm連装機関砲1基、20mm機関砲6基を増設
1942/8/7 ガダルカナル島沖にて日本海軍機の爆撃により損傷、のちに応急修理
◎1942/11下旬 シドニーのdrydock Cockatooに入渠、修理
1943/9 Buna近海にて日本海軍機の攻撃により損傷(榴散弾穴程度)
◎1943/9末 Milne Bayの駆逐艦母艦ドビン Dobbin(AD-3)によりレーダー換装工事
◎1943/11上旬 Milne Bayにて修理改装
1943/12/25(1943/12/26?) Cape Gloucesterにて日本軍機の爆撃(至近弾)により損傷
◎1944/1初め Milne Bayの駆逐艦母艦ドビン(AD-3)により修理
◎1944/3上旬 メア・アイランドにて改装
1944/10/3 台風により損傷
◎1944/11上旬 ウルシーにて修理
1944/12/5 スリガオ海峡にて日本海軍の特攻機の攻撃により損傷、San Pedro Bayにて修理
◎1945/1上旬 メア・アイランド海軍工廠にて改装
◎1946/5 ビキニ環礁へ曳航
◎1946/7/1 原爆実験標的として使用
◎1946/7/25 原爆実験標的として使用
◎1948/3/22 クェゼリン環礁にて処分
Pearl Harbor, Guadalcanal-Tulagi, Lae Ldgs., Finschhafen, Arawe, Cape Gloucester, Saipan, Philippine Sea, Tinian, Guam, Bonins-Yap Raids, Palau, Philippines Raids Sep 1944, Okinawa Raid Oct 1944, N. Luzon-Formosa Raids Oct 1944, Luzon Raids Oct 1944, Surigao Strait.
ラルフ・タルボット
12
Ralph Talbot DD-390 チャールズタウン海軍工廠 1937/10/14 1946/8/29 1948/4/5 ◎1935/10/28 起工
◎1936/10/31 進水
◎1941初め メア・アイランド海軍工廠にてオーヴァーホール(〜1942/4)
1942/8/9 第一次ソロモン海戦(連合軍側呼称:サヴォ島海戦 Battle of Savo Island)にて日本海軍艦艇の砲雷撃により損傷(12)、輸送船隊の停泊水域に向かう途中に移動可能な全装具が船外に投棄、応急修理
◎1942/9中旬 メア・アイランドにて修理
◎1944/2? サン・フランシスコにてオーヴァーホール(〜1944/5中旬)
1945/4/27 沖縄にて日本海軍の特攻機の攻撃により損傷、慶良間列島にて修理
◎1946/7〜8 原爆実験標的として使用、のちにクェゼリン環礁へ曳航
◎1948/3/8 クェゼリン環礁にて標的として沈没
Pearl Harbor, Marshall-Gilberts Raid 1942, Wake I. Raid 1942, Guadalcanal-Tulagi, New Georgia, Kolombangara, Cape Gloucester, Saidor, Cape Gloucester, Saipan, Philippine Sea, Bonins-Yap Raids, Palau, Philippines Raids Sep 1944, Okinawa Raid Oct 1944, N. Luzonp-Formosa Raids Oct 1944, Luzon Raids Oct 1944, Surigao Strait, Leyte, Iwo Jima, Okinawa.
ヘンリー Henley DD-391 メア・アイランド海軍工廠 1937/8/14 1943/10/3 東部ニュー・ギニア水域にて日本海軍呂号第一〇八潜水艦の雷撃により沈没
Pearl Harbor, Guadalcanal-Tulagi, Solomons, Finschhafen.
パターソン
12
Patterson DD-392 海軍工廠ピュージェット・サウンド 1937/9/22 1945/11/8 1947/2/25 ◎1947/8/18 解体のため売却
Pearl Harbor, Eastern Solomons, Salamaua-Lae Raid, Guadalcanal-Tulagi, New Georgia, Saipan, Philippine Sea, Tinian, Guam, Bonins-Yap Raids, Palau, Philippines Raids Sep 1944, Okinawa Raid Oct 1944, N. Luzonp-Formosa Raids Oct 1944, Luzon Raids Oct 1944, Surigao Strait, Leyte (1, 2), Iwo Jima, Okinawa.
