DD
駆逐艦

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※PSAは試験航海後の有用性(Post Shakedown Availability)の略(ABC順)。ドッグ・ウォッチ(Dog Watch)とは、海上監視システムにおいて、標準的な監視期間の半分の長さの作業シフト(“ウォッチ”としても知られる)である。この場合、16時から18時までが“第一”ドッグ・ウォッチ、18時から20時までが“第二”または“最終”ドッグ・ウォッチとなる。この時計が存在するのは、乗組員が全ての時計を回るためには、1日のうち奇数個の時計が必要だからである。1つの当直を半分に分けることで、毎晩1つのチームが中番をする代わりに、船員は別々の当直をすることができる。また、2つの時計がある場合、両方の時計がほぼ同じ時刻に夕飯を食べることができる。語源はオックスフォード英語辞典によると、“ドッグ・ウォッチ”という言葉は、ドイツ語またはオランダ語の類似語を直訳したものである。また、シリウス Siriusが夜間に見ることの出来る最初の星であるという主張から、“犬の星”であるシリウスに由来するとも言われている。別の民間語源としては、これらの“半”見張りを任された者が“見張りをかわす”と言われ、“かわし番”をする、または立っていたと言うことからこの名前が生じたとする説がある。これが短縮されて“ドッグ・ウォッチ”と呼ばれるようになった。また、寝ている人はこの時計では“ドッグ・スリープ dog sleep”しか得られないというヴァリエーションもある
軽荷排水量 2,200t(2,290tともいわれる)

DD-774は2,220t
満載排水量 3,315t
全長 114.75m

DD-731は114.60m
12.44m

DD-695、DD-700、DD-750は12.19m

DD-731は12.59m

DD-733は12.52m

DD-726、DD-771、DD-773は12.44m


DD-774は12.54m
吃水 4.77m

DD-698は4.39m

DD-750は5.68m

DD-771、DD-773は5.74m
主缶 バブコック&ウィルコックス式水管缶(重油専焼)4基

DD-747〜DD-749、DD-752〜762、DD-777〜DD-781はフォスターホイーラー式水管缶(重油専焼)4基
主機 ジェネラル・エレクトリック式オール・ギアード蒸気タービン2基

DD-748〜DD-754、DD-759はウェスティングハウス式オール・ギアード蒸気タービン
軸数 2軸
出力(計画) 60,000馬力
速力 34.2kt(公試、36.5kt(計画)ともいわれる)

DD-695、DD-700、DD-726、DD-771は34.0kt
燃料搭載量(計画) 重油538t
航続力(計画) 15ktで6,500浬(戦時は15ktで4,220浬、20ktで3,240浬)
兵装 38口径127mm連装両用砲3基
40mm4連装機関砲2基
40mm連装機関砲2基
20mm単装機関砲11基
533mm5連装魚雷発射管2基
爆雷投射機6基
爆雷投下軌条2条
爆雷26個

DD-735〜DD-740、DD-749〜DD-751、DD-771〜DD-773の兵装
38口径127mm単装両用砲3基
40mm4連装機関砲2基
40mm連装機関砲2基
20mm単装機関砲8基
533mm5連装魚雷発射管なし
爆雷投射機4基
爆雷投下軌条2条
爆雷100個
乗員 336名(345名ともいわれる)

DD-726は357名

DD-750、DD-771、DD-773は363名
※DD-735〜DD-740、DD-749〜DD-751、DD-771〜DD-773は高速敷設艦として竣工したため、ロバート H. スミス級ともいわれる
メジャー迷彩(アメリカ海軍歴史センターのサイトから)
※アレン M. サムナー級の内部写真
※アレン M. サムナー級のアンテナ群
↑アレン M. サムナー級駆逐艦(1943年時)

↑A view of the Sumner's antenna suite during her FRAM II overhaul at Charleston Navy Yard, May 17 1961 to January 2 1962. Image courtesy of U.S.S. Allen M. Sumner (DD-692) Official Home of the First in its Class.
1941年9月30日のScheme "B"案
常備排水量:2,150t 公試排水量:2,745t 吃水線長:112.47m 幅:11.73m 吃水:4.02m(公試) 出力(計画):60,000馬力 速力(計画):37.5kt 兵装:38口径127mm単装砲5基、40mm連装機関砲2基、20mm単装機関砲2基、533mm5連装魚雷発射管2基
1941年9月30日のScheme "B-I"案
常備排水量:2,735t 公試排水量:2,730t 吃水線長:112.47m 幅:11.73m 吃水:4.00m(公試) 出力(計画):60,000馬力 速力(計画):37.6kt 兵装:38口径127mm単装砲5基、40mm連装機関砲2基、20mm単装機関砲2基、533mm5連装魚雷発射管1基
1941年9月30日のScheme "B-II"案
常備排水量:2,200t 公試排水量:2,795t 吃水線長:112.47m 幅:12.03m 吃水:3.96m(公試) 出力(計画):60,000馬力 速力(計画):37.1kt 兵装:38口径127mm連装両用砲3基、40mm連装機関砲2基、20mm単装機関砲2基、533mm5連装魚雷発射管1基
1941年9月30日のScheme "B-III"案
常備排水量:2,180t 公試排水量:2,745t 吃水線長:112.47m 幅:11.73m 吃水:4.02m(公試) 出力(計画):60,000馬力 速力(計画):37.5kt 兵装:38口径127mm連装両用砲2基、40mm連装機関砲4基、533mm3連装魚雷発射管2基
1941年9月30日のScheme "B-IV"案
常備排水量:2,195t 公試排水量:2,760t 吃水線長:112.47m 幅:12.03m 吃水:4.03m(公試) 出力(計画):60,000馬力 速力(計画):37.4kt 兵装:38口径127mm連装両用砲2基、40mm連装機関砲4基、20mm単装機関砲2基、533mm3連装魚雷発射管2基
1941年9月30日のScheme "B-V"案
常備排水量:2,215t 公試排水量:2,795t 吃水線長:112.47m 幅:12.03m 吃水:4.06m(公試) 出力(計画):60,000馬力 速力(計画):37.1kt 兵装:38口径127mm連装両用砲2基、38口径127mm単装砲1基、40mm連装機関砲4基、20mm単装機関砲2基、533mm3連装魚雷発射管2基
1942年3月10日のScheme "B-VII"案
常備排水量:2,270t 公試排水量:2,880t 吃水線長:112.47m 幅:12.19m 吃水:3.96m(公試) 出力(計画):60,000馬力 兵装:38口径127mm連装両用砲3基、40mm連装機関砲2基、20mm単装機関砲4基、533mm5連装魚雷発射管2基

