アイコン | 意味 |
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません | |
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです | |
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です | |
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です | |
インターネットやTVゲームに登場する事柄です | |
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です |
- ※1920年7月17日、巡洋艦籍 Cruisersの一等巡洋艦 Cruiser, First Lineは1930年4月にロンドン軍縮条約に基づき、重巡洋艦 Heavy Cruiserと名称が変更される
- 軽荷排水量:9,050t 満載排水量:10,559t(CA-27は9,200t、CA-29は9,300t) 全長:182.95m 幅:20.14m 吃水:4.97m(7.01mともいわれる、CA-27は5.02m、CA-29は5.08m) 主缶:ホワイトフォースター缶8基 主機/軸数:パーソンズ式ギアード蒸気タービン4基/4軸 出力:107,000馬力 速力:32.5kt(CA-27、CA-29は32.0kt、CA-30は33.0kt、CA-31は32.7kt) 燃料搭載量:重油3,067t 航続力:15ktで10,000浬 兵装:55口径203mm3連装砲3基、25口径127mm単装対空砲4基、3ポンド砲2基、533mm3連装魚雷発射管2基(1935年には55口径203mm3連装砲3基、25口径127mm単装対空砲4基、3ポンド砲2基、1938年には55口径203mm3連装砲3基、25口径127mm単装対空砲8基、3ポンド砲2基、1945年には55口径203mm3連装砲3基、25口径127mm単装両用砲8基、40mm4連装機関砲5基、40mm連装機関砲4基、20mm機関砲27基、12.7mm機銃8基 装甲:水線76.2mm~95.25mm、砲塔63.5mm、甲板25.4mm~50.8mm、隔壁38.1mm~63.5mm、バーベット38.1mm、司令塔31.75mm 塔載機:水上偵察機6機 乗員:621名~1,030名
- ※メジャー迷彩(アメリカ海軍歴史センターのサイトから、1、2)
- ※CA-29~CA-31は指揮所を設置。CA-26は第1煙突の延長工事をするも1942年にはカット・ダウン
↑Caption: Chester off San Francisco, circa May 1944, painted in Measure 32, Design 9D camouflage, the darkest color being 5-D Dull Black, the medium shade being 5-O Ocean Gray, and the lightest shade 5-L Light Gray. (U.S. Navy Bureau of Ships Photograph 19-N-73470, National Archives and Records Administration, Still Pictures Branch, College Park, Md.)
艦名 | NAME | 艦種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
ノーザンプトン (1、2) |
Northampton | CA-26 | ベスレヘム・スチール社クインシー造船所 | 1930/5/17 | ― | ◎1931/8 ロンドン軍縮条約にて艦種を重巡洋艦(CA-26)に改める 1941/12/14 オアフ島北方海域にて駆逐艦クレイヴン Craven(DD-382)と衝突し損傷 1942/12/1 ルンガ岬沖夜戦(連合軍側呼称:タサファロンガ沖海戦 Battle of Tassafaronga)にて日本海軍駆逐艦の雷撃により沈没 |
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◎Marshall-Gilbert Raids, Wake I. Raid 1942, Marcus Raid, Midway, Buin Raid, Santa Cruz, Battle of Guadalvanal, Tassafaronga. | |||||||
チェスター (1、2) |
Chester | CA-27 | ニュー・ヨーク・シップビルディング社 | 1930/6/24 | 1946/6/10 | 1959/3/1 | ◎1931/8 ロンドン軍縮条約にて艦種を重巡洋艦(CA-27)に改める ◎そののち数ヶ月間、チェスターはナラガンセット湾、ハンプトン・ローズ、南部演習場 Southern Drill Grounds(1931年7月1日~10月30日)での戦術・砲術演習に忙しく従事した。10月14日、チェスターはフランスの重巡洋艦DuquesneとSuffrenとランデヴーし、ヴァージニア州ヨークタウンまで護衛した(10月20日)。さらに演習のために洋上に戻ったのち、チェスターはジョン J. パーシング元帥 Gen. John J. Pershingとその幕僚をロード・アイランド州ニューポートに輸送するためにニュー・ヨークに戻った(10月24-26日)。Pershingは10月27日に下船し、チェスターrは南部演習場でのさらなる演習のためにハンプトン・ローズに向けて出航した。オーヴァーホールのためニュー・ヨーク海軍工廠に入港(1931年11月18日~1932年1月4日) ◎オーヴァーホールののち、チェスターは1932年1月4日にカリブ海での冬季演習(1月14日~2月18日)のために出航した。