技術調査艦
アイコン | 意味 |
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません | |
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです | |
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です | |
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です | |
インターネットやTVゲームに登場する事柄です | |
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です |
- ※PSAは試験航海後の有用性(Post Shakedown Availability)の略。ドッグ・ウォッチ(Dog Watch)とは、海上監視システムにおいて、標準的な監視期間の半分の長さの作業シフト(“ウォッチ”としても知られる)である。この場合、16時から18時までが“第一”ドッグ・ウォッチ、18時から20時までが“第二”または“最終”ドッグ・ウォッチとなる。この時計が存在するのは、乗組員が全ての時計を回るためには、1日のうち奇数個の時計が必要だからである。1つの当直を半分に分けることで、毎晩1つのチームが中番をする代わりに、船員は別々の当直をすることができる。また、2つの時計がある場合、両方の時計がほぼ同じ時刻に夕飯を食べることができる。語源はオックスフォード英語辞典によると、“ドッグ・ウォッチ”という言葉は、ドイツ語またはオランダ語の類似語を直訳したものである。また、シリウス Siriusが夜間に見ることのできる最初の星であるという主張から、“犬の星”であるシリウスに由来するとも言われている。別の民間語源としては、これらの“半”見張りを任された者が“見張りをかわす”と言われ、“かわし番”をする、または立っていたと言うことからこの名前が生じたとする説がある。これが短縮されて“ドッグ・ウォッチ”と呼ばれるようになった。また、寝ている人はこの時計では“ドッグ・スリープ dog sleep”しか得られないというヴァリエーションもある。“ブラック・ギャング black gang”とは米俗語で機関室配属の船員のこと
- 軽荷排水量:7,330t(8,345tともいわれる) 満載排水量:11,365t(11,375tともいわれる) 全長:134.41m(134.59mともいわれる) 幅:17.10m(17.37mとも17.98mともいわれる) 吃水:6.70m(6.97mとも7.01mともいわれる) 主缶:缶2基 主機/軸数:Filer & Stowell Co. 式3-cyl. 三衝程蒸気レシプロ機関(AGTR-2、AGTR-3はGeneral Machinery Corp. 式3-cyl. 三衝程蒸気レシプロ機関)/1軸 出力:2,500馬力 速力:11.0kt 兵装:12.7mm機銃4基 乗員:254名(士官16名、下士官兵278名ともいわれる、AGTR-3は313名)
- ※Z-EC2-S-C5型“リバティ・シップ”を改装
艦名 | NAME | 艦種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
オックスフォード | Oxford | AGTR-1 | ニュー・イングランド・シップビルディング社東造船所 | 1961/7/8 | 1969/12/19 | 1969/12/19 | ◎1964/4/1 艦種を技術調査艦(AGTR-1)に改める ◎1970 台湾にて解体 |
ジョージタウン | Georgetown | AGTR-2 | ニュー・イングランド・シップビルディング社東造船所 | 1963/11/9 | 1969/12/19 | 1969/12/19 | ◎1964/4/1 艦種を技術調査艦(AGTR-2)に改める ◎1970/6/24 海事局に移管、国家防衛予備船隊に編入 ◎1970/7/24 解体のため、オランダのN.V. Intershitraに売却(売却額$185,001) ◎1971 解体 |
ジェームズタウン | Jamestown | AGTR-3 | ニュー・イングランド・シップビルディング社東造船所 | 1963/12/13 | 1969/12/19 | 1969/12/19 | ◎1964/4/1 艦種を技術調査艦(AGTR-3)に改める ◎のちに入渠 ◎除籍後、海事局に移管 ◎1970 日本にて解体(ポートランドにて解体ともいわれる) |
- 軽荷排水量:4,420t 満載排水量:11,100t(AGTR-5は7,725t) 全長:138.68m(138.77mともいわれる) 幅:18.89m(AGTR-5は18.28m) 吃水:7.01m(8.71mともいわれる) 主機/軸数:蒸気タービン2基/1軸 出力:8,500馬力 速力:16.0kt(公試) 兵装:12.7mm機銃4基 乗員:358名
- ※VC2-S-AP3型“ヴィクトリー・シップ”を改装
艦名 | NAME | 艦種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
ベルモント | Belmont | AGTR-4 | オレゴン・シップビルディング社 | 1964/11/2 | 1970/1/16 | 1970/1/16 | ◎1964/4/1 艦種を技術調査艦(AGTR-4)に改める ◎1964/11 ピュージェット・サウンド海軍造船所にて艤装 ◎1965/3上旬 ノーフォーク海軍工廠にてPSA ◎1966年元旦、同船はCallaoに停泊していた。2日後、ベルモントは運河地帯に戻るため錨を下ろした。ベルモントは1月21日に運河を再び通過し、28日にノーフォークに係留された、そこで約7週間、保全整備と改装で待機した ◎1966/11中旬 ノーフォーク海軍造船所にて改装 ◎1967/6中旬 ノーフォークにて修理 ◎1968/1/26 ノーフォーク海軍造船所にてオーヴァーホール ◎1969 ノーフォークにて修理改装 ◎1970/6/24 解体のため、ボルティモアのボストン・メタルズ社に売却 |