↑Image courtesy of Shipbucket.
艦名 NAME 艦種記号 建造所 就役日 退役日 除籍日 備考
 
↑Image courtesy of Shipbucket.
アレン M. サムナー
123
Allen M. Sumner DD-692 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/1/26 1973/8/15 1973/8/15 ◎1943/7/7 起工
◎1943/12/15 進水
◎ニュー・ヨーク海軍工廠にて艤装(〜1944/3/3)
◎1944/4/8 ニュー・ヨークにてPSA(〜1944/5/3)
1944/12/2 オルモック湾にて日本陸軍機の爆撃(至近弾)により損傷
◎1944/12/4 サン・ペドロ湾にて保全、修理(〜1944/12/12)
1945/1/6 リンガエン湾にて日本軍の特攻機の攻撃により損傷
◎1945/2/13 ハンターズ・ポイントにて修理(〜1945/4/10)
◎1952 ボストン海軍工廠にて入渠
◎1961/5/17 チャールストン海軍造船所にてFRAM改装(〜1962/1/2)
◎1962/6/8 コート・ダジュールにて座礁、のちにToulonにて入渠
◎1971/7/1 海軍予備練習船となる(〜1973/8/15)
◎1974/11/13 解体のため、ニュー・ヨークのUnion Minerals & Alloy Corp. に売却(売却額$163,132)
◎のちにフィラデルフィアにて解体
◎Luzon Raids Oct 1944, Lingayen, Mindro. Operation Crossroads.
☆DD-692の撃沈スコア(以下の艦船)
・1944/12/3 日本海軍駆逐艦桑(オルモック湾にて撃沈(駆逐艦モール(DD-693)、クーパー(DD-695)と共同で))
(←日本海軍駆逐艦松)
◎Korea (Korean Summer-Fall, 1 May-17 Jul 1953.), Cuba Feb 1962, Cuban missile crisis Oct-Nov 1962, Dominican Rep Apr-May, Aug-Sep 1965, Vietnam Feb-Aug 1967 (1, 2, 3).
モール
12
Moale DD-693 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/2/28 1973/7/2 1973/7/2 ◎1974/11/13 解体のため売却
☆DD-693の撃沈スコア(以下の艦船)
・1944/12/3 日本海軍駆逐艦桑(オルモック湾にて撃沈(駆逐艦アレン M. サムナー(DD-692)、クーパー(DD-695)と共同で))
(←日本海軍駆逐艦松)
イングラハム
12
Ingraham DD-694 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/3/10 1971/7/16 1971/7/16 ◎1971/7/16 ギリシャに譲渡されMiaouris(D 211)と改名
◎1992 除籍
◎2001/10/9 標的として沈没
クーパー
12
Cooper DD-695 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/3/27 1945/1/20 ◎1943/8/30 起工
◎1944/2/9 進水
◎ニュー・ヨーク海軍工廠にて就役
◎1944/6/26 ニュー・ヨーク海軍工廠にてPSA(〜1944/7/6、艦橋と上部構造の大規模な改装)
1944/6/30 スポンサーであるフランシス・クーパー夫人 Mrs. Frances Cooperから、亡き夫に敬意を表して名付けられた駆逐艦の乗組員に号鐘を贈る式典を開催
1944/7/18 ロング・アイランド海峡にて、磁気コンパス補正と無線方向探知機の校正を完了するもこの作業中、主循環ポンプ main circulating pumpが破損、右舷エンジンが停止、クーパーはその日の夕方にニュー・ヨーク海軍工廠にて緊急修理(〜1944/7/21)
1944/12/3 オルモック湾にて日本海軍駆逐艦竹の雷撃により沈没
2017/12 海底にて船体がPaul Gardner Allenにより発見
◎Torpedoed and sunk by Japanese destroyer Take in Ormoc Bay, broke in two, 3 Dec 1944 (191 killed). Luzon Raids Oct 1944.
☆DD-695の撃沈スコア、撃墜スコア(以下の艦船、航空機)
・1944/12/2 日本軍機1機(オルモック湾にて撃墜)
・1944/12/3 日本海軍駆逐艦桑(オルモック湾にて撃沈(駆逐艦アレン M. サムナー(DD-692)、モール(DD-693)と共同で))
(←日本海軍駆逐艦松)
イングリッシュ English DD-696 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/5/4 1970/5/15 1970/5/15 ◎1970/8/11 台湾に譲渡され恵陽 Huei Yang(906)と改名
◎1999/8/16 退役
チャールズ S. スペリー Charles S. Sperry DD-697 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/5/17 1973/12/15 1973/12/15 ◎1959 FRAM改装(〜1960)
◎1974/1/8 チリに譲渡されMinistro Zentenoと改名
◎1990 除籍、解体のため売却
オールト
12
Ault DD-698 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/5/31 1973/7/2
(1973/7/16?)
1973/7/16
(1973/9/1?)
◎1943/11/15 起工
◎1944/3/26 進水
◎1946/4/26 ボストンにてオーヴァーホール(〜1947/3/15)
◎1948/2/24 ボストンにてオーヴァーホール(〜1948/5/11)
◎1950/1/26 ノーフォークにて不活性化工事
◎1950/5/31 退役、チャールストン海軍造船所にて予備艦隊に編入
◎1950/11/15 チャールストンにて再役
◎1953/3/11 チャールストン海軍造船所にてオーヴァーホール
1953/12/20 日本海にて駆逐艦ヘインズワース(DD-700)と衝突し損傷(艦首は8番フレームで引き裂かれる)、のちに横須賀へ救難艦グラップル Grapple(ARS-7)が曳航、修理
◎1962/6 ボストン海軍工廠にてFRAMII改装(〜1963/2)
◎1966/4/12 チャールストン海軍造船所にてオーヴァーホール(〜1966/9/14)
◎1967/5/1 スービック湾にて保全(〜1967/5/7)
◎1967秋 メイポートにて保全(〜1968/2)
◎1970/1/1 予備練習艦となる
◎1974/4/30(1974/5/9?) 解体のため、ボルティモアのボストン・メタルズ社に売却
◎Palau, Philippines Raids Sep 1944, Formosa Raids Jan 1945, Luzon Raids Jan 1945, Formosa Raids Jan 1945, China Coast Raids Jan 1945, Nansei Shoto Raid Jan 1945, Iwo Jima, Honshu Raids Feb 1945, Fleet Raids 1945, Raids on Japan Jul-Aug 1945, Tokyo Bay.
◎Lebanon Oct 1958, Cuba Mar-May 1961, Vietnam Mar-Aug 1967.
ウォルドロン Waldron DD-699 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/6/8 1973/10/30 1973/10/31 ◎1950/5/17 予備役に編入
◎1950/11/20 再役
◎1962/6 FRAM改装
1968/6/13 北大西洋にて艦隊航洋曳船カイオワ Kiowa(ATF-72)と衝突し損傷
◎1973/10/30 コロンビアに譲渡されSantander(DD 03)と改名
◎1986 除籍、解体のため売却
ヘインズワース
12
Haynsworth DD-700 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/6/22 1970/1/30 1970/1/30 ◎1943/12/16 起工
◎1944/4/15 進水
1945/4/6 沖縄にて日本軍の特攻機の攻撃により損傷、のちにメア・アイランドにて修理
◎1945/7/17 トレジャー・アイランドにて練習船となる(〜1945/9/5)
◎1946/4/26 ボストンにて退役、予備艦隊に編入
◎1947/3 再役
◎1950/5/19 チャールストンにて退役、予備艦隊に編入
◎1950/9/22 再役
1953/12/20 駆逐艦オールト(DD-698)と衝突し損傷、のちに横須賀にて修理
◎1963秋 ニュー・オーリンズとオレンジにてオーヴァーホール
◎1964/2/28 ガルヴェストンにて海軍予備練習船となる(第34予備駆逐隊所属)
◎1970/5/12 台湾に譲渡され岳陽 Yuen Yang(DD 5)と改名(12
◎のちに艦種をミサイル駆逐艦(DDG 5)に改める
◎1976 艦種記号をDDG 944に改める
◎1979/10/1 艦種記号をDDG 905に改める
◎1999/1/6 退役
◎1999/1/15 除籍
◎2001/10/13 人工環礁のため沈没処分
◎Formosa Raids Jan 1945, Luzon Raids Jan 1945, China Coast Raids Jan 1945, Nansei Shoto Raid Jan 1945, Honshu Raids Feb 1945, Iwo Jima, Fleet Raids 1945.
☆DD-700の撃沈スコア(以下の艦船)
・1945/2/17 特設監視艇第三十六南進丸(日本近海にて撃沈といわれる)
・1945/2/17 特設駆潜艇和風丸(日本近海にて撃沈といわれる)
◎Lebanon Oct 1958, Cuba Apr-May 1961, May-Jun 1962, Cuban missile crisis Oct-Nov 1962.
ジョン W. ウィークス John W. Weeks DD-701 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/7/21 1970/8/12 1970/8/12 ◎1950/2/8 退役
◎1950/10/24 再役
◎1970/11/19 ヴァージニア沖にて標的として沈没

↑Segui (D 25). ex-Hank (DD-702). Image courtesy of Shipbucket.
ハンク
12
Hank DD-702 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/8/28 1972/7/1 1972/7/1 ◎1972/7/1 アルゼンチンに譲渡されSegui(D 25)と改名(12
◎1983 除籍、解体のため売却
ウォーレス L. リンド Wallace L. Lind DD-703 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/9/8 1973/12/4 1973/12/4 ◎1961/10/16 FRAM II改装(〜1962)
◎1973 予備役に編入
◎1973/12/4 韓国に譲渡されDae Gue(DD 97)と改名
◎DD 917となる
ボリー Borie DD-704 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/9/21 1972/7/1 1972/7/1 1945/4/2 沖縄南東海域にて航空母艦エセックス Essex(CV-9)と衝突し損傷
◎1972/7/1 アルゼンチンに譲渡されHipolito Bouchardと改名
◎1984 除籍、解体のため売却

↑Mato Grosso (D 34). ex-Compton (DD-705). Image courtesy of Shipbucket.
コンプトン
12
Compton DD-705 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/11/4 1972/9/27 1972/9/27 ◎1972/9/27 ブラジルに譲渡されMato Grosso(D 34)と改名(12
◎1990/7 除籍、解体のため売却
ゲイナード Gainard DD-706 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/11/23 1971/2/26 1971/2/26 ◎1974/3/26 解体のため売却
ソーリー Soley DD-707 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1944/12/4 1970/2 1970/2/13 ◎1947/4/15 予備役に編入
◎1950 再役
1970/1 座礁
◎1970/9/18 標的として沈没
ハーラン R. ディクソン Harlan R. Dickson DD-708 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1945/2/17 1972/7/1 ◎1973/5/18 解体のため売却
ヒュー・パーヴィス Hugh Purvis DD-709 フェデラル・シップビルディング&ドライ・ドック社 1945/3/1 1972/6/15 1973/2/1 ◎最初の予定艦名はパーヴィス Purvisだった
◎1960/3 FRAM改装
◎1972/7/1 トルコに譲渡されZafer(D 356)と改名
◎1993 除籍
◎1994 解体のため売却

↑Image courtesy of Shipbucket.
バートン Barton DD-722 バス鉄工所 1943/12/30 1968/10/1 ◎1947/1/22 予備役に編入
◎1949/4/11 再役
◎1969/10/8 ヴァージニア沖にて標的として沈没