ハンプトン・ローズ(1月5日~9日)での作戦ののち、チェスターは2月14日にグアンタナモに到着した。2月18日の演習終了後、チェスターは艦隊問題XIII Fleet Problem XIII(3月9日~20日)に参加するため、キューバを出航し、パナマ運河を経由してカリフォルニア州サン・ディエゴに向かった(2月21日)。3月7日にサンディエゴに入港。チェスターは複数の訓練に参加し、戦闘部隊練習(4月4日~11日)では審判艦を務めた。5月11日にハンプトン・ローズに戻ったのち、ニュー・ヨーク海軍工廠(5月13日)に赴き、7月29日まで滞在した。弾薬の積み込みと航空機の搭載(7月30~31日)ののち、チェスターは偵察艦隊 Scouting Fleetに復帰するため8月1日にカリフォルニア州サン・ペドロに向かった。1932年の残りを南カリフォルニア沖で活動した ◎ホノルルで数日(2月1日~6日)を過ごしたのち、艦隊問題XIV Fleet Problem XIV(2月17日~27日)に参加するためサン・フランシスコに向かい、2月28日にサン・ペドロに戻った。チェスターは、サン・フランシスコを経由して5月17日にワシントン州ブレマートンの海軍工廠ピュージェット・サウンドに向けて出航するまでの間(5月23日~29日)、サン・ペドロで訓練と戦術演習を行った。ブレマートンでの整備と修理ののち、チェスターはピュージェット湾で訓練を行い(6月16日~30日)、そののちワシントン州Everettに係留(7月1日~10日)、サン・ペドロで日常業務に復帰した(7月21日~10月23日)。カリフォルニア州Vallejoのメア・アイランド海軍工廠に入港(12月1~2日)し、サン・ペドロに戻って1933年を締めくくった ◎そののち数ヶ月間、チェスターはサン・ペドロから西海岸全体に沿って行動し、4月下旬に一度だけハワイ海域での艦隊問題XV Fleet Problem XV(1934年4月19日~5月12日)のためにこの海域を離れた。演習中、チェスターとヒューストン(CA-30)は35分間の“砲撃戦”を行った。チェスターの指揮官であったマーティン K. メトカーフ大佐 Capt. Martin K. Metcalfは、オブザーヴァー機の回収を可能にするため、“決闘”の停止を命じた。審判団は、両艦がこの戦いで受けた損害は軽微であったと判断した。チェスターはハイチ共和国のGonaives(5月14日~15日)とキューバのハヴァナ(5月15日~26日)に寄港したのち、大西洋沿岸に戻った。1934年7月1日にフィラデルフィアに停泊する前に、大統領海軍観閲式 Presidential Naval Reviewに参加するためニュー・ヨークを訪問(5月31日)。ニューポート(7月11日)、マサチューセッツ州Provincetown(7月12日~19日)を訪問したのち、チェスターはオーヴァーホール(7月20日~10月13日)のためニュー・ヨーク海軍工廠に戻った。グアンタナモ(10月19日~20日)、Gonaives(10月21日~22日)、Cristobal(10月23日~24日)、Balboa(1934年10月25日~29日)に寄港したのち、チェスターは11月9日にサン・ペドロに帰港した ◎チェスターは、艦隊問題XVI Fleet Problem XVI(1935年4月29日~5月31日)のために真珠湾に入港するまで、1935年の冬を母港近くで活動した。5月19日の演習中、黒艦隊 Black Fleetの潜水艦は模擬攻撃でチェスターを“沈めた”。この攻撃はほかの5隻の巡洋艦にも損害を与えた。1935年9月25日、チェスターはパトリック J. ハーリー陸軍長官 Secretary of War Patrick J. Hurleyを乗せ、西太平洋を視察し、フィリピン共和国初代大統領マヌエル J. ケソン Republic of the Philippines, Manuel J. Quezonの就任式に出席した。この航海には、島嶼問題局長 The Bureau of Insular Affairs chiefのクリード F. コックス准将 Brig. Gen. Creed F. Coxとキャンベル B. ホッジス大佐 Colonel Campbell B. Hodgesも同行した。1935年11月2日にフィリピンのマニラに入港する前に、チェスターは長官をホノルル(10月1日~4日)、日本の横浜(10月14日~17日)、中国の上海(10月21日~24日)、英国植民地の香港(10月28日~30日)へ運んだ。マニラ滞在中、チェスターはジョン N. ガーナー米副大統領 Vice President John N. Garner、ジョセフ W. バーンズ米下院議長 Rep. Joseph W. Byrns、ウィリアム F. マーフィー駐フィリピン連邦高等弁務官 Speaker of the U.S. House of Representatives, and, U.S. High Commissioner to the Commonwealth of the Philippines William F. Murphyをもてなした(1935年11月15日)。11月15日の就任式後、ハーリー長官はチェスターで、イロイロ(11月17日)、セブ(11月18日)、Zamboanga(11月19日)、Davao(11月20日)とフィリピン諸島を歴訪した。各地では、米国首席外交官がチェスターで地元政府高官や要人を迎えた。チェスターは11月20日にフィリピンを出発し、グアム、マーシャル諸島(11月24日)、ウェーク島(11月28日)、ミッドウェー島(11月30日)に立ち寄り、ホノルルに向かった。秘書官一行は12月3日にホノルルで下船し、チェスターはオーヴァーホールのためハワイ準州ヒロ(12月6日)、サン・フランシスコ(12月11日~15日)を経由してメア・アイランドに向かった。