☆DD-392の撃沈スコア(以下の艦船)
・1943/8/25 日本海軍呂号第三五潜水艦(サン・クリストバル南東海域にて撃沈)
ジャーヴィス
12
Jarvis DD-393 海軍工廠ピュージェット・サウンド 1937/10/27 ◎1935/8/21 起工
◎1937/5/6 進水
◎1941/2 サン・フランシスコにてオーヴァーホール
◎1942/4/14 サン・フランシスコにてオーヴァーホール、改装(〜1942/5/8)
1942/8/8 ツラギ沖にて日本海軍機の雷撃により損傷、駆逐艦デューイ Dewey(DD-349)が曳航(曳航中、応急修理)
1942/8/9 ガタルカナル島近海にて日本海軍機の爆雷撃により沈没
Pearl Harbor, Guadalcanal-Tulagi, New Georgia.
ベンハム
12
Benham DD-397 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1939/2/2 ◎1936/9/1 起工
◎1938/4/16 進水
◎ニュー・ヨーク海軍工廠にて就役
◎1939/7 ニュー・ヨーク海軍工廠にてオーヴァーホール、改装
◎1939/10/14 チャールズタウン海軍工廠にて右舷側プロペラ交換工事
◎1940/4/14 真珠湾にて改装
◎1942/1/28 メア・アイランド海軍工廠にて改装
◎1942/6上旬 真珠湾海軍工廠にて保全、修理(〜1942/6/22)
1942/11/15 第三次ソロモン海戦(連合軍側呼称:ガダルカナル海戦 Naval Battle of Guadalcanal)にて日本海軍艦艇の砲雷撃により損傷、処分
◎Torpedoed by Japanese warships at Battle of Guadalcanal, lost bow and sunk by destroyer Gwin, 15 Nov 1942 (None killed). Midway, Guadalcanal-Tulagi, Eastern Solomons, Solomons, Battle of Guadalcanal.
エレット Ellet DD-398 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1939/2/17 1945/10/29 1945/11/13 ◎1947/8/1 解体のため売却
ラング Lang DD-399 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1939/3/30 1945/10/16 1945/11/13 ◎1946/12/20 解体のため売却
◎Pearl Harbor Arrived - 4 November 1943, Complete - 9 November 1943. Arrived for repairs to damaged hull port side, frame 37 to 39. This job required new longitudinal and new plating. Progress satisfactory. The carbon packing of the IP and LP turbines removed for remachining to proper clearance.
マッコール McCall DD-400 ベスレヘム・シップビルディング社社サン・フランシスコ造船所 1938/6/22 1945/11/30 1947/1/28 ◎1947/11/17 解体のため売却
モーリー
12
Maury DD-401 ベスレヘム・シップビルディング社社サン・フランシスコ造船所 1938/8/5 1945/10/19 1945/11/1 ◎1946/6/13 解体のため売却
◎Pearl Harbor Arrived - 4 November 1943, Complete - 8 November 1943. Refacing flanges and renewing gaskets auxiliary streamline bulkhead stops of all four boilers. Other minor jobs underway. No major hull work. Progress satisfactory.
メイラント
12
Mayrant DD-402 チャールズタウン海軍工廠 1939/9/19 1946/8/28 1948/4/30 ◎1937/4/15 起工
◎1938/5/14 進水
1943/7/26 Palermoにてドイツ空軍機の爆撃(至近弾)により損傷(123
◎1943/8/9 マルタへ曳航、一時的な修理(〜1943/11/14)、のちにチャールストンにて修理
◎1946/7 ビキニ環礁にて原爆実験標的として使用
◎1948/4/4 クェゼリン環礁にて処分
◎Neutrality Patrol (1, 2). Casablanca, North Africa, Convoy UGS-6, Sicily.