↑Image courtesy of Shipbucket.
ウォーク Walke DD-723 バス鉄工所 1944/1/21 1970/11/30 1974/2/1 ◎1947/5/30 予備役に編入
◎1950/10/5 再役
◎1961 FRAM II改装
◎1970/11/30 予備役に編入
◎1975/3/19 解体のため売却

↑Image courtesy of Shipbucket.
ラフィー
1234
Laffey DD-724 バス鉄工所 1944/2/8 1975/3/29 1975/3/29 ◎1943/6/28 起工
◎1943/11/21 進水
◎1944/2/8 引き渡される
1944/6/25 シェルブールにてドイツ軍の沿岸砲台の砲撃により損傷
◎1944/7上旬? ボストンにてオーヴァーホール
1945/4/15(1945/4/16?) 沖縄海域にて日本軍機の爆撃と特攻機の攻撃により損傷(最初の特攻機が命中 0839時、愛知九九式艦上爆撃機(Val)が左舷艦首から5インチ砲火を浴びて飛来し、20mm砲火を浴びて命中し、わずかに逸れた。Valはマウント53の上部を前部から後部までかすめ、右舷クォーターのすぐ近くに墜落した。マウント53の砲長は、5インチ砲の誤射に対処するため砲塔内に潜り込んでいたため助かったが、マウントにいた1名が飛行機の翼の破片で死亡した。飛行機はまた、ラフィーの後方に航空燃料をまき散らした。(これを神風命中とする説とニアミスとする説がある0845時、空技廠彗星(Judy)が左舷ビームから飛来し、ラフィーの運は尽き始めた。度重なる40mmと20mmの命中にもかかわらず、Judyは左舷のモーター救難ボート motor whaleboatをわずかに外し、右舷の20mmマウント2基(グループ23)に衝突した。火災は後部デッキハウス上部の2基の40mm四連装砲(43と44)を焼き尽くし、ラフィーの防御火力を著しく低下させた。火災はマウント44の弾倉の下も脅かしたが、幸いなことに40mm弾薬の保護缶が大きな爆発を防いだ。砲桶の周りの40mm砲弾のクリップは、乗組員が側面の上にそれらを投棄している間にも、調理し始めた(マウント43は、火災が消火されたときにローカル・コントロールで再実行される)。墜落によって前方の機関室への通信も途絶えたが、機関士たちは激しく速い砲撃が聞こえると速度を最大に上げ、静かになると速度を落とした0847時、Val1機が後方から低空で飛来し、機銃掃射をしながら接近し、ファンテイル(船尾の張り出し部)の砲の20mm砲撃を受けたにもかかわらず、20mmマウント(グループ25)を突き破って墜落し、3基全てを破壊し、6名の砲手を殺害したのち、発炎筒がファンテイルを覆う中、53マウントの右舷後角に命中した。機体は崩壊し、爆弾は爆発して後部5インチ弾倉を脅かす大火災を起こし、艦長フレデリック J. ベクトン中佐 Commander Frederick J. Bectonはすぐに浸水を命じた。砲塔をかすめた飛行機によって上部のハッチが閉ざされていたため)側面のハッチから砲撃を指揮していたマウント53の砲長は、やや奇跡的に無傷で砲塔から吹き飛ばされたその直後、さらにもう1機のVal(11番)が艦尾から陽光を浴び、爆弾を投下、甲板縁の2フィート内側、マウント53の真上に命中し、マウント53に激突した2分も経たないうちに、別のヴァルが後方からやってきて爆弾を投下し、プロペラ・ガードのすぐ上の右舷クォーターに命中した。グループ24の20mm砲(左舷ファンネル後方)から砲撃を受けたが、機体はそのまま飛行した。爆弾は後部の20mm弾倉で炸裂し、破片は操舵装置の油圧ラインを破裂させ、舵を左舷26度に妨害した。この被弾後、ラフィーは日本軍の狙いを狂わせる手段として加速と減速だけを行い、狭い円を描くように航行した。船尾で沈んだとはいえ、船尾の機関室への水密隔壁とハッチが持ちこたえたのは幸運であった。この時点で、53番マウント、43番と44番の40mmマウントが使用不能となり、さらに5基の20mmマウントが破壊され、ラフィーは艦尾から非常に脆弱となったひどく損傷したラフィーが狭い円を描くように航行していると、脆弱な左舷クオーターから2機の神風が立て続けに襲来した。最初の1機はValで、ダメージ・コントロール部隊が消火活動をしているときに後部甲板室に墜落した。その数分後、Judyが大きな火の玉となってほぼ同じ場所に墜落し、乗組員4名が死亡、また大きなガソリン火災が発生したラフィーの太陽と煙を隠れ蓑に、Valが駆逐艦の無防備な艦尾から接近し、ファンテイルに爆弾を投下、マウント53のすぐ後方の甲板に8×10フィートの穴を開けた。爆弾の破片は上部の緊急救護所を直撃した。爆弾はまた、レーダーが停止したのち、艦尾の消防隊を指揮するために司令情報センターの持ち場を離れていたロバート・トムセン少尉 Ensign Robert Thomsen(この功績で死後に海軍十字章 Navy Crossを受章)を、消防隊の他のメンバーとともに殺害した。Valは右舷ヤードアームに衝突したが、前方のF4U(沖縄の読谷飛行場 Yontan Airfieldから発進したVMF-441“ブラックジャックス Blackjacks”の12機の米海兵隊コルセアも戦いに加わり、ラフィー近辺で15機から17機の日本軍機を撃墜した)に撃墜されるまで前進を続けた。グループ21(右舷前方)の20mm砲手たちは、Valが墜落するのを確認するために砲撃を続けた(コルセアは、右舷からラフィーに接近する一式戦闘機隼(Oscar)の後ろに並んだ。ラフィーの砲手の一人がOscarに命中し、Oscarを船のマストに衝突させ、海中に落下させた。追撃してきたコルセアも艦のレーダー・アンテナに衝突して海中に落下したが、パイロットはのちに上陸支援艇(大型)LCS(L)-51に救助された)もう1機のValが右舷艦首から空爆してきた。5インチ砲、40mm砲、20mm砲の射撃にもかかわらず、飛行機は爆弾を投下し、コルセアによって撃墜される前にかろうじて船をクリアした。フェリン・サルシド水兵 Seaman Feline Salcidoは、ベクトン中佐が爆弾の着弾を見たとは思わず、右舷艦橋のすぐ下の20mmグループ21(最後まで射撃していた)で爆弾が爆発したとき、艦長を押し倒した。破片は負傷者救護所として使用されていた病室を貫通し、負傷者数名と薬剤師の航海士が死亡、船医が負傷した)、沖縄へ曳航、一時的な修理
◎1945/5下旬 シアトルの トッド・シップヤード社にてオーヴァーホール(〜1945/9/6)
1945/9/11 サン・ディエゴ北方海域にて濃霧により駆潜艇(鋼製船体)PC-815と衝突し損傷、PC-815を沈没させる、サン・ディエゴにて修理
◎1947/6/30 サン・ディエゴにて退役、太平洋予備艦隊に編入
◎1951/1/26 再役
◎1951/2 ノーフォークにてオーヴァーホール
◎1952年5月30日に横須賀で短時間の改装を行ったのち、韓国に戻り、第77任務部隊 Task Force 77に復帰した。6月22日、ラフィーは 東海岸に向けて出港し、スエズ運河を通過して8月19日にノーフォークに到着した
◎1961年4月8日から9日にかけて、汽船Daraの遭難に遭遇し、3隻のイギリス海軍フリゲイトLoch Ruthven(K.645)、Loch Fyne(K.429)、Loch Alvie(K.428)とともに支援を提供したラフィーの一連の画像(12345678)。4月9日の夜明けに、ラフィーは消火と生存者の確認のためにDaraに接舷した。その際、Daraはラフィーに向かって傾き始め、ラフィーの左舷に損傷を与え、ラフィーは後退を余儀なくされた。ボートで派遣された消火隊が正午まで消火活動を続けたが、ラフィーは現場からの撤退を命じられた。ビル・ブラックストック・コレクション Bill Blackstock Collectionより
◎1962/9 FRAM II改装
◎1970/11/30 予備役に編入
除籍後、チャールストンのペイトリオッツ・ポイントにて記念艦となる
1984 映画会社ニューワールド・ピクチャーズの映画「フィラデルフィア・エクスペリメント The Philadelphia Experiment」撮影用に用いられる
◎2009/8 ノース・チャールストンのDetyens Shipyardにてオーヴァーホール(〜2009/12)
◎ニックネームはザ・シップ・ザット・ウッド・ノット・ダイ The Ship That Would Not Die
◎Normandy, Luzon Raids Oct 1944, Ormoc, Mindoro, Lingayen, Iwo Jima, Honshu Raids Feb 1945, Okinawa, PUC.
◎Korea (2nd Korean Winter, 28 Nov 1952-30 Apr 1952. Korean Defense, 1 May-30 Nov 1952.)
オブライエン
12
O'Brien DD-725 バス鉄工所 1944/2/25 1972/2/18 ◎1947/10/4 退役
◎1950/10/5 再役
◎1961/2 FRAM II改装(〜1961/10)
1966/12/23 ドン・ホイ近海にて北ヴェトナム軍の陸上砲台の砲撃により損傷
◎1966/12下旬? スービック湾にて修理
◎1970/11/30 予備役に編入
◎1972/7/13 カリフォルニア沖にて標的として沈没
メレディス
12
Meredith DD-726 バス鉄工所 1944/3/14 1944/7/29 ◎1943/7/26 起工
◎1943/12/21 進水
◎チャールズタウン海軍工廠にて就役。新しく就役した同艦は、海軍基地で艤装や修理改装を実施し、忙しい2週間を過ごした。艦内では、複数の艦船訓練、消磁調整を実施、無線方向探知機調整、レーダー調整、ボストン港沖にて磁気コンパス調整を実施。30日にはCape Cod沖で構造試射とソナー・テストを行い、翌日には磁気コンパス調整、ボストン港沖での無線機、無線方向探知機、レーダー調整を完了。バミューダ沖にてシェイクダウン・クルーズを行ったメレディスは、1944年4月初旬に大西洋艦隊のDD/DEシェイクダウン・グループの支援のもと、更に大規模な訓練をこなした。攻撃教官による対潜シナリオ、火器管制調整、火器管制レーダー調整、バッテリー・チェックなどの授業が行われ、厳しい訓練が行われた。検査官は“砲術部門は平均的な状態であり、兵器資材の整備は、特にバミューダへの航海中に遭遇した悪天候を考慮すると、極めて良好であることが判明した”と報告した。ボストンを出港したTCU-24B船団は、第二次大戦の欧州海域へと向かい、イギリスのプリマスへと進路を取った(1944年5月8日〜27日)。艦長のジョージ・クヌファー中佐 Comdr. George Knuepferはプリマスに到着後、“ネプチューン”作戦 Operation Neptune(ドイツ占領下のノルマンディー地方への連合軍上陸作戦)の密命を受け、報告した。クヌファーと彼のスタッフは、彼が“オールド・シアター Old Theatre”と呼ぶ場所(恐らくプリマスの有名な宮殿)で行われた特別なブリーフィングに出席し、ブリーフィング担当者から艦の役割について説明を受けたという。メレディスとその護衛艦は、アメリカ第1軍第7軍団(指揮官はJ. ロートン・コリンズ少将 Maj. Gen. J. Lawton Collins)により、第4歩兵師団(指揮官はレイモンド O. バートン少将 Maj. Gen. Raymond O. Barton)をBaie de la Seine沿いの“ユタ・ビーチ”に上陸させるための支援を行うものであった。クヌファーはU-3船団の護衛司令官として、沿岸警備隊の護衛艦4隻、自由フランス海軍コルヴェットAconit(K 58、12)とRenoncule(K 117)、そしてイギリスのトロール船3隻を護衛することになったのである。これらの護衛艦は、7,500名近い兵士とその装備を積んだ16隻の戦車揚陸艦(LST)と6隻のライノ型艀 Rhino bargesを護送することになっていた。 この膨大な数の連合軍艦船を全て時間通りに目標地点に到達させるために、メレディスとU-3の艦船はプリマスではなく、プリマスからExmouthまでの距離の半分強にあるDevonの小さな海辺の町トーキー(Torquay、推理小説作家のアガサ・クリスティー Dame Agatha Mary Clarissa Christieの出生地)を集合・出発した(1944年6月5日〜6日)。輸送船団は機雷原を迂回して英仏海峡を進んだが、どんよりとした曇り空と穏やかな海が海水を泡立てて、強いうねりに突き当たった。英仏海峡の潮流は、特にフランス沿岸に近づくにつれ、満潮時には平均6ノットに達するが、護衛艦の最も遅い船は、皮肉にも6ktが限界であった。そのため、クヌファーは進路を86゚ずらして補い、乗組員もレーダーによる航法修正を繰り返し、厳しいスケジュールをこなした。クヌファーは、いくつかの緊張したポイントで、見張りやブリッジの監視員が“Sボート(ニックネームはEボート。ドイツの事実上の駆潜艇、通常は魚雷艇)の存在を示す照明弾(曳光弾)やsnowflakesに照らされた無数の船を見たと報告している。しかし、どれも私の船団に接近して本当の危険をもたらすことはなく、私は我々の位置を明らかにしないことが最も賢明な方法であると感じた”。指揮官はさらに、遅い輸送船団との横断を“この旅で最も危険なこと”であったと振り返っている。それでも、混雑した輸送船団航路を通過する連合国船は、しばしば互いに合図を送り、多くの英国船がメレディスに“good luck and happy hunting”の変奏曲を贈っている。潮の流れや航法上の問題にもかかわらず、メレディス達は予定通り輸送地点に到着し、駆逐艦は輸送船団を任務部隊の司令官に引き渡した。メレディスはフランス沿岸から約5マイル離れた輸送海域の北東部に停泊する船舶の護衛につき、ほかの5隻の駆逐艦と共にSボートのパトロールを行った。1944年6月6日のDデイで“ユタ・ビーチ”に強襲部隊を上陸させる際にも、脆弱な輸送船と揚陸艇を監視し続けた
◎1944/6/7 午前6時ごろ、メレディスは命令により、フランス海岸から約1.5〜2マイルの地点にある第2火力支援施設に向かった。メレディスは、海軍や陸軍の砲撃隊の呼びかけに応じ、初発砲を行った。メレディスはGrandcamps-les-Bainsのやや南西で作戦を展開し、ビーチヘッドを封じ込めようとするドイツ軍の戦車や兵力に対して5インチ砲を何度も放った。同艦のドナルド B. アマージュ中佐 Lt. Cmdr. Donald B. Amageは、戦闘情報センター(CIC)チームを率いて効率的に軍艦の位置を維持し、その情報に基づいて砲手に射撃データを提供した。クヌファーは“我々の一斉射撃が相手に届いたとき、“よくやった、メレディス、第一撃で仕留めた”と言ってもらえたのは、ありがたいことだった”と振り返る。連合軍が勝利を収め、上陸に成功した理由はいくつかあるが、そのひとつに艦砲射撃がある。西部海軍任務部隊司令官 Commander, Western Naval Task Forceのアラン G. カーク少将 Rear Adm. Alan G. Kirkは、その報告書の中で次のように結んでいる。海軍作戦本部長兼合衆国艦隊司令官 Chief of Naval Operations, and Commander in Chief United States Fleetのアーネスト J. キング大将 Flt. Adm. Ernest J. Kingへの報告書では、次のように結んでいる。海軍の砲撃計画は健全で、現実的で、効果的に実行された。海岸と砂浜の防衛に対する艦砲射撃の効果は、部隊の上陸と内陸部への進出を可能にする主要な要因であった。コンクリートの砲台や要塞を無力化したり破壊するためには、効率的な航空スポットと長期にわたる計画的な射撃が必要であること