(1935年12月15日~1936年3月20日) ◎サン・ペドロの母港に戻ったのち(1936年3月21日)、チェスターは艦隊とともにアメリカ大陸沿岸を航海し、チリのValparaisoを親善訪問した(3月29日~6月2日)。航海中、巡洋艦が赤道を越えると、ネプチューン王国にポリウーグ Pollywogsたちを迎え入れるため、初のシェルバック入門式を行った(3月20日、赤道祭のこと)。1936年後半まで、チェスターは西海岸を航行しながら訓練作戦や演習に参加し続けた。10月20日、フランクリン D. ルーズヴェルト大統領 President Franklin D. Rooseveltを乗せてカリブ海と南米を親善訪問するインディアナポリス(CA-35)の護衛を務めるため、サン・フランシスコからチャールストンへ向けて出航 ◎遠征中、ルーズヴェルトはブラジルのリオ・デ・ジャネイロ(11月22日~27日)とウルグアイのMontevideo(1936年11月30日~12月3日)を訪れた。当時、アメリカは平和だったが、海軍での勤務にはまだ危険があった。リオ・デ・ジャネイロで食事中、シャンデリアがケネス・リチャードソン二等水兵 Sea2c Kenneth Richardsonとロバート L. ムジー機関科上等兵曹 MM1c Robert L. Muzzyの上に落下。水兵たちは救急車で船に戻った。リチャードソンは頭皮に8インチの傷を負い、マジーは右手に軽傷を負った。チェスターの医務官は報告書の中で、事故はいかなる不法行為や酩酊の結果でもないと判断した。大統領がチャールストンでインディアナポリスから下船すると(1936年12月15日)、チェスターはサン・ペドロに戻るために切り離された。カリブ海(12月17日)と太平洋(12月19日)での大雨スコールに加え、映画室での火災にも見舞われた。最終的にこの巡洋艦は、クリスマス(1936年12月24日)に間に合うようにカリフォルニア州ロサンゼルス港に無事停泊した。苦難の帰路の途中、ウィリアム A. ホランド一等甲板長補佐(一等兵曹) BM1c William A. Hollandが死亡するという悲劇が艦を襲った。彼の遺体はクリスマスの翌日、12月26日にロング・ビーチの海軍診療所に移された ◎そののち数年間は比較的順調だった。おもにカリフォルニア沖に留まり、訓練や船団問題に参加するために時折ハワイに帰港した。1938年、アラスカ準州アリューシャン列島に初めて寄港し、Valdez(7月7日~9日)、Yakutat Bay(7月10日~12日)に寄港したのち、8月12日にサン・ペドロに帰港した。翌年(1939年)の夏、チェスターはアリューシャン列島に戻り、Dutch Harbor(7月2-5日、10-11日)、カナガ(7月7-8日)、Adak(7月13-15日)、Sitka(7月17-18日)に寄港した。 チェスターがオーヴァーホールのためサンペドロに停泊(1939年8月2日~1940年4月2日)している間、世界は世界的な大混乱へと向かっていた。1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、ヒトラーのレーベンスラウム lebensraum(第三帝国を拡大するための領土)探しが拡大した。その2日後、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告した。真珠湾から戻ったチェスターは、5月11日にメア・アイランド海軍工廠に入港し、弾道防壁の設置、5インチ砲の増設、レーダーの設置などの修理と改造を行い、1940年9月9日まで使用された ◎サン・フランシスコ湾を出航したのち、チェスターはふたたびカリブ海に戻り、訓練と演習を行った(1940年10月4日~12月9日)のち、ニュー・ヨーク海軍工廠で保全(1940年12月19日~1941年1月5日)。ロング・ビーチに戻ったのち(1月21日~27日)、チェスターは真珠湾の新しい母港に移動した(1941年2月3日)。5月14日、チェスターは偵察艦隊とともに出航し、アメリカ西部をクルーズした(5月14日~6月8日) 1941/6/5 SOC-1のBu.No. 9959はカリフォルニア州サン・クレメンテ島上空にて飛行中に9960と衝突した。Bu.No. 9959を操縦するトーマス H. テプニ少尉(USNR) Ens. Thomas H. Tepuni, USNRと同乗のポール J. バローズ三等通信兵曹 RM3c Paul J. Burroughsは、彼らの機体がジャック R. イーガン少尉 Ens. Jack R. Egan, USNRが操縦するBu.No. 9960と衝突した際に脱出している。イーガンも飛行機から飛び降りたが、同乗していたオットー H. ウィルケニング一等通信兵曹 RM1c Otto H. Wilkeningは複葉機から降りることができず、衝撃で死亡した。テプニとバローズは落下中に死亡。イーガンだけがこの事故で生き残った(第5巡洋艦偵察飛行隊(Cruiser Scouting Squadron 5: VCS-5)所属) ◎1941/6/18 真珠湾に戻ったチェスターは、ウィラード A. ホルブルック Willard A. Holbrookとタスカー H. ブリス Tasker H. Blissの2隻の陸軍輸送船(USAT)をフィリピン諸島まで護衛するまで、ハワイ海域で活動した(1941年10月10日~11月13日) 1942/2/1 Wotjeにて日本軍機の爆撃により損傷(1、2、3、4、5、6、7、8) ◎1942年2月3日、チェスターは真珠湾に向かって航行中、第8任務部隊 TF 8とランデヴーした。母港に戻る間(2月3日~28日)、修理を受け、戦死した船員の追悼式を行った。この間、火器管制レーダーが装備され、CXAM-1(VHF)レーダーが艦尾から前方に移設された。また、対空能力を強化するため、3インチ砲の代わりに20mm機関砲と1.1インチ機関砲を設置した。