リバティ (1、2) |
Liberty | AGTR-5 | オレゴン・シップビルディング社 | 1964/12/30 | 1968/6/28 | 1968/6/28 (1970/6/1?) |
◎1964/4/1 艦種を技術調査艦(AGTR-5)に改める ◎1965/1/6 ピュージェット・サウンド海軍造船所司令官フロイド B. シュルツ少将 Rear Adm. Floyd B. Schultzが、艤装の初期に同艦を訪れた。造船所での生活も終わりに近づいたころ、リバティは2月1日の第一当直半ばの2201時、近くに係留されていた調査潜水艦[実験潜水艦]ブリーム Bream(AGSS-243)の後部機関室で火災が発生したとの通報を受け、救助・支援隊を呼び寄せた。しかし、技術調査艦の緊急対応要員は、潜水艦乗組員が事態を把握したため、その直後に活動を停止した ◎艤装を終えたリバティは、1965年2月2日に海軍造船所を出港し、新型の大型港内曳船アルカタ Arcata(YTB-768)がピア5、バース5-Aの横付けからシンクレア入江への進入を支援した。西海岸を航行し始めて3日後、リバティは大荒れの天候に見舞われた。2月5日、中盤の見張り終了から11分後、甲板貨物として運搬されていた車両6台が固定用ケーブルを切断して船尾に滑落し、後部甲板の手すり30フィート(約1.5メートル)、準備ロッカー2つ、梯子2本が流され、フレーム55の前方の主甲板にあった甲板貨物として運搬されていた他の車両7台にも損傷を与えた。0832時、激しい雨のため視界は1マイルまで低下し、リバティは濃霧信号を鳴らし始め、艦長のダニエル T. ウィーランド Jr. 中佐 Cmdr. Daniel T. Wieland, Jr. は臨時の見張りを配置した。それから2時間も経たないうちに、視界は5マイルまで広がり、1015時に濃霧信号を停止した ◎リバティは1965年2月7日、サン・フランシスコ湾に入港し、正午の見張り開始直前にゴールデン・ゲート・ブリッジの下を通過した。リバティは0858時にオークランドの米海軍補給センター U.S. Naval Supply CenterのピアD、バース4に係留し、左舷で中型港内曳船ユマ Yuma(YTM-748)に支援された。2日前(1045時~1300時)に損傷した車両を降ろしたのち、船は同日(2月7日)の最初のドッグ・ウォッチの開始時刻に出航し、ゴールデン・ゲート・ブリッジの下を往路で通過し、そののちまもなく国際水域に入った ◎運河地帯に進路を設定したリバティは、そののちの8日間、総員配置、船外作業員、操舵負傷者、艦内暗転、火災、砲術からクラッシュ・ストップ&スタートまで、頻繁に訓練を行った。1965年2月16日の16時から20時の間にRodmanに到着し、翌日(0804時~1215時)燃料を補給したのち、ウィーランド中佐は第15海軍区 15th Naval Districtの司令官に電話をかけ、1515時に司令官の参謀長から返事をもらった。リバティは2045時にラインを張り、2235時に曳船Gatunの支援を受けてパナマ運河の通過を開始し、18日の0626時に通過を完了した。その1時間後、ガトゥン閘門 Gatun locksをあとにし、ノーフォークに向かった ◎1965年2月23日、正午の見張り中にチェサピーク湾に立ち寄ったリバティは、ヴァージニア州ポーツマスのノーフォーク海軍造船所に係留された。翌日の午後、3隻の曳船によって別のバースに移動させられた技術調査艦は、すぐに制限された稼働を開始した。3月19日に再び移動し、4月1日には姉妹艦ベルモント(AGTR-4)と並んで係留された ◎1965年4月2日の0824時にキューバのグアンタナモ湾に向けて航行中のリバティは、1115時にチェサピーク・ベイ・ブリッジ・トンネルを通過し、“大西洋艦隊司令長官 CinCLantFlt(Commander in Chief, Atlantic Fleet: CinCLantFlt)第4四半期就業予定表 Fourth Quarter Employment Schedule”に従って大西洋に出た。翌日(4月3日)の昼の当直では、同船はロール・スタビライゼーション・タンク roll stabilization tankのテストを行い、そののち戦時巡航訓練を行った 悲劇的なことに、4月5日、リバティが戦闘配置に就いてから1時間も経たないうちに、ウィリアム R. スミス暗号技術上等兵曹 CTCS William R. Smithは、総員配置訓練の0855時に心臓発作を起こした。すぐに病室に運ばれたが、スミスは1025時に死亡した。その日のうちに、船はバミューダ沖で米陸軍の哨戒ボートQ-632とランデヴーし、スミスの遺骨と身の回り品をそのボートに移し、キューバ海域に向けて航行を続けた ◎リバティは1965年4月6日、総員配置でふたたび演習を行い、核攻撃訓練を実施したのち、砲撃訓練を行い、またも死傷者を出さずに砲撃を行った。総員配置を確保したのち、戦術的な直径を決定するために“さまざまな速度でさまざまなコースの操舵を開始”し、午後までその訓練を続けた。リバティの乗組員は翌朝も訓練を続け、今度は操舵中の死傷者や浅瀬での破壊訓練、操船放棄、船外活動などを行った。前日と同様、午後はロール安定訓練を実施した。翌日(4月8日)も同じようなことが繰り返されたが、監視員たちは約12マイル先の水平線上、方位110゚に“強烈な赤い光”を発見した。進路を変更し速度を上げた技術調査艦は調査に向かったが、無線もレーダーも受信できなかった ◎1965年4月11日正午過ぎにグアンタナモ湾に入港したリバティは、1252時に同地の米海軍基地のピア・リマに係留され、ほぼ2週間、旧“ヴィクトリー・シップ”はそこでシェイクダウンを行った。この期間のハイライトは、駆逐