◎1944/6/7 メレディスは午前0時4分前まで敵部隊を叩いたが、砲援領域でより重武装の戦艦や巡洋艦の北方に進み、Sボートに対してスクリーンするようにとの命令を受けた。ドイツ軍はこの地域を徘徊しており、メレディスが新しい基地に到着する直前に、コタンタン半島のシェルブール海岸からその地域にSボートが集中しているとの報告を受けた。駆逐艦はSaint-Marcoufからわずか5マイルの位置の北方に進路を取り、他の6隻の駆逐艦とともにステーションのパトロールを開始した。大規模な掃海活動にもかかわらず、機雷はこの地域の船舶に致命的な脅威を与えており、メレディスはきちんと消磁コイルをセットしていた。海は荒れ模様で爽やかな風が吹き、空は低く曇り、天井は1,000フィート程もある。時折、雲の切れ間から月が顔を出す。中盤から1時間半余り、戦艦ネヴァダ(BB-36)はメレディスから3マイルの距離で350度、重巡洋艦クインシー Quincy(CA-71)は130゚、1.7マイル、タスカルーサ Tuscaloosa(CA-37)は070゚で1.3マイルを照射した
1944/6/8 0152時、メレディスは突然、第2火室の真下、キールの左舷側で水中機雷に激突した。クヌファーは、船が“前方と上方にものすごい勢いで揺れ、爆発で上部の全員が膝をつき、大きな水煙につつまれた”と説明している。しかし、破片が空中に舞い上がり、乗組員にぶつかった。メレディスは通信と電源を失い、ゆっくりと右舷に旋回しながら不気味に漂い、海中で死んだように停止した。機雷の爆発は、第1火災室、第1機関室、第2機関室を破壊し、これらの部屋のすぐ上にいた修理班を含むほとんどの乗組員を死亡させた。爆発はその地域の外側に65フィートの穴を開け、その中の主甲板と上部構造甲板、第2煙突の半分、前方ボート・ダヴィット、モーター救難ボート motor whaleboatを完全に破壊した。爆発の力で工学機器の一部が船外に吹き飛ばされ、残りの大部分が絡まった。メレディスは右舷に12゚近く傾斜し、沈下しているように見えた。ブライアン B. ローソン機械科上等兵曹 MMC Bryan B. Lawsonは、第2機関室(機関室後方)監視セクションの12名を率いていたが、爆発で彼と仲間の監視員達は唖然とした。ローソンは爆風で朦朧としながらも、ハッチからファンテイルへ出て、なんとか粉々になった空間から脱出した。しかし、ほかの船員たちが脱出する姿は見えず、まだ下にいるに違いないと思った。彼は懐中電灯を手に入れ、命がけで真っ暗な区画の中に入っていった。ローソンは、水が頭上から4フィートの深さまで入り込んでいるのを発見したが、不潔で濁った水の中を勇敢に泳ぎ、4名を助け、ハッチへの梯子を上って他の隊員に甲板に引き出してもらった。4名は火傷、裂傷、骨折を負い、のちにイギリスで更なる医療援助を必要とした。ローソンは“自らの安全を完全に無視した”ことが評価され、のちに海軍十字章 Navy Crossを授与された。その間、ブリッジは修理I Repair Iとの通信を再開し、修理III Repair IIIと連絡を取るために使者を送るように指示した。彼らは船長の命令をダメージ・コントロール士官のエドワード S. ドー中尉 Lt. (j.g.) Edward S. Doeとエンスーに伝えることになった。ロバート G. マッケロイ少尉 Ens. Robert G. McElroyに、被害と浸水の程度を報告するよう命じた。ドーは修理IIIを、マッケロイは修理Iを指揮し、爆発から32時間以上、2名の士官は船を救うためにたゆまぬ努力を続けた。ブリッジで待機していた魚雷士官は、船尾で深度計をチェックし、“安全”にセットされていることを確認したと報告しに戻ってきた。指揮官が部下を集め、衝突箇所を調べたところ、ひどい損傷にもかかわらず、損傷箇所の両側の隔壁は無傷で、ビルジも乾燥している様であった。前方の補助エンジンはまだ動いたが、爆心地以外の空間には浸水がなかったため、すぐに水を汲み上げる必要はないと判断された。メレディスは深刻な状況に直面していたが、その特異な状況から、クヌファーは“静的なバランスの位置を取り、我々の手段で出来ることは何もなく、船を助けることはできない”と観察していた。艦長は、バランスを崩すことを恐れて、重量を投棄することも断念した。そして、船内の救助隊を探し出し、組織化することにした。中隊は暗闇の中で視界不良に陥り、指揮官は機雷が艦のキールを破壊し、艦が真っ二つになるのではないかと感じた。クヌファーは、右舷の軸が、ひいては船体を支えているのだと推測した。作業中、メレディスが突然横揺れしたため、艦長は船が壊れるかもしれないという恐怖を確信し、部下に船を捨てるように命じた。連合軍の計画者は、このような重要な作戦での損失を想定し、損傷した艦艇の大規模な引き揚げ計画を用意していた。指揮官はこの計画を利用することを決定し、本艦の仲間にこれ以上危害が及ばないよう、またサルヴェージ・チームが目の前の作業に集中できるよう、支援を呼びかけた。護衛駆逐艦ベイツ Bates(DE-68、艦長ヘンリー A. ウィルマーディング Jr. 中佐 Lt. Cmdr. Henry A. Wilmerding, Jr. )は駆逐艦の右舷船首に固定し、クヌファーと約120名の士官と下士官を救出した。クヌファーは駆潜艇(鋼製船体)PC-1232PC-1263にも連絡し、彼らは(別々に)駆逐艦を閉じた。PC-1232は0245時にメレディスに接舷し、アマージュ他士官6名と下士官兵20名を乗せ、0311時にベイツに移乗させた。PC-1263は士官2名と負傷者を含む約130名を乗せ、そののち生存者をベイツに、ベイツをタスカルーサに移乗させた。ハーンドン Herndon(DD-638、艦長グランヴィル A. ムーア Cmdr. Granville A. Moore)も現場を封鎖して助けた。メレディスは、右舷のライフ・レイル life railが波の下に消え、その側のデッキの一部が水浸しになるまで浮上し続けた。乗組員は慌てることなく着実に行動し、士官が順番に船の移動を指示するまで多くの人が自分の持ち場に留まり、この作業には30分強を要した。本船の医務官Lt. (j.g.) Charles S. Davidson, MC, USNRを初め、医務科のCPhM William L. McWhite、PhM2c Otto E. Eckert、PhM2c George T. Nixon(薬剤師助手)はあらゆる方法で負傷者を助け、その後輸送区域までの間、その努力は継続された。多くの兵士がひどい火傷を負い、腕や手足を失い、なすすべもなかったが、これらの兵士の無私の奉仕があったからである。ドナルド L. ラサール中尉 Lt. (j.g.) Donald L. LaSalle、ニュートン M. マウアー少尉 Ens. Newton M. Mauer、CPhM Albert Francis、MM3c Henry C. Bronsonも応急処置や負傷者のボートへの誘導に尽力し、多くの命を救ってくれた。通信によると、少なくとも2隻のサルヴェージ曳船が航行しているとのことで、クヌファーはベイツを忠実に横付けして救助を行うウィルマーディング Jr. に、念のために駆逐艦から100ヤード以上離れるように勧告した。クヌファーが船を捨てようとしたとき、一名の下士官が“ラーキー Lurkyを忘れるところだった”と言った。艦長は“ラーキーとは誰だ?”と尋ねた。と聞くと、下士官は狡猾にもこう答えた。“うちのペットの猫です”クヌファーは、ペットを飼うことを禁止していた。鉄板のデッキが熱くなり、ペットの足を痛めることがあるからで、また現役時代に何匹ものペットが海に流され、悲劇的な目にあったことがあるからだ。それでもクヌファーは、“小さな、小さな、臆病な猫”だったラーキーを優しく守りながら、ペットを上着の中に入れ、護衛艦に乗り込んだ。8日午前3時、艦隊航洋曳船バノック Bannock(ATF-81)は出港準備を行い、午後4時過ぎにはメレディスを助けるために出航したが、のちに被災した駆逐艦を排除する命令を受け、回頭している。その間に2通目の指令がバノックに届き、メレディスに近づくように指示されたので、0600時に湾の北側でそれを実行した。0717時、同船はメレディスに曳航ホーザー towing hawserを渡し、100ファゾムの2インチ・ワイア・ホーザー 2-inch wire hawserに方向を変え、2隻目の曳船と一緒に後方で障害駆逐艦を曳航した。ベイツは彼らの方に向き直り、脆弱な通過の間、彼らを遮蔽した。バノックは0926時に曳航のためにメレディスに右舷で係留し、1725時にはCapelle Roadsteadの高度輸送区域の東側に立ち、メレディスを錨で固定した。その日の午後1400時ころ、サルベージ担当の補佐官がクヌファーに、船はますます沈没の危険性が高まっており、輸送区域内で沈没すれば航行に支障をきたすと伝えた。その結果、バノックはメレディスの左舷に固定し、今度は海岸からわずか1.5マイルの火力支援区域に再び移動させた。新しい停泊地に向かって進むと、見張りが突然、メレディスの右舷船首からわずか100ヤードのところに2つの機雷を発見した。クヌファーと彼のブリッジ・ウォッチ・チームは艦隊航洋曳船に退避するよう叫んだが、艦隊航洋曳船の船長は軽快に駆逐艦を曳航し、第1ドッグ・ウォッチが始まるまでに自分のアンカーで錨を下ろした。しかし、連合軍の損害は拡大し、多くの艦船や揚陸艇が被害を受けたため、サルヴェージ船は手一杯で、クヌファーに“これ以上メレディスに手を出せない”と渋々告げました。クヌファーと負傷していない乗組員の多くは、4名の士官と50名の下士官兵からなるサルヴェージ・クルーを結成し、メレディスに乗り込み、損傷箇所を点検した。協議の結果、トップサイドのウェイトを外し、ダイヴァーを潜らせて船体、特にキールを調べることにした。救助隊は右舷のアンカーとチェーンを外し、右舷から4連装40mm機関砲架を1基、ファンテイルから20mm機関砲架を3基、右舷船尾からさらに2基外し、さらに爆雷、煙幕発生装置、携帯用トップサイド・ウエイトを全て取り外した。この作業により、船首方位は15゚から5゚〜10゚に修正された。乗組員達は、午後から夕方までサルヴェージ作業を続け、メレディスの修理の妨げとなる停電のため、視界が悪くなるのと格闘しながら作業を行った。倒壊寸前の状態になり、クヌファーとサルヴェージ部隊は船体を点検し、乾燥していることを確認すると、全てのハッチとドアを固定した。そののち、彼らは駆逐艦を離れ、3名の士官と15名の下士官兵からなる警備隊が乗り込み、疲れ果てた隊員たちを休ませた。艦長は、メレディスが沈む危険があるようなら、いつでも曳船を呼んですぐに避難するようにと付け加えた。バノックはメレディスの右舷側に位置を変え、駆逐艦の引き揚げられた4連装40mm機関砲架と20mm機関砲5基(1849〜2155)を船内に吊り上げた。警備の男達はその夜、メレディスの船首で数時間の睡眠をとった。6月8日の日没後は一晩中、天気は晴れだったが、海は“中程度の荒れ”になっていた
1944/6/9 ドイツ空軍の航空機は輸送船を繰り返し攻撃し、時にはHs293(小型だが強力な無線操縦の滑空爆弾にロケット・モーターを搭載し、攻撃範囲を広げることができる)を放つこともあった。9日夜中、連合軍艦船に対してその様な襲撃を浴びせた。バノックは、2番と4番の砲から3インチ砲弾1発と20mm弾120発を攻撃機と思われるものに向けて発射した(0125〜0146)。駆逐艦ジェファーズ Jeffers(DD-621)の見張りは、0125に高度5,000フィートの頭上をミサイルのようなものがスーッと通過するのを確認した。その5分後、別のミサイルが高度1,500フィートで通過し、ジェファーズから約3,000ヤードの地点で英仏海峡に着水した。He177と推定される双発機が2,000フィート上空を飛行中に、4門5インチの閃光弾を2発発射したが、爆撃機には命中しなかったようである。ジェファーズのAN/ARQ電子機器対策オペレーターは、敵が艦船に向かって爆弾を滑空させようとした3つの例で、飛行機からの通信を傍受し妨害した。そのうちの1機は、ジェファーズの北西約1マイルのディキシー・ライン・スクリーン Dixie Line Screenに横たわるメレディスの船首から約800ヤード離れた海面に、約2,000ポンドの爆弾または滑空弾を投下したのである。クヌファーは、この攻撃で“船がひどく揺さぶられ”、船尾が横にひっくり返ったと険しい表情で述懐している。この攻撃は、爆弾が継ぎ目をさらに開いて、船尾が自ら緩んだ最初の例であった。ジェファーズ艦長アルバート C. マードゥー大佐 Capt. Albert C. Murdaughはジェファーズに救助に全力を尽くすよう指示し、船は消防隊と救助隊をボートに降ろし、彼らはメレディスに並走した。ジェファーズは、更なる攻撃から船を隠すための命令に従うため、0205に煙を出したが、同艦の煙幕は救助活動の妨げとなり、10分後に中止の命令を受けた。クヌファーは0230時にまだ船に残っている者に船を捨てるよう命じ、ジェファーズとベイツはメレディスのそばに立っていた。二度救助された船は、0445時までにシェルブール海岸に向かって漂流したが、これは敵がバルフルールなどに多数の沿岸砲を配備しており、射程距離に近づけば砲撃を開始する可能性が高いため、クヌファーの判断によるものであった。メレディスは浮いたまま漂流を続ける気配があり、ドイツ軍に沈められるか、拿捕されるかという二重の問題が発生した。マードゥーはジェファーズに再び艦を接近させ、別の救助隊を派遣して艦の救助を試みるよう命じた。乗組員達は、適切な道具があればメレディスを引き揚げることができると報告し、ジェファーズは右舷から左舷に横付けし、追加の乗組員を送り込んで警備に当たらせた。ジェファーズはメレディスを牽引して襲撃地点に戻り、左舷のエンジンで5ノット、そののち10ktで回転させた。2隻の巡洋艦が去り、攻撃輸送艦ベイフィールド Bayfield(APA-33)、メレディス、バノック、艦隊航洋曳船カイオワ Kiowa(ATF-72)救難航洋曳船ATR-3は、9日の日の出とともに錨で揺られ、バノックは“機雷で沈没した状態”と辛辣な報告をしている。ジェファーズはこの地域を離れ、0903にFire Support Station 1の艦砲射撃支援船としてハーンドンを救援した。メレディスは甲板をほぼ水平にして停泊し続けたが、クヌファーが“すごい音”と表現したように、1944年6月9日、1010時に真っ二つに割れ始めた。メレディスの船首は船尾に滑り落ち、45゚近くまで上昇し、船尾は前方に滑り落ち、20゚ほどの角度まで上昇した。メレディスの船尾は前方にスライドし、深度充電ラックと3号5インチマウントの後の部分が喫水線の上に見えるまで直立したまま下降した。船首は、右舷の部分が横になり、足の付け根だけが水面上に残るまでひっくり返った。メレディスのこれらの部分は、翌日の夜まで見えたままであったが、急速に視界から外れていった。駆逐艦の沈む船首部分は、バノックをその上に引き寄せ、曳船の底板を損傷させてから、左舷側をクリアしてメレディスから立ち上がるためにラインを切断した。メレディスの警備員は曳船の方に泳いで行き、バノックは生存者を探すために断固として海を泳いだ。バノックは、1414時にまだ浮いているメレディスの船尾半分にSND 15755番サルヴェージ・アンカー No. SND 15755 salvage anchorと100ファゾムの1 5/8インチ・ワイア・ロープを錨で固定した。メレディスは、同船中隊の士官2名と下士官兵33名の計35名が死亡、士官2名と下士官兵25名の計27名が傷病により入院を余儀なくされるなどの被害を受けた。生存者は6月10日、イギリス行きのEC2-S-C1型貨物船ベンジャミン・ホーキンス Benjamin Hawkins(MCハル913)でこの地を離れた。バノックはCapelle Roadsteadの戦車揚陸艦LST-311に右舷に係留し、メレディスの引き揚げ砲を戦車揚陸艦(9日、1555〜1717)に移し、イギリスに運んで修理し、可能なら現役に戻そうとした(1234567
◎1960/8/5 解体のため、フランスのSt. Francaise de Recheriesに売却
◎1960/9/1 Baie de Seineにて引き揚げられ、解体が開始された
◎2000〜2002 この間、海軍歴史遺産部水中考古学課 Naval History & Heritage Command's Underwater Archeology BranchがD-Day沈没船のリモート・センシング調査 remote sensing surveyを行った結果、少なくとも駆逐艦の一部が海底に残っている可能性があることが判明し、船尾の一部は引き揚げ時の衝撃で、イギリス海峡 English Channel's floorの底部から約9.5フィート隆起していた
◎Sunk by mine by Normandy, 8-9 Jun 1944 (32 killed). Normandy.