修理後の砲撃訓練(3月1日~7日)ののち、チェスターはC3-P&C型貨客船プレジデント・モンロー President Monroe(MCハル54)を護衛しながらサン・フランシスコに向けて海峡を下り、3月11日に到着した。3月15日、タスク・ユニット(T.U.)15.12の一員としてサン・フランシスコを出航し、フランス領ポリネシアのトンガ諸島Nuku Hivaを目指す客船プレジデント・クーリッジ President Coolidge、Mariposa、Queen Elizabethの護衛を行った。輸送船団は1942年3月27日に目的地に到着した。ニュージー・ランド海軍軽巡洋艦Achilles(C.70)は、4月2日にチェスターの護衛任務を解いた。そして、英国保護領トンガのTongatabu(Tongatapu)に向かって航行中のTF 17に合流した。任務部隊は1942年4月20日にTongatabuに到着した。そのあとすぐに(4月20日から26日)、チェスターを含むTF 17は、ソロモン諸島のツラギへの空襲を支援するため、トンガを出航し、珊瑚海へ向かった ◎1942/6/20 メア・アイランド海軍工廠にてオーヴァーホール(~1942/8/5、1、2、3、4、5) ◎オーヴァーホール後の海上試験と訓練演習のために、8月のほぼ全月にわたってサン・フランシスコ地域にとどまった。9月2日、チェスターは自由フランス領ニュー・カレドニアのNouméaに向けて出航し、Noordan、Klipfontein、Torrens、Tjisdaneの各輸送船を護衛した。月末(9月27日)、チェスターは第62.6進駐群 Occupation Group 62.6と共に、英領西太平洋領土[Tuvalu]のEllice IslandsのFunafuti Atollに上陸する連合軍を監視するために出航した(10月2~4日 1942/10/20 Esporitu Santo北方海域にて日本海軍伊号第一七六潜水艦の雷撃により損傷(魚雷は500平方フィートの破裂を引き起こし、船体全体を陥没させ、船体メッキを数箇所で剥離させた。チェスターのNo. 1とNo. 4エンジン、機械室、No. 1とNo. 2発電機は破壊された。前方の機関室と3番火災室は浸水した。カタパルトの上に座っていたシーガル Seagull(Bu.No. 9861、Bu.No. 0399)は損傷したため、投棄を余儀なくされた。レナード・ゲイター一等水兵 Sea1c Leonard Gaither, USNR、ヴィクター C. ウィリー機関科一等兵曹 MM2c Victor C. Willie、オットー K. ジャクソン二等消火兵曹 F2c Otto K. Jacksonが海中に吹き飛ばされた。ウィリーとジャクソンの遺体は回収されたが、ゲイターは発見されなかった。ウィリアム S. モーガン二等水兵 Sea2c William S. Morgan, USNR、ケネス E. アーウィン機関科上等兵曹(代理) CMM(AA) Kenneth E. Erwin、オットー F. E. ホップ機関科上等兵曹 MM1c Otto F. E. Hopf、 アルロ L. チェンバレン機関科上等兵曹 MM1c Arlo L. Chamberlain、MM2c Robert K. Duggins、ウィルバー F. フィスク一等消火兵曹 F1c Wilbur F. Fisk、エドガー M. ミラー一等消火兵曹 F1c Edgar M. Miller、ロバート B. ホートン一等消火兵曹 F1c Robert B. Hortonもこの攻撃で死亡した)。10月21日、No. 3エンジンの過度の振動のため、乗員はエンジンを停止せざるを得なくなり、2日後、チェスターはニュー・ヘブリディーズ諸島のEspiritu Santo(ヴァヌアツ)に到着した ◎1942/11/8 シドニーのCockatoo Island Dockyardにて修理(~1942/11/25) ◎1943/1/25 ノーフォーク海軍工廠にてオーヴァーホール(~1943/8) ◎1943/9/15 メア・アイランドにてオーヴァーホール(~1943/10/2、1、2、3、4、5) ◎1943年11月18日夜、チェスターとその編隊は、タラワの南西90海里で日本軍の魚雷機の攻撃を受けた。チェスターは空母を守るために砲門を開いた。この攻撃で、マリオン V. B. ホフマン海兵隊伍長 Cpl. Marion V. B. Hoffman, USMCは、砲弾が前部で爆発し、腹部と右腕に重傷を負った。ホフマンの負傷には手術が必要だったが、この“レザーネック leatherneck”は頑丈であることが証明され、彼は回復してチェスターで任務を続けた ◎1943年11月19日早朝、チェスターとその仲間は、ギルバート諸島タラワ環礁のBititu Islandで敵に戦力を投入した。チェスターはこの日の戦闘で損害を受けなかったが、エマニュエル V. ナタザリア二等水兵 Sea2c Emanuel V. Nataliziaはファンテイルで40mm機関砲を操作中、砲弾の破片で右肩甲骨を強打した。VCS-5のマニュエル F. ブランコ大尉 Lt. Manuel F. Blanco, USNRが搭乗するチェスターのOS2U-3(Bu.No. 5439)は燃料切れで帰投できなかった。駆逐艦アーベン Erben(DD-631)はブランコと彼のオブザーヴァーであるハリー G. ライリー三等航空通信兵曹 ARM3c Harry G. Rileyを回収し、機関砲で機体を撃沈した ◎1943年11月26日、チェスターはTG50.3から切り離され、ギルバート諸島[Kiribati]のAbemama Island南方海域で戦艦メリーランド Maryland(BB-46)と攻撃輸送艦ハリス Harris(APA-2)とランデヴーした。Abemamaでの上陸作戦(12月1日~7日)を支援したのち、チェスターはFunafuti(12月9日)に向けて航行し、悪天候のために中止された砲撃演習のために出航した以外は、新年まで港に留まった。