トリップ Trippe DD-403 チャールズタウン海軍工廠 1939/11/1 1946/8/28 1948/2/19 1942/10/19 北大西洋にて駆逐艦ベンソン Benson(DD-421)と衝突し損傷
◎1946/7/1 ビキニ環礁にて原爆実験標的として使用
◎1948/2/3 クェゼリン環礁にて砲撃標的として沈没
ラインド Rhind DD-404 フィラデルフィア海軍工廠 1939/11/10 1946/8/28 1948/4/5 ◎1946/7 原爆実験標的として使用
◎1948/3/22 クェゼリン環礁にて処分
ローワン Rowan DD-405 ノーフォーク海軍工廠 1939/9/23 1943/9/11 サレルノ沖にてドイツ海軍魚雷艇の雷撃により沈没
スタック
12
Stack DD-406 ノーフォーク海軍工廠 1939/11/20 1946/8/29 1948/5/28 ◎1946/7 原爆実験標的として使用
◎1948/4/24 クェゼリン環礁付近にて砲撃標的として沈没
スタレット
12
Sterett DD-407 チャールストン海軍工廠 1939/8/15 1945/11/2 1947/2/25 ◎1936/12/2 起工
◎1938/10/27 進水
◎スタレットは1939年10月28日、新たに就役した駆逐艦2隻、マスティン Mustin(DD-413)ヒューズ Hughes(DD-410)とともにチャールストンを出航し、メキシコ湾で試運転を行った。Vera Cruz、Cristobal、モービル、グアンタナモ湾を訪問したのち、12月20日にチャールストンに戻った。試運転後のオーヴァーホールとトライアルをチャールストンで受け、1940年5月4日に出発した。第15駆逐隊 Destroyer Division 15に配属されたスタレットは、グアンタナモ湾でハマン Hammann(DD-412)と合流し、2隻の駆逐艦はパナマ運河を経由してサン・ディエゴに向かった。5月23日にサン・ディエゴに到着し、1か月間、スタレットは訓練と航空母艦エンタープライズ Enterprise(CV-6)の航空機護衛に時間を割いた。6月24日、エンタープライズとほかの5隻の駆逐艦とともにハワイに向けて出航し、7月2日に真珠湾に到着した
◎そののち10か月間、彼女は真珠湾を拠点として活動し、数々の演習や哨戒に参加した。1941年5月14日にミシシッピ Mississippi(BB-41)が真珠湾を出航すると、スタレットは護衛艦となった。両艦はパナマ運河を通過し、6月28日にノーフォークに到着した。スタレットは次に航空機搭載護衛艦ロング・アイランド Long Island(AVG-1)のバミューダ試運転クルーズ中に同艦を護衛した。1941年を終えたスタレットはワスプ Wasp(CV-7)とともに中立哨戒に従事した。日本軍が真珠湾で太平洋艦隊を攻撃したのち、スタレットはワスプと数隻の巡洋艦および駆逐艦とともにバミューダを出航し、Martiniqueに停泊しているヴィシー・フランス艦隊の攻撃に備えた(画像解説:1941年11月12日、ロング・アイランド(AVG-1)で第8雷撃飛行隊(Torpedo Squadron Eight: VT-8)の空母資格試験中に墜落したSBN-1の残骸を調査するために停止。残骸の一部が中央手前に浮かんでいる機体はBu.No. 1534。パイロットのジョン H. ラングドン少尉 Ensign John H. Langdon, USNRはこの事故で死亡した。米海軍公式写真 U.S. Navy Photograph、現在は国立公文書館 National Archives所蔵)
