CA
一等巡洋艦、重巡洋艦

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※1920年7月17日、巡洋艦籍 Cruisersの一等巡洋艦 Cruiser, First Lineは1930年4月にロンドン軍縮条約に基づき、重巡洋艦 Heavy Cruiserと名称が変更される
軽荷排水量:9,097t(9,100tともいわれる) 満載排水量:11,500t(13,700tともいわれる、CA-25は10,826t) 全長:178.51m(CA-25は178.46m) 幅:19.88m 吃水:4.62m(6.83mともいわれる、CA-25は5.30m) 主缶:ホワイトフォースター缶8基 主機/軸数:パーソンズ式ギアード蒸気タービン4基/4軸 出力:107,000馬力 速力:32.0kt(32.5ktとも32.8ktともいわれる、CA-25は32.7kt) 燃料搭載量:重油3,592t 航続力:15ktで10,000浬 兵装:55口径203mm3連装砲2基、55口径203mm連装砲2基、25口径127mm単装対空砲4基、3ポンド砲2基、533mm3連装魚雷発射管2基(1945年には55口径203mm3連装砲2基、55口径203mm連装砲2基、25口径127mm単装対空砲4基、40mm4連装機関砲6基、20mm機関砲20基) 装甲:水線63.5mm~101.6mm、砲塔63.5mm、甲板25.4mm、隔壁63.5mm、バーベット19.05mm、司令塔31.75mm 塔載機:水上偵察機4機 乗員:653名~1,193名(CA-25は612名)
※メジャー迷彩(アメリカ海軍歴史センターのサイトから、12
※1944年には後檣は撤去、第2煙突後部に大型後部指揮所を設置
↑ペンサコラ級重巡洋艦ペンサコラ(CA-24、戦前時)
※下の画像はスウェーデン海軍にもしペンサコラ級が就役していたらの図である。イタリアはスウェーデンに2隻の巡洋艦を売ることも考えていた。スウェーデンの委員会は、イタリアの巡洋艦の速力を気に入ったが、火力とやはり軽快な速度からアメリカの巡洋艦を好んでいた。スウェーデン海軍は新造船よりも中古船を買いたいので、スウェーデンの代表団がフランクリン D. ルーズヴェルト大統領 President Franklin Delano Rooseveltに直談判し、アメリカの巡洋艦2隻の購入を依頼したという話である。するとFDRは本棚からペンサコラ級の写真が載っている本を取り出し、“これならうまくいくだろう”と言ったそうだ。上院でも反対票が一票差で勝り、ある人はこう言った。“海軍は毎年新造船の予算を要求しているのに、その内の幾つかを売ろうとするのか!”。結局、スウェーデンはイタリアから巡洋艦を手に入れることはなかったが、第二次大戦という不都合な出来事があったためである。結局、スウェーデンはTre Kronor(123)とGöta Lejon(123)を建造し、スウェーデンとチリ海軍の両方に長い間仕えることになるのである

↑Image courtesy of Shipbucket.

艦名 NAME 艦種記号 建造所 就役日 退役日 除籍日 備考
ペンサコラ
12
Pensacola CA-24 ニュー・ヨーク海軍工廠 1930/2/6 1946/8/26 1948/11/10 ◎1931/7/1 ロンドン軍縮条約にて艦種を重巡洋艦(CA-24)に改める
1942/11/30 ルンガ沖夜戦(連合軍側呼称:タサファロンガ沖海戦 Battle of Tassafaronga)にて日本海軍駆逐艦の雷撃により損傷(12345678
◎1942/12上旬 ツラギ港にて工作艦ヴェスタル Vestal(AR-4)により緊急修理
◎1943/1下旬 真珠湾海軍工廠にて修理、改装(123
◎1944/5/6 メア・アイランドにて修理、改装(~1944/5/20、12
1945/2/17 硫黄島にて日本軍の沿岸砲台の砲撃により損傷、のちに一時的な修理
1945/3/31 沖縄海域にて戦車揚陸艦LST-277と衝突し損傷
◎1945/5/7 メア・アイランド海軍工廠にてオーヴァーホール(~1945/7/11、12
◎1946/7/25 ビキニ環礁にて原爆実験標的として使用
◎1946/8/24 Kwajaleinへ曳航
◎1948/11/10 ポートランドにて標的として沈没(123
◎Pearl Harbor Arrived - 27 January 1943, Complete - 8 November 1943, Dock - 2 February 1943, Undock - 7 March 1943, Redock - 29 April 1943, Undock - 5 June 1943, Redock - 6 June 1943, Undock - 1 July 1943, Redock - 17 October 1943, Undock - 20 October 1943. Returned from sea trials and training. Final minor repairs accomplished. Ship to depart this date. Salamaua-Lae Raid, Midway, Buin Raid, Santa Cruz, Battle of Guadalcanal, Tassafaronga, Gilbert Is., Kwajalein, Palau-Yap Raids, Kurile Is., Marcus I. Raid Oct 1944, Luzon Raids Oct 1944, Iwo Jima Bombard., Iwo Jima, Okinawa, Operation Magic Carpet.
ソールト・レイク・シティ
12
Salt Lake City CA-25 ニュー・ヨーク・シップビルディング社 1929/12/11 1946/8/29 1948/6/18 ◎1931/7/1 ロンドン軍縮条約にて艦種を重巡洋艦(CA-25)に改める
◎1933/10 海軍工廠ピュージェット・サウンドにてオーヴァーホール(~1934/1)
1942/10/11 サヴォ島沖海戦(連合軍側呼称:エスペランス岬沖海戦 Battle of Cape Esperance)にて日本海軍艦艇の砲撃により損傷
◎1942秋 真珠湾にて修理
1943/3/26 アッツ島沖海戦(連合軍側呼称:コマンドルスキー諸島海戦 Battle of the Komandorski Islands)にて日本海軍艦艇の砲撃により損傷
◎1944/5/6 メア・アイランド海軍工廠にてオーヴァーホール(~1944/6/27、123
◎1945/5下旬 レイテにて修理
◎1946/7/1 ビキニ環礁にて原爆実験標的として使用
◎1946/7/25 ビキニ環礁にて原爆実験標的として使用
◎1948/5/25 カリフォルニア南西海域にて標的として沈没
◎Marshall-Gilbert Raids, Wake I. Raid 1942, Marcus I. Raid, Guadalcanal-Tulagi, Cape Esperance, Komandorski Is. (1, 2, 3), Attu, Gilbert Is., Kwajalein, Palau-Yap Raids Mar 1944, Marcus I. Raid Oct 1944, Luzon Raids Oct 1944, Iwo Jima Bombard., Iwo Jima, Okinawa, Raid on Japan Jul-Aug 1945, Operation Magic Carpet.
☆CA-25の撃沈スコア(以下の艦船)
・1943/3/27 日本海軍重巡洋艦那智(アッツ島沖にて損傷を与える)
(←日本海軍重巡洋艦那智(1940年時))


Update 24/08/10