1944年1月のほぼ1ヶ月間、チェスターはFunafutiに係留されていた。1月5日に入港中、ダドリー W. ヒルマン大尉Lt. Dudley W. Hillman, USNRが操縦するキングフィッシャー(Bu.No. 5693)の1機が、救難航洋曳船ATR-44の左舷桁端 port yardarmに墜落し、沈没し始めた。機体はチェスターまで曳航され、吊り上げられ、完全な大破機となった。さらに悪いことに、もう1機のキングフィッシャー(Bu.No. 5807)に乗っていたドワイト C. スライガー大尉 Lt. Dwight C. Sliger, USNRは、衝突を避けるために対気速度を落としたため、左舷のポンツーン port pontoonが外れるほどの勢いで機体が水面に墜落した。スライガーはチェスターまでタキシングで戻ることができ、同艦の航空機ショップが修理を行うことができた。ヒルマンの航空機は真珠湾への輸送のために船から移された。最終的に1944年1月23日にTG 58.2で航行中、チェスターは翌日、彼女のNo. 2メイン・エア・ポンプを修理するためにFunafutiに戻った。修理がすぐに完了したため、チェスターは1943年1月26日に同港を出航し、マキン島近海で軽敷設艦ラムジー Ramsay(DM-16)およびプレブル Preble(DM-20)と合流した。そして3隻は一緒にタラワに向かった ◎1944年1月30日から2月18日まで、チェスターは重巡洋艦ソールト・レイク・シティ Salt Lake City(CA-25)、プレブル、ラムジー、駆逐艦アボット Abbot(DD-629)、ヘイル Hale(DD-642)とともにマーシャル諸島のタロア島とウォッチェ島への複数の砲撃に参加した。2月6日、チェスターはダリオ M. ラスチオ中尉 Lt. (j.g.) Dario M. Raschio搭乗のキングフィッシャー(Bu.No. 5934)とヒルマン大尉 Lt. Hillman搭乗のキングフィッシャー(Bu.No. 5807)を着陸時に転覆させ失った。ヘイルと駆逐艦ブラック Black(DD-666)は砲撃で飛行機を沈めた。砲撃任務を終えたチェスターは、クェゼリン環礁に向かう前にマーシャル諸島のマジュロに移動した(1944年2月19日~26日)。2月27日から3月20日にマジュロに戻るまでクェゼリンに留まり、戦艦ニュー・ジャージー New Jersey(BB-62)とTG 50.15と出撃した(1944年3月22日から4月7日)。4月25日、チェスターはサン・フランシスコでの短期オーヴァーホールのため、マジュロからアメリカに向かった。航海中の4月28日、ウィリアム F. ノックス海軍長官 Secretary of the Navy William F. [Frank] Knoxの訃報を受け、半旗を掲げた ◎チェスターは1944年5月6日にサン・フランシスコに到着し、5月22日にはAdakでの任務のために航行し、5月27日に同地に到着し、TF 94に合流した。TF 94はアリューシャン海域で活動し、6月10日にアッツをクリアし、6月13日に千島列島の松輪島(ロシアのサハリン州、マトゥア島)を砲撃した。TF 94はアッツに戻り(6月15日~23日)、そののち6月26日に千島列島に戻り、幌筵島(ロシアのサハリン州、パラムシル)を砲撃した。7月中、チェスターはTF 94とともに行動し、訓練演習に参加した。8月8日には、第5巡洋隊(CruDiv 5)とともに真珠湾に向かい、月末にTF 12.5とともにエニウェトクに向かうまでそこに留まった ◎そののち数ヶ月間、チェスターはウェーク島(1944年9月3日)、マーカス島(日本の南鳥島)(10月9日)の砲撃、硫黄島(1944年11月11~12日)に対する作戦に参加した。また、フィリピン諸島のルソン島(10月18~19日)とサマール島(10月20日)での航空攻撃では、航空母艦ホーネット Hornet(CV-12)とワスプ Wasp(CV-18)を支援した。第5巡洋隊とともにウルシー環礁で待機中、11月20日早朝に混乱が起こった。チェスターは無線で、環礁内のムガイ水路 Mugai Channelから2,000ヤード外側に潜望鏡を見たという数隻の船を聞いた。0530時、チェスターの見張りが潜望鏡を発見した。巡洋艦は回避行動をとり、潜水艦に突っ込むか、少なくとも魚雷の発射を防ぐために距離を近づけた。同時に、駆逐艦ケイス Case(DD-370)は、敵を回避しようとして、チェスターに向きを変え、左舷に強く寄せることを余儀なくされた。数分後、ケイスはミゼット潜水艦と衝突した。数分以内に、給油艦ミシシネワ Mississinewa(AO-59)は魚雷に打たれ、すぐに炎に包まれた。0900時、ミシシネワは横転し、乗組員60名を海底に沈めた。戦後の分析では、日本の人間魚雷回天(伊号第四七潜水艦または伊号第三六潜水艦によって発射された)によって沈没したと断定された ◎チェスターは1944年11月21日にマリアナ諸島[アメリカ連邦]のサイパンに入港。TU 94.9の一員として、硫黄島での継続作戦(12月8日、24日、27日)に参加。彼女はサイパン港でその年を終えた。1945年1月1日、チェスターはTG 94.9とともに父島、母島、小笠原軍島、硫黄島を砲撃する。激しいスコールが降る中、任務群が指定された目標地域に到着した時(1月5日)、駆逐艦ファニング Fanning(DD-385)とダンラップ Dunlap(DD-384)は日本の第百七号輸送艦を発見し、0220時に砲撃を開始した。この補助船は耐久力のある船であることが証明された。ファニングとダンラップの1時間以上にわたる総力戦ののち、この船は沈むことを拒否した。彼女がついに屈したのち、駆逐艦は生存者の捜索を開始した。任務群司令官であるアラン E. スミス少将 Rear Adm. Allan E. Smithから何人の日本人が捕虜になったたかを尋ねられたファニングは、“生存者をピックアップしようとしたが、彼らは我々の招待を断った”と無線で答えた。