◎スタレットは戦争初期の数ヶ月間、東海岸沖をパトロールした。1月中旬、第15任務部隊 Task Force (TF) 15と合流し、アイスランドへの輸送船団を護衛するため、ニューファンドランドのArgentiaへ出航。輸送船団は1942年1月23日に2隻の英国駆逐艦に引き継がれ、26日にアイスランドのHvalfjordurに入港した。2月9日にニュー・ヨークで米国に戻ったスタレットは、15日にふたたび出航し、ボストンの防波堤沖で定期船 Queen Maryを出迎え、港まで護衛した。ボストンとメイン州カスコ湾の間を2回往復したのち、スタレットはワスプの護衛の一部として英国本国艦隊の任務に加わった(画像解説:1942年3月22日、ノーフォーク海軍工廠、ポーツマスの乾ドックにて。スタレットは3月19日から22日まで乾ドックに入り、20mm対空砲6基、爆雷投射機(K砲)4基、SCサーチ・レーダーを装備した。この写真の翌日、ワスプ、ウェインライト Wainwright(DD-419)、ラング(DD-399)、ウィルソン(DD-408)とともにミシガン州カスコ湾に向けてノーフォークを出航、123)。任務群は4月4日、指揮官のジョン W. ウィルコックス少将 RADM John W. Wilcoxを残してオークニー諸島のスカパ・フローに入港

↑客船クイーン・メアリー
◎ワスプが奮戦中のマルタに初の空中援軍を行う間、スタレットはスカパ・フローから英国艦隊と訓練を行った。駆逐艦は4月29日から5月15日まで、ワスプの2回目のマルタ派遣に同行し、スカパ・フローに戻ったのち、米国に向かった。機動部隊は1942年5月27日にノーフォークに到着。6月5日、スタレットはサン・ディエゴに向けて出航し、6月19日にサンディエゴに到着した。7月1日に再び出港し、TF 18の一員として、Tongatabuを経由してフィジー諸島に向かった。リッチモンド K. ターナー少将 Rear Adm. Richmond K. Turnerの南太平洋水陸両用遠征軍に編入され、8月1日までフィジーで侵攻技術を練習した
◎スタレットは、ソロモン諸島とビスマーク群島によって形成された島の階段を上って奮闘する連合軍を支援しながら、1942年の残りの期間と1943年の全期間を過ごした。サラトガ Saratoga(CV-3)、エンタープライズ、ワスプが率いる3つの空母任務部隊に守られたソロモン侵攻艦隊は、8月6日遅くにソロモン諸島に到着した。翌朝早く、空母は敵の施設や兵力集中地帯を攻撃するために飛行機を空中に飛ばし、そののち、艦隊は大砲で砂浜を軟化させた。この序曲が終わりに近づくと、海兵隊はガダルカナル、Gavutu、ツラギ、Tanambogoに上陸した。一方、スタレットとワスプ空母群は、雨のスコールの中をジグザグに進み、ラバウルからニュー・ブリテン島に向けて仕掛けられた18機の空襲をうまくかわした
◎そののち3日間、ワスプ部隊はツラギへの補給線を守った。そこからスタレットはサン・クリストバルの東を航行し、ガダルカナルで使用する31機の海兵隊機を発進させる間、ロング・アイランドを護衛した。すぐにワスプに再合流したスタレットは、1942年9月10日にDesDiv 15が切り離されるまで、ワスプにとどまった。その5日後、スタレットの長年の仲間であった空母は太平洋の底に沈んだ
◎そののち1か月間、スタレットはソロモン諸島とその諸島の間で船団と増援を護衛し、少なくとも 1 機の日本軍爆撃機を撃墜。ベラトリックス Bellatrix(AK-20)ベテルギウス Betelgeuse(AK-28)をニュー・ヘブリディーズ諸島のEspiritu Santoまで護衛し、後者をニュー・カレドニアのヌメアまで護衛したのち、兵士と装備を積んだ輸送船 2 隻、マッコーリー McCawley(AP-10)ゼイレン Zeilen(AP-9)を伴ってガダルカナル島に戻った。輸送船が荷降ろしをしている間、スタレットはガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を妨害する敵の爆撃機と沿岸砲台に砲撃した
◎スタレットはニュー・ヘブリディーズ諸島に戻り、燃料補給後、10月31日に海に出航し、ガダルカナル島へのさらなる増援を護衛した。船団は11月4日早朝にアオラ湾に到着した。スタレットは橋頭保の設置を支援し、そののち、サン・フランシスコ San Francisco(CA-38)ヘレナ Helena(CL-50)と合流してコリ岬付近の日本軍陣地を砲撃した。2日後、スタレットはEspiritu Santoに退却した