↑Image courtesy of Shipbucket.
ド・ヘイヴン De Haven DD-727 バス鉄工所 1944/3/31 1973 1973/12/3 ◎1960/2/1 FRAM改装(〜1960/9)
◎1973/12/5 韓国に譲渡されInchon(DD 98)と改名
◎DD 918となる
◎1993 除籍、解体のため売却
マンスフィールド
12
Mansfield DD-728 バス鉄工所 1944/4/14 1971/2/4 1974/2/1 1944/12/17 フィリピン海にて給油艦から給油中、台風接近により荒波の中、燃料蛇管が切断される(航空戦史シリーズNo. 55「神風、米艦隊撃滅」(朝日ソノラマ)より)
◎1960 FRAM II改装
◎1974/6/4 アルゼンチンに譲渡され部品供給艦となる
ライマン K. スウェンソン
12
Lyman K. Swenson DD-729 バス鉄工所 1944/5/2 1971/2/12 1974/2/1 1944/12/17 フィリピン海にて給油艦から給油中、台風接近により荒波の中、燃料蛇管が切断される(航空戦史シリーズNo. 55「神風、米艦隊撃滅」(朝日ソノラマ)より)
◎1960/6/27 FRAM II改装(12
◎1974/5/6 台湾に譲渡され部品供給艦となる
コレット
12
Collett DD-730 バス鉄工所 1944/5/16 1970/12/18 1974/2/1 1944/12/17 フィリピン海にて戦艦ウィスコンシン Wisconsin(BB-64)から給油中、台風接近により荒波の中、原則での燃料搭載条件が悪く、燃料蛇管が2本とも波にさらわれる(航空戦史シリーズNo. 55「神風、米艦隊撃滅」(朝日ソノラマ)より)
◎1974/6/4 アルゼンチンに譲渡されPiedra Buenaと改名(12
◎1984 除籍
◎1988 標的として沈没
マドックス
12
Maddox DD-731 バス鉄工所 1944/6/2 1972/7/1 1972/7/2
(1972/7/6?)
◎1943/10/28 起工
◎1944/3/19 進水
1944/12/18 フィリピン海にて台風より損傷
1945/1/21 台湾近海にて日本海軍の特攻機の攻撃により損傷、のちにウルシーにて修理
1945/6/5 フィリピン海にて台風より損傷
◎1947/3下旬? サン・ディエゴにて予備練習艦となる
◎1952夏 オーヴァーホール
1964/8/2 トンキン湾事件にて北ヴェトナム海軍P-4型魚雷艇T-333の銃撃により銃弾がMk. 56対空射撃指揮装置にめり込む(12
◎1964秋 ロング・ビーチにて保全、修理(〜1965/1中旬)
◎1967/10/13 ロング・ビーチ海軍造船所にてオーヴァーホール(〜1968/2)
◎1968/12 オーヴァーホール、保全
◎1972/7/6 台湾に譲渡されPo Yang(928)となる
◎のちに艦種記号を910に改める
◎1985 除籍、解体
◎Luzon Raids Oct 1944, Formosa Raids Jan 1945, Luzon Raids 1945, China Coast Raids Jan 1945, Fleet Raids 1945, Raids on Japan Jul-Aug 1945.
Attacked by North Vietnam torpedo boats off coast of Vietnam, 2-4 Aug 1964; Gulf of Tonkin incident, 2-5 Aug 1964. Korea (North Korean Aggression, 27 Jun-2 Nov 1950. Communist China Aggression, 3 Nov 1950-24 Jan 1951. 2nd Korean Winter, 28 Nov 1952-30 Apr 1952. Korean Defense, 1 May-30 Nov 1952. 3rd Korean Winter, 1 Dec 1952-30 Apr 1953. Korean Summer-Fall, 1 May-17 Jul 1953.), Vietnam Aug-Sep 1964, Aug- Nov 1965, Oct 1966-Aug 1967, Aug-Dec 1968.
ハイマン Hyman DD-732 バス鉄工所 1944/6/16 1969/11/16 ◎1970/10/13 解体のため売却
マナート L. エーブル
12
Mannert L. Abele DD-733 バス鉄工所 1944/7/4 ◎1943/12/9 起工
◎1944/4/23 進水(123
◎ボストンにて就役
1945/4/12 沖縄海域にて日本海軍の特攻機(桜花一一型)の攻撃により沈没