索敵機を発進させることができず、任務部隊はその精度を判断することができないまま、父島を2時間砲撃した。そののち、一団は母島方面へ移動し、硫黄島へ進路をとる前に沖村港を短時間砲撃した。数時間後、チェスターは5インチ砲で硫黄島の本山第2飛行場を砲撃した。銅艦がその地域から退却するとき、飛行場で飛行機が燃え、弾薬庫が爆発するのが見えた (↑日本海軍二等輸送艦) ◎チェスターはウルシーと硫黄島の間で活動を続けた。ウルシー(1945年1月26日~2月9日)での短期間の維持と弾薬の補給ののち、チェスターはふたたびTF 54とともに硫黄島に向けて出発した。3日間(1945年2月16~19日)の間、チェスターは高い成功率で日本の砲台を叩いた。同艦の索敵機と協力して、チェスターは2つのピルボックス(〔機関銃を配置した〕小型シェルター、トーチカ)に直撃弾を命中させ、複数の砲台を沈黙させ、1つの砲をその護岸から叩き出し、自動小銃の位置を破壊した。2月17日にペンサコラ Pensacola(CA-24)が敵の砲撃で大損害を受け炎上したのち、チェスターは問題の砲台に焦点を移した。主砲と副砲の両方を使い、チェスターは数分以内に敵砲を沈黙させた。上空にいたキングフィッシャーの一人が、チェスターの最後の一斉射撃が2門の砲台の中心に命中したと報告した。戦闘が中断されることなく、チェスターは、標的のために海岸線を偵察している海軍水中解体チーム(Navy Underwater Demolition Teams: UDT)を搭載した2隻の歩兵揚陸艇(大型)LCI(L)が敵の激しい砲火を浴びているのを観察した。チェスターはフロッグマンに援護を与えるため、彼女の5インチ砲を移動させた。LCI(L)の内の1隻は攻撃を受けて炎上し、2隻目は米駆逐艦からの砲撃を受けて転覆したとチェスターは観察した ◎1945年2月18日、午前中の激しい戦闘ののち、チェスターは1335時に硫黄島からの10分間の集中砲火の標的になり、フレデリッヒ E. キルシュ伍長 Cpl. Frederich E. Kirschとジョン・フェディック一等兵 Pfc. John Fedickの2名の海兵分遣隊員が負傷した。1642時、砲弾がチェスター上空を通過し、300ヤード離れた地点に落ちた。海岸に閃光は見られなかった。その数分後(1648時)、さらに3発の砲弾がチェスター上空を通過し、すぐそばで水しぶきを上げた。TU 54.1.4(CTU 54.1.4)の司令官はTF 52(CTF 52)に無線連絡し、彼のエリアで“大口径の水しぶき”を報告した。1700 時、戦艦アイダホ Idaho(BB-42)、重巡洋艦ソールト・レイク・シティ Salt Lake City(CA-25)、チェスターの近くにさらに3発の砲弾が落ちたが、島には相関する閃光はなかった。CTF 52は、島の反対側で活動している戦艦アーカンソー Arkansas(BB-33)と重巡洋艦タスカルーサ Tuscaloosa(CA-37)に、オーヴァーシュートと跳弾がTU 54.1.4に落ちているので、砲撃をチェックするように無線連絡した。入ってくる砲弾は止まった 1945/2/19 硫黄島にて水陸両用攻撃が始まる直前、チェスターと揚陸指揮艦エステス Estes(AGC-12)は、それぞれのDデイ陣地へ向かう途中で衝突した。チェスターは右舷クォーターに一撃を受けた。損傷を評価するために停船することもできず、チェスターは任務を続行した。船の性能は右舷のスクリューを失ったことを示しており、検査の結果、III番砲塔は構造的な損傷を受けていた。砲が発射されたときに何が起こるかわからないという懸念があったため、砲塔は使用不能となった。損傷にもかかわらず、チェスターはさらに2基の砲台を沈黙させ、1基は一発の砲撃で沈黙させ、3基の小型砲に直撃弾を命中させ、もう1基の自動小銃陣地を破壊した。火力支援の任務を終えたチェスターは硫黄島から退却し、2月21日にサイパンに入港した ◎チェスターは1945年2月23日、真珠湾に向かう進路をとり、ダンラップがボロボロの巡洋艦を護衛した。海上で数日後、チェスターとその仲間は2月27日、墜落したC-87Aリベレーター・エクスプレス Liberator Expressの生存者を捜索する命令を受けた。B-24の幹部輸送ヴァージョンであるこの航空機は、グアムからワシントンD.C. まで、太平洋方面の陸軍航空軍司令官ミラード・ハーモン中将 Lt. Gen. Millard Harmonを運んでいた。燃料が枯渇し、捜索を続けられなくなったチェスターは、捜索を断念し、真珠湾への航海を再開した。チェスターは1945年3月3日に真珠に到着し、翌日オアフ島を離れ、定期オーヴァーホールのためメア・アイランドに向かった。3月5日、彼女は大海原に遭遇した。そののち、海水による汚染のため、20mm弾薬560発を廃棄した。3月4日にメア・アイランドに到着し、オーヴァーホールとサン・フランシスコ海域での試運転が終了するまで同海域に留まった ◎1945/3/10 メア・アイランド海軍工廠にてオーヴァーホール(~1945/5/16、1、2、3、4、5、6、7、8) ◎オーヴァーホール中も硫黄島では戦闘が続き、1945年4月1日に沖縄戦が始まった。完全に修理されたチェスターは、5月16日にメア・アイランドを出発し、サンディエゴに向かった。5月27日に目的地に到着し、翌日に駆逐艦ホープウェル Hopewell(DD-681)とともに真珠湾に向けて出航した。2隻は1945年6月3日に目的地に到着した。ホープウェルとの訓練(1945年6月5日~8日)ののち、チェスターはウルシーに向けて出航(6月11日)、そこでハドソン Hudson(DD-475)と合流し、沖縄本島近海に向けて出港(6月21日)。彼女が出発した同じ日、沖縄は安全を宣言されたが、日本は厳しい抵抗を続けた。