◎そこで別の輸送船団と合流し、ガダルカナルのルンガ・ポイントまで護衛した。12日の朝、部隊の上陸が始まると、スタレットは予想された空襲に対応するため駐留した。正午過ぎ、ブインの沿岸監視員が日本軍の飛行機の大群を発見したという知らせを受けた。1時間もしないうちに、攻撃機はツラギとフロリダの島々を背景に低く急降下した。スタレットは敵の接近ラインに直接立ち、少なくとも3本の魚雷をかわしながら、4機の魚雷爆撃機を撃墜した。1450時までに、32機の攻撃機が対空砲火と米軍機にはねられた。残りは退却した。輸送船は荷揚げを再開し、スタレットはその日の残りを比較的静かに過ごした
◎その日の夕方、輸送船を東の安全な場所まで送り届けたのち、スタレットはキャラハン少将 Rear Admiral Callaghan指揮下の巡洋艦・駆逐艦部隊の後方に合流し、阿部弘毅少将 Vice Admiral Hiroaki Abeの強襲部隊を迎え撃つため、レンゴー海峡をふたたび航行した。スタレットとその僚艦は、5隻の巡洋艦と4隻の駆逐艦の後衛に続き、ルンガ岬を通過して速度を上げ、タサファロンガの北約3マイルの地点に到達すると、進路を変えた。軍艦がサヴォ島に向かって疾走すると、レーダー画面には敵艦からのエコーが点在した。ヘレナは13日0130時にファースト・コンタクトを報告し、すぐに全てのアメリカ艦船が日本艦船からの反射を受信した。両軍は合計40ktを超える速度で互いに接近していた。アメリカの戦艦は敵の陣形に入り込み、致命的な十字砲火が直ちにスタレットを包囲した。0150時、キャラハン提督は隊列の奇数艦に右舷に、偶数艦に左舷に砲火を放つよう命じた。スタレットは右舷の巡洋艦に発砲し、今度は左舷の戦艦比叡から凄まじい砲撃を受けた。間もなく最初の目標は大爆発に包まれ、アメリカ軍の総攻撃の犠牲となって沈没した
◎この時点で、戦闘は個々の決闘とすれ違いざまの発砲の渦へと堕落した。スタレットは今度は左舷を苦しめる巨艦に目を向け、4本の魚雷を放ち、上部構造に5インチ砲弾を浴びせた。戦艦は沈没することも大きな損害を受けることもなかったが、第3の目標が艦首を横切る前に、スタレットは2本の魚雷を命中させることができた。より大きな敵の出現に、スタレットは砲で駆逐艦を引き裂き、2本の魚雷を発射した。日本の駆逐艦がスタレットに一発の砲弾を撃つ前に、爆発した魚雷によって水面から持ち上げられ、急速に“鉄底海峡 Iron-bottom Sound”の底に沈んだ。この時までに、スタレットは比叡とほかのさまざまな敵艦から残酷な打撃を受けていた。こうして0230時、日本軍がサヴォ島に向かって退却する中、スタレットは後部の砲と右舷魚雷発射管を故障させ、撤退を開始した。操舵装置が損傷し、後甲板の炎を制御するために定期的に速度を落とす必要があったため、ほかの部隊を追い越すのは難しかった。しかし、夜明けまでには、サン・フランシスコの右舷クォーターに陣形を戻した
◎13日にEspiritu Santoへ向かう前、彼女は音波コンタクト(おそらく約1時間後にジュノー Juneau(CL-52)を撃沈する潜水艦)に深度砲撃を行い、敵に別れの一撃を与えた。スタレットは11月14日にニュー・ヘブリディーズ諸島に到着し、緊急修理を受け、10日後にEspiritu Santoを出航した。途中、真珠湾を訪れ(画像解説:真珠湾でのスタレットは1942年12月4日から6日の間、追加修理のために停泊し、そののちガダルカナルの戦いののち、最終修理のためにメア・アイランドに向かった。同艦の53マウントは使用不能になった状態で見ることができ、また54マウント付近の船体には、左舷から砲弾がスタレットの船体を貫通した穴の上に2つの四角いパッチが見られる。1943年2月13日のオリジナルのNARAのキャプションは正しくない。 国立公文書館写真80-G-276606)、サン・フランシスコ湾に入り、メア・アイランド海軍造船所に入港(123)。スタレットは1943年2月10日にサン・フランシスコを出航し、真珠湾でナッソー Nassau(CVE-16)と合流、3月8日にEspiritu Santoに入港した。太平洋戦域に戻ると、スタレットは当初の任務を再開した。ソロモン諸島-ビスマーク諸島方面への輸送船団を護衛し、敵の増援が戦線に移動するのを防ぐためにこの地域をパトロールした