(↑日本海軍空技廠特殊攻撃機桜花一一型(MXY7))
2022末 海洋探検家ティム・テイラー Tim Taylor氏のチーム“ロスト52プロジェクト Lost 52 Project”が昨年末に沖縄北方沖約75マイル(約120.70km)にて発見した。チームが撮影した画像などから、桜花が突入したとみられる船体が中央部で二つに折れていることが判明し、Naval History and Heritage Commandが研究者や政府機関の協力も得て艦の構造や歴史、記録の検証を重ねたところ、2023年5月末にマナート L. エーブルと特定
◎Iwo Jima, Okinawa.
パーディ Purdy DD-734 バス鉄工所 1944/7/18 1973/7/1 ◎1974/6/11 解体のため売却
ロバート H. スミス Robert H. Smith DD-735 バス鉄工所 1944/8/4 1955/6/30 1971/2/26 ◎1944/7/19 軽敷設艦(DM-23)となる
◎1947/1/29 予備役に編入
◎1969/1/1 高速機雷敷設艦(MMD-23)となる
◎1973/12/3 解体のため売却
トーマス E. フレイザー Thomas E. Fraser DD-736 バス鉄工所 1944/8/22 1955/6/30 1970/11/1 ◎1944/7/20 軽敷設艦(DM-24)となる
◎1955/6/10 予備役に編入
◎1969/1/1 高速機雷敷設艦(MMD-24)となる
◎1974/6/12 解体のため売却
シャノン Shannon DD-737 バス鉄工所 1944/9/8 1955/6/30 1970/11/1 ◎1944/7/19 軽敷設艦(DM-25)となる
◎1955/7/7 予備役に編入
◎1969/1/1 高速機雷敷設艦(MMD-25)となる
◎1973/5/18 解体のため売却
ハリー F. バウアー Harry F. Bauer DD-738 バス鉄工所 1944/9/22 1956/3/12 1971/8/15 ◎軽敷設艦(DM-26)となる
◎1956/3/12 予備役に編入
◎1969/1/1 高速機雷敷設艦(MMD-26)となる
◎1974/6/12 解体のため売却
アダムス Adams DD-739 バス鉄工所 1944/10/10 1947/1/29 1970/12/1 ◎1944/7/20 軽敷設艦(DM-27)となる
◎1947/1/29 予備役に編入
◎1969/1/1 高速機雷敷設艦(MMD-27)となる
◎1971/12/16 解体のため売却
トールマン Tolman DD-740 バス鉄工所 1944/10/27 1947/1/29 1970/12/1 ◎1944/7/19 軽敷設艦(DM-28)となる
◎1969/1/1 高速機雷敷設艦(MMD-28)となる
◎1971/12/16 解体のため売却
ドレックスラー Drexler DD-741 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1944/11/14 1945/5/28 沖縄海域にて日本海軍の特攻機の攻撃により沈没
ブルー Blue DD-744 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1944/3/20 1971/1/27 1974/2/1 ◎1947/2/14 予備役に編入
◎1949/3/14 再役
◎1977/4/28 カリフォルニア沖にて標的として沈没
ブラッシュ Brush DD-745 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1944/4/17 1969/10/27 1969/10/27 1959/10/23 サン・ディエゴにて対潜航空母艦ヨークタウン Yorktown(CVS-10)と衝突し損傷
◎1969/12/9 台湾に譲渡されHsiang Yangと改名
◎1984 除籍、解体のため売却