チェスターは6月22日から、1945年7月15日に沖縄のBuckner Bay(中城湾)に入港するまで、TF 32とともに継続的に哨戒、護衛、掃海活動を行った。TF 32がTF 95.3に改編されたのち、チェスターは新しい任務部隊に加わり、揚子江デルタの外側で活動する沿岸打撃群TG 95.2の航空援護を行うため、中国の上海沖の南東に横付けされた(1945年7月26日~28日) ◎8月1日、沖縄に接近していた台風を避けるため、Buckner Bayに入港中のTU 95.5.29は編成を整え、サイパンに向けて出航。海上で対空練習を行っていたソールト・レイク・シティは、不注意から砲弾をチェスターのフォアマストに当て、船員の一名を負傷させた ◎チェスターは1945年8月20日、本州陸奥湾大湊港に向かう第4艦隊 Fourth Fleetとランデヴーするため、第5巡洋隊および第56駆逐戦隊Destroyer Squadron (DesRon) 56とともにAdakを出航し、アッツに向かった。ランデヴーした翌日の1945年9月2日、日本代表は戦艦ミズーリ Missouri(BB-63)の甲板上で降伏文書に調印した。新たに編成された第42任務部隊 TF 42は、1945年9月9日に両用部隊旗艦の揚陸指揮艦パナミント Panamint(AGC-13)で大湊基地の降伏を受け入れるため、9月8日に大湊港に到着した。そののち数週間、チェスターは日本海域を哨戒し、函館(10月3~4日)と北海道の小樽(10月5日)に寄港したのち、1945年10月8日に大湊港に停泊した。10月29日、チェスターは真珠湾への輸送のために乗客を乗せ、10月30日に硫黄島に向けて出発した。大波のため船は速度を落としたが、11月1日に目的地に到着し、翌日700名の海兵隊員を乗せて米国に帰港した。真珠湾に到着すると(1945年11月10日)、当初の任務はパナマ運河を経由して大西洋に向かうことだった。チェスターは、アメリカ軍兵士を母国に帰還させる“マジック・カーペット作戦 Operation Magic Carpet”に参加するよう再任命された。真珠湾では、帰還兵を収容するため、巡洋艦に臨時停泊所が設置された。11月18日、サン・フランシスコに向けて出航し、乗組員の3分の1近くが早期除隊に必要なポイントを獲得し、戦時中の故郷に別れを告げた。11月24日、チェスターは帰国するアメリカ人を乗せるため、グアムに向けて基幹要員 skeleton crewの乗員とともに出航した。12月17日にはサン・フランシスコに入港し、4年ぶりの平時のクリスマスと新年を祝った。 チェスターは1946年1月14日、第4予備艦隊 4th Reserve Fleetへの配属命令を受け、フィラデルフィア海軍造船所に向けて出航した。1月24日に到着し、1946年1月30日に予備艦隊の活動停止状態に置かれた。当初、チェスターは2月に処分される予定であったが、3月に外国への売却が検討されたため、その命令は延期された。3月から6月まで、巡洋艦は予備艦隊に係留された ◎1947年1月に第4海軍区 4th Naval Districtでの解体が決定されたが、海軍作戦部長室(Office of the Chief of Naval Operations: CNO)から猶予を受けた。1951年2月、CNOはチェスターの定期整備再開を命じた。同艦はさらに8年間予備艦隊に留まった ◎1959/8/11 解体のため、ニュー・ヨークのUnion Minerals & Alloys Corp. に売却 ◎のちにPanama Cityにて解体 |
◎Marshall-Gilbert Raids, Coral Sea, Gillbert Is., Kwajalein, Palau-Yap Raids Mar 1944, Kurile Is., Marcus I. Raid Oct 1944, Luzon Raids Oct 1944, Iwo Jima Bombard., Iwo Jima, Okinawa, Raids on Japan Jul-Aug 1945, Operation Magic Carpet. | |||||||
ルイヴィル (1、2) |
Louisville | CA-28 | 海軍工廠ピュージェット・サウンド | 1931/1/15 | 1946/6/17 | 1959/3/1 | ◎1931/7/1(1931/8?) ロンドン軍縮条約にて艦種を重巡洋艦(CA-28)に改める ◎1942春? メア・アイランドにて改装(1、2、3、4、5、6、7、8) ◎1943/10/8 メア・アイランドにてオーヴァーホール(~1943/12/24、1、2) 1944/1/31(1944/2/1?) マーシャル諸島にて日本軍の陸上砲台の砲撃により損傷 1945/1/5 リンガエン湾にて日本軍の特攻機の攻撃により損傷 1945/1/6 リンガエン湾にて日本軍の特攻機の攻撃により損傷(1、2) ◎1945/2/6 メア・アイランド海軍工廠のDrydock No. 2にて修理、オーヴァーホール(~1945/4/13、1、2、3、4、5、6、7、8、新しいのと交換し、撤去した古い2番砲塔(1945年1月6日にリンガエン湾にて日本軍の特攻機の攻撃により損傷)をのちにローレンス・リヴァモア国立研究所ネヴァダ核実験場のYucca Flats valley areaにて設置といわれる) 1945/6/5 沖縄海域にて日本軍の特攻機の攻撃により損傷 ◎1945/6中旬 真珠湾にて修理 ◎退役後、大西洋予備艦隊に編入 ◎1959/9/14 解体のため、ニュー・ヨークのMarlene Blouse Corp. に売却 ◎のちにPanama Cityにて解体 号鐘はケンタッキー州ルイヴィルに寄贈(1、2、3) |
◎Damaged by two Kamikazes off Luzon, 5 Jan
(1 killed) and on bridge, 6 Jan 1945 (32
killed, including RADM Theodore Chandler).