◎1943年8月6日、スタレットはフレデリック・ムースブラッガー中佐 Comdr. Frederick Moosbrugger率いる6隻の駆逐艦任務群の第2駆逐隊で“鉄底海峡”をクルーズしていた。1200時、航空偵察は4隻の駆逐艦からなる敵部隊がヴェラ湾経由でコロンバンガラに兵員と物資を運んでいると報告した。夕暮れ時、6人のアメリカ軍は用心深くギゾ海峡を通過し、ヴェラ湾に入った。真夜中までに、2個駆逐隊はコロンバンガラの海岸を2マイルほど離れて旋回していた。レーダーは約30ktで南に向かっている日本船を捉えた。一個駆逐隊は日本軍の左舷に8本の魚雷を発射し、スタレット隊団は魚雷を放ち、砲で攻撃した。4隻の敵駆逐艦のうち3隻が魚雷を命中させ、5インチ砲でとどめを刺した。唯一の生存者である時雨は高速でブインに撤退した。ヴェラ湾では、スタレットと仲間たちは敵駆逐艦3隻、1,500名以上の水兵と兵士、そして50tの物資の大部分を撃破した
◎8月の残りと9月中、スタレットはソロモン諸島での哨戒に従事した。10月8日、クリーヴランド Cleveland(CL-55)を護衛してオーストラリアのシドニーに到着。2隻の軍艦は24日にEspiritu Santo島に到着した。11月初め、スタレットは攻撃部隊とともにソロモン諸島のブーゲンヴィル島に向かい、11月5日から11日の間、ラバウルで日本艦を爆撃する空母の航空機を支援した。12月9日のナウル島襲撃を行った空母を護衛し、そののち12月27日までニュー・ヘブリディーズ諸島に撤退した。1943年最後の 3 日間、ソロモン諸島でスタレットはアラバマ Alabama(BB-60)を護衛して真珠湾に向かい、エリス諸島へ向かい、1944年1月21日にFunafutiに到着。その2日後、スタレットはバンカー・ヒル Bunker Hill(CV-17)およびモントリー Monterey(CVL-26)とともに出航した
◎1944年1月29日から3月7日まで、スタレットはマリアナ諸島とマーシャル諸島で活動した。29日、同艦の空母の航空機がクェゼリン環礁のロイ島とナムール島を攻撃。次に2月12日にはトラック島を襲撃。5日後、スタレットはテニアン島とサイパン島を襲撃し、空母を護衛した。マーシャル諸島を出発してニュー・ヘブリディーズ諸島に向かい、そこでEmirau侵攻部隊に加わった。スタレットはEmirau Islandから米国への航海の途中、4月4日にフロリダ島のPurvis Bayに寄港し、4月7日にエファテ島を訪問した
◎スタレットは4月16日と17日に真珠湾に寄港し、29日に海軍工廠ピュージェット・サウンドに到着した。4月24日から30日まで造船所で作業を行い、5月3日に海岸沿いにサン・フランシスコ湾まで移動した。48時間後、オアフ島に向けて出航し、10日に真珠湾に到着した。ハワイ諸島で14日間の演習を行ったのち、第12.1任務群 TG 12.1とともにマーシャル諸島に向けて出撃した。5月30日からマジュロに寄港し、6月6日に第58任務部隊 TF 58とともにラグーンを出て、マリアナ諸島侵攻中の支援空母の護衛に当たった。スタレットは6月11日から25日まで空母とともに巡航し、サイパン島、硫黄島、グアム、ロタ島への攻撃のために次々と航空機を発進・回収し、定期的に日本軍の空襲をかわした
◎6月25日から7月7日まで、グアムとロタ周辺の海域を哨戒し、グアムを砲撃した。ヤップ、パラオ、ウルシー環礁の掃海中に空母を援護したのち、ピュージェット・サウンドに向かう途中のエニウェトクに向かった。8月10日から14日まで真珠湾に停泊し、ワシントン州ブレマートンに向かい、20 日に海軍工廠ピュージェット・サウンドに入港した。西海岸でオーヴァーホールと試験を終えたのち、10月13日に西へ出航し、ハワイ諸島に向かった。スタレットはTU 16.8.5とともに11月19日にオアフ島から出撃し、12日後にアドミラルティ諸島のManusのゼーアドラー湾に入港した。1944年のクリスマスの2週間前、哨戒と船団護衛任務のためフィリピンのレイテ湾に入港した