↑Image courtesy of Shipbucket.
タウシッグ Taussig DD-746 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1944/5/20 1970/12/1 1974/2/1 ◎1962/1/22 FRAM改装(〜1962/10/11)
◎1970/12/1 予備役に編入
◎1974/5/6 台湾に譲渡され洛陽 Lo Yang(DD 14)と改名
◎914となる
◎2000/2/16 退役
サミュエル N. ムーア Samuel N. Moore DD-747 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1944/6/24 1969/10/24 1969/10/24 ◎1969/12/9 台湾に譲渡されHeng Yang(DD-2)と改名
◎1995 除籍
ハリー E. ハバード Harry E. Hubbard DD-748 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1944/7/22 1969 1969/10/17 ◎1947/1/15 予備役に編入
◎1949/5/14 再役
◎1949/12/12 退役
◎1950/10/27 再役
◎1970/7 解体のため売却
ヘンリー A. ワイリー Henry A. Wiley DD-749 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1944/8/31 1947/1/29 1970/10/15 ◎1944/7/20 軽敷設艦(DM-29)となる
◎1947/1/29 予備役に編入
◎1969/1/1 高速機雷敷設艦(MMD-29)となる
◎1972/5/30 解体のため売却
シア Shea DD-750 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1944/9/30 1958/4/9 1973/9/1 ◎1943/12/23(1943/12/28?) 起工
◎1944/5/20 進水
◎1944/7/19(1944/7/20?) 艦種を軽敷設艦(DM-30)に改める
J. ウィリアム・ディター J. William Ditter DD-751 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1944/10/28 1945/9/28 1945/10/11 ◎1944/7/19 軽敷設艦(DM-31)となる
1945/6/6 沖縄海域にて日本海軍の特攻機の攻撃により損傷
◎1946/7 解体のため売却
◎1969/1/1 高速機雷敷設艦(MMD-31)となる
アルフレッド A. カニンガム Alfred A. Cunningham DD-752 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1944/11/23 1971/2/24 1974/2/1 ◎1947/5/12 予備役に編入
◎1949/8 退役
◎1950/10/5 再役
◎1957/12 ロング・ビーチ海軍造船所にて修理改装
◎1961/1 FRAM改装(〜1961)
1963 映画会社ワーナー・ブラザースの映画「秘密兵器リンペット The Incredible Mr. Limpet」撮影用に用いられる(12345、画像は1964年の映画「秘密兵器リンペット The Incredible Mr. Limpet」のシーン。注:最初の3枚の駆逐艦の画像は、カニンガムの艦種記号を持つ未知のフレッチャー級である)
◎1964年2月20日、本艦は6ヶ月間の西太平洋遠征のため、第232駆逐小艦隊 DesDiv 232のほかの艦とともにロング・ビーチを出発した。2月28日に真珠湾に到着したアルフレッド A. カニンガムは、3月23日に極東へ向けて出航するまで、現地で活動した。ハワイ出航直後、駆逐艦は沖縄沖で“クレイジー・ホース”作戦 Operation "Crazy Horse"に参加。4月7日、横須賀で1週間の保全整備を開始。この間、呉、佐世保、香港などに寄港した。6月9日から7月4日まで、台湾の高雄を出港し、台湾海峡の哨戒活動を行った。そののち、アルフレッド A. カニンガムは、海上自衛隊の艦船との共同作戦である“クロス・ティー”作戦 Operation "Crossed Tee"のため、日本海に赴いた。そののち、函館と横須賀に寄港、8月11日にロング・ビーチに帰着し、休暇、保全、現地での作戦に従事した。 11月15日、オーヴァーホールのためロング・ビーチ海軍造船所に入港。1965年3月15日にこのオーヴァーホール作業が完了すると、同艦はサン・ディエゴ海域での7週間の再訓練のためにロング・ビーチを出航した
◎1971/2/24 予備役に編入
◎1979/10/12 カリフォルニア沖にて標的として沈没
ジョン R. ピアース John R. Pierce DD-753 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1944/12/30 1973/7/1 ◎1947/1/24 退役
◎1947/5/1 予備役に編入
◎1949/4/5 再役
◎1974/11/6 解体のため売却
フランク E. エヴァンス
123
Frank E. Evans DD-754 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1945/2/3 1969/7/1 1969/7/1 1969/6/3 ルソン島沖にてオーストラリア海軍航空母艦Melbourne(R.21)と衝突し損傷(123456789101112131415161718192021222324252627
1969年6月6日、スービック湾の大型修理浮きドック(非自走)ウィンザー Windsor(ARD-22)で損傷したフランク E. エヴァンス。エヴァンスの 艦尾に掲げられたユニオン・ジャック Union Jackに注目。写真:PN2 Ron Treser 1971年4月26日、PAO CINCPAC Det-WESPAC。米国国立公文書館 United States National Archives、Photo No. NHF-124
衝突事故後の査問委員会の招集
◎1969/10/10 スービック湾にて標的として沈没
ジョン A. ボール John A. Bole DD-755 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1945/3/3 1970/11/6 1974/2/1 ◎1961 FRAM改装(〜1962)
◎1974/5/6 台湾に譲渡され部品供給艦となる
ビーティ Beatty DD-756 ベスレヘム・スチール社スタテン・アイランド造船所 1945/3/31 1972/7/14 1972/7/14 ◎1972/7/14 ヴェネズエラに譲渡されCaraboboと改名
◎1981 除籍、解体のため売却
パトナム
12
Putnam DD-757 ベスレヘム・スチール社サン・フランシスコ造船所 1944/10/12 1973/8/6 ◎1950/10 予備役に編入
1953冬 映画会社パラマウントの映画「トコリの橋 The Bridges at Toki-Ri」撮影用に用いられる攻撃航空母艦オリスカニー Oriskany(CVA-34)と並走する駆逐艦として、懲戒移送されたヘリコプター・パイロット役のミッキー・ルーニー Mickey Rooneyアール・ホリマン Earl Hollimanを移送ラインで迎え入れるという重要な役を演じた)
◎1962/6 FRAM II改装(〜1963/3)
◎1974/6/24 解体のため売却
ストロング Strong DD-758 ベスレヘム・スチール社サン・フランシスコ造船所 1945/3/8 1973/10/31 1973/10/31 ◎1947/5/9 予備役に編入
◎1949/5/14 再役
◎1962/3 FRAM II改装(〜1962/12)
◎1973/10/31 ブラジルに譲渡されRio Grande Del Norte(D 35)と改名
◎1995/12 退役
◎1996/2/6 除籍
1997/6 解体のためインドに回航中、南アフリカのDurban沖にて沈没
ロフバーグ Lofberg DD-759 ベスレヘム・スチール社サン・フランシスコ造船所 1945/4/26 1971/1/15 1973/2/1 ◎1961 FRAM II改装(〜1962/7/23)
◎1974/5/6 台湾に譲渡され部品供給艦となる
ジョン W. トーマソン John W. Thomason DD-760 ベスレヘム・スチール社サン・フランシスコ造船所 1945/10/11 1970/12/8 1974/2/1 ◎1959/3 FRAM改装
◎1974/5/6 台湾に譲渡され南陽 Nan Yang(917)と改名
◎2000/1/16 退役
バック Buck DD-761 ベスレヘム・スチール社サン・フランシスコ造船所 1946/6/28 1973/7/15 ◎1973/7/16 ブラジルに譲渡されAlagoas(D 36)と改名
◎1995/6/30 退役、除籍
ヘンリー Henley DD-762 ベスレヘム・スチール社サン・フランシスコ造船所 1946/10/8 1973/7/1 ◎1950/3/15 予備役に編入
◎1950/9 再役
◎1974/6/24 解体のため売却
ロウリー Lowry DD-770 ベスレヘム・スチール社サン・ペドロ造船所 1944/7/23 1973/10/31 ◎1947/6/30 予備役に編入
◎1950/12/27 再役
◎1960 FRAM II改装(〜1961/1/14)
◎1973/10/31 ブラジルに譲渡されEspirito Santo(D 38)と改名
◎1996/2/2 除籍
リンジー
12
Lindsey DD-771 ベスレヘム・スチール社サン・ペドロ造船所 1944/8/20 1946/5/25 1970/10/1 ◎1943/9/12 起工
◎1944/3/5 進水
◎1944/7/19 艦種を軽敷設艦(DM-32)に改める
グウィン Gwin DD-772 ベスレヘム・スチール社サン・ペドロ造船所 1944/9/30 1958/4/3 1971/10/22 ◎高速敷設艦(DM-33)となる
◎1946/9/3 予備役に編入
◎1952/7/8 再役
◎1958/4/3 予備役に編入
◎1969/1/1 高速機雷敷設艦(MMD-33)となる
◎1971/8/15 トルコに譲渡されMuavenet(DM 357)と改名
1992/10/2 NATO演習中に汎用航空母艦サラトガ Saratoga(CV-60)が発射したシー・スパロー艦対空ミサイルが誤って命中、損傷
◎1992 除籍、解体のため売却
アーロン・ウォード
12
Aaron Ward DD-773 ベスレヘム・スチール社サン・ペドロ造船所 1944/10/28 1945/9/28 1945/10/11 ◎1943/12/12 起工
◎1944/5/5 進水
◎1944/7/19 艦種を軽敷設艦(DM-34)に改める
ヒュー W. ハドリー
12
Hugh W. Hadley DD-774 ベスレヘム・スチール社サン・ペドロ造船所 1944/11/25 1945/12/15 1946/1/8 ◎1944/2/6 起工
◎1944/7/16 進水
1945/5/11 沖縄海域にて日本海軍の特攻機(桜花一一型)と他に2機の特攻機の攻撃により損傷(123456)、一時的な修理
◎1945/7/15 慶良間列島の浮きドックにて入渠、Buckner Bayへ艦隊航洋曳船アヴォイエル Avoyel(ATF-150)が曳航、のちに本国へ曳航(1945/9/26到着)