Marshall-Gilbert Raids, Battle of Guadalcanal,
Rennell I., Attu, Kwajalein, Eniwetok, Palau-Yap
Raids Mar 1944, Hollandia, Truk Raid Apr
1944, Saipan, Tinian, Guam, Palau, Luzon
Raids Oct 1944, Leyte, Surigao Strait, Okinawa. ☆CA-28の撃沈スコア(以下の艦船) ・1944/10/25 日本海軍戦艦扶桑(スリガオ海峡にて漂流中の真っ二つになった艦尾を撃沈) (←日本海軍戦艦扶桑(1944年時)) |
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シカゴ (1、2) |
Chicago | CA-29 | メア・アイランド海軍工廠 | 1931/3/9 | ― | ◎1931/8 ロンドン軍縮条約にて艦種を重巡洋艦(CA-29)に改める 1933/10/24 Point Surにてイギリスの貨物船Silver Palmと衝突し損傷 ◎1933/10/25 メア・アイランド海軍工廠のDrydock No. 2にて修理(1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13) 1942/8/9 第一次ソロモン海戦(連合軍側呼称:サヴォ島海戦 Battle of Savo Island)にて日本海軍艦艇の砲雷撃により損傷、のちにNoumea(1、2)、のちにシドニーにて入渠、一時的な修理 ◎1942/10中旬 メア・アイランド海軍工廠にて入渠、修理(1、2、3、4、5) 1943/1/29 レンネル島沖海戦(連合軍側呼称:Battle of Rennell Island)にて日本海軍機の雷撃により損傷(1、2) 1943/1/30 重巡洋艦ルイヴィル(CA-28)が曳航、のちに艦隊曳船ナヴァホ Navajo(AT-64)が曳航するも日本海軍機の雷撃により沈没 |
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◎Coral Sea, Guadalcanal-Tulagi, Savo I., Rennell I. | |||||||
ヒューストン (1、2、3) |
Houston | CA-30 | ニューポート・ニューズ・シップビルディング&ドライ・ドック社 | 1930/6/17 | ― | ◎1931/7/1 ロンドン軍縮条約にて艦種を重巡洋艦(CA-30)に改める 1933/4/1 上海にてフランス海軍砲艦Francis-Garnierと衝突し損傷 1933/10/7 上海にて駆逐艦ピアリー Peary(DD-226)と衝突 ◎1939夏? 真珠湾にてオーヴァーホール 1942/2/4 ジャワ沖海戦(連合軍側呼称:Battle of Makassar Strait)にて日本軍海機の爆撃により3番砲塔を損傷 1942/3/1 バダヴィア沖海戦(連合軍側呼称:スンダ海峡海戦 Battle of the Sunda Strait)にて日本海軍重巡洋艦最上、三隈、駆逐艦敷波の雷撃により沈没 |
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◎Carried President Franklin Delano Roosevelt on Caribbean cruise, Jul 1934; also 4 Jul 1938 and Jan 1939. Philippines, Java Sea. PUC. | |||||||
オーガスタ (1、2) |
Augusta | CA-31 | ニューポート・ニューズ・シップビルディング&ドライ・ドック社 | 1931/1/30 | 1946/7/16 | 1959/3/1 | ◎1931/8 ロンドン軍縮条約にて艦種を重巡洋艦(CA-31)に改める ◎1934初春? キャヴィテにてオーヴァーホール ◎1934/12下旬 キャヴィテにてオーヴァーホール、のちにOlongapo Naval Stationの工廠用浮きドック(非自走)デューイ Dewey(YFD-1)にて入渠 ◎1935/12中旬? キャヴィテとOlongapoにてオーヴァーホール(~1936/2下旬?) ◎1936/12 キャヴィテ海軍工廠にて修理、改装 1937/8/20 上海にて日本軍の流れ弾により損傷 ◎1938初春? オーヴァーホール ◎1940/12中旬 メア・アイランド海軍工廠にてオーヴァーホール(~1941/4上旬?) ◎1944/9上旬 フィラデルフィアにてオーヴァーホール 1944/11/20 オーヴァーホール中、ice machine roomにて爆発事故 ◎1945/2下旬 ノーフォークにて緊急修理(~1945/3/7) ◎退役後、フィラデルフィアにて大西洋予備艦隊に編入 ◎1959/11/9 解体のため、Panama CityのRobert Benjaminに売却 ◎1960/3/2 Robert Benjaminに引き渡される ◎のちにKearnyにて解体 |
◎Asiatic Fleet 1933-1940. Neutrality patrol. Carried President Roosevelt to Argentina meeting with Churchill, Aug 1941. Action with French warships off Casablanca, 8 Nov. 1942. Carried President Harry S. Truman to Potsdam Conference, Jul 1945. North Africa, Normandy, Southern France, Operation Magic Carpet. |
Update 24/11/24