◎クリスマスの翌日、補給船団とともにミンドロ島に向けて出発した。2日後、日本軍が攻撃を仕掛けた。その日の早朝、3機の神風特攻隊がスタレットの船団に急降下した。対空砲火で最初の機は撃墜されたが、2機目と3機目は商船に激突した。ステレットは“神風 Divine Wind”の猛攻撃に耐え、1945年元旦に任務部隊は解散した。その日、ステレットはサン・ペドロ湾に戻り、敵特攻機1機の撃墜を主張し、ほかの2機の撃墜にも貢献した。そののち3ヶ月間、スタレットは南太平洋と中部太平洋の海域を航行し、おもにソロモン諸島での哨戒と船団護衛任務に従事した
◎1945年4月1日には沖縄沖に着き、レーダー・ピケット艦として琉球征服に参加した。沖縄で日本は海軍に特攻機の嵐を浴びせた。特に大きな被害を受けたのは、レーダー・ピケット任務に就いていた艦船だった。4月6日、スタレットは僚艦のベネット Bennett(DD-473)が神風攻撃を受けたため、沖縄の残波岬に同行しなければならなかった
◎その3日後、スタレットも同じ運命をたどった。沖縄の北東にある第4ピケット・ステーションにいたとき、5機の敵機が同艦、LCS-36LCS-24を急襲した。1機目は撃退され、のちに撃墜された。2機目は駆逐艦の主砲で弾き飛ばされたが、3機目は弾幕に打ちのめされながらも攻撃を続け、スタレットの右舷水際に激突した。電力を失ったが、20mm砲と40mm砲で4機目を撃墜。駆逐艦は操舵を失い、全砲門と砲塔の動力を失い、通信は途絶え、前方の燃料タンクは破裂した。しかし、食堂の火災は制御下にあり、操舵制御は艦尾で再確立され、緊急通信線が装備されたため、ジェファーズ Jeffers(DMS-27)が対空援護を行う中、慶良間列島へ移動した。慶良間列島での緊急修理ののち、TU 53.7.1をウルシーまで航行し、そこからロール Rall(DE-304)とともに真珠湾まで航行した。5月1日から10日までオアフ島で過ごしたのち、ワシントン州ブレマートンに移動し、より大規模な修理を行った(1234)。1945年6月、7月、8月の最初の3週間は西海岸に留まった。そして8月21日から28日まで、スタレットは真珠湾に向かった。到着後、1ヶ月間、陸上砲撃と対空砲の訓練を行った。9月25日、ミシシッピ、ノース・カロライナ North Carolina(BB-55)、エンタープライズとともに出航
◎スタレットは10月8日と9日にパナマ運河を通過し、中南米のCoco Soloに3日間滞在したのち、北上した。10月17日にニュー・ヨークに到着し、1945年11月2日に同地で退役した
◎1947/8/10 解体のため、フィラデルフィアのNorthern Metal Co. に売却
◎Neutrality Patrol. Damaged by 22 hits of gunfire from Japanese warships at Battle of Guadalcanal, 13 Nov 1942 (32 killed). Severe damage by kamikaze off Okinawa, 9 Aor 1945 (none killed). Reinforcement of Malta, Guadalcanal, Battle of Guadalcanal, Solomons, Vella Gulf, Buka Raid, 1st Rabaul Raid, 2nd Rabaul Raid, Gilbert Is., Kwajalein, Raid on Truk, Marianas Raids Feb 1944, Saipan, 1st Bonins Raid, Philippine Sea, Guam, Palau-Yap Raids Jul 1944, Lingayen, Okinawa. PUC.
☆DD-407の撃沈スコア(以下の艦船)

・1942/11/13 日本海軍戦艦比叡(12、サヴォ島沖にて雷撃により損傷を与える(魚雷は不発)、のちに自沈)
(←日本海軍戦艦比叡(1941年時))
ウィルソン Wilson DD-408 海軍工廠ピュージェット・サウンド 1939/7/5 1946/8/29 1948/4/5 ◎1946/7 ビキニ環礁にて原爆実験標的として使用
◎1948/3/8 クェゼリン環礁にて処分


Update 24/12/15