(↑日本海軍空技廠特殊攻撃機桜花一一型(MXY7))
◎1947/9/2 解体のため、サン・フランシスコのWalter W. Johnson Co. に売却
◎Okinawa.
ウィラード・キース Willard Keith DD-775 ベスレヘム・スチール社サン・ペドロ造船所 1944/12/27 1972/7/1 1972/7/1 ◎1946/6/20 予備役に編入
◎1950/10/23 再役
◎1972/7/1 コロンビアに譲渡されCaldas(DD 02)と改名
◎1977 除籍、解体のため売却
ジェームズ C. オーウェンス James C. Owens DD-776 ベスレヘム・スチール社サン・ペドロ造船所 1945/2/17 1973/7/15 1973/7/15 ◎1950/4/3 退役
◎1950/9/20 再役
◎1962/1/11 FRAM II改装(〜1962)
◎1973/7/15 ブラジルに譲渡されSergipe(D 35)と改名
◎1995/10/17 除籍
ゼラーズ Zellars DD-777 トッド・パシフィック造船所 1944/10/25 1971/3/19 1971/3/19 ◎1959 FRAM II改装(〜1960/6)
◎1971/3/19 イランに譲渡されBabr(DDG 7)と改名
◎61となる
◎1994 解体のため売却
マッシー Massey DD-778 トッド・パシフィック造船所 1944/11/24 1969 1973/9/17 ◎1963/4 FRAM改装
◎1974/11/13 解体のため売却
ダグラス H. フォックス Douglas H. Fox DD-779 トッド・パシフィック造船所 1944/12/26 1973/12/15 1973/12/15 ◎1950/4/21 予備役に編入
◎1950/11/15 再役
◎1974/1/8 チリに譲渡されMinistro Portalesと改名
◎1990 除籍、解体のため売却
ストームズ
12
Stormes DD-780 トッド・パシフィック造船所 1945/1/27 1970/12/5 1972/2/16 1945/5/25 沖縄海域にて日本軍機の爆撃と特攻機の攻撃により損傷(12
◎1960/6/3 FRAM II改装(〜1961/1/5)
◎退役後、保管
◎1972/2/16 イランに譲渡されPalang(DDG 9)と改名(1234
◎1980年代 艦種記号をD 62に改める
◎1994 解体
ロバート K. ハンティントン Robert K. Huntington DD-781 トッド・パシフィック造船所 1945/3/3 1973/10/31 1973/10/31 ◎1960 FRAM改装(〜1961)
◎1973/10/31 ヴェネズエラに譲渡されFalconと改名
◎1981 除籍、解体のため売却
ブリストル Bristol DD-857 ベスレヘム・スチール社サン・ペドロ造船所 1945/3/17 1969/11/21 ◎1969/12/5 台湾に譲渡されHua Yang(903)と改名
◎1993 除籍、解体のため売却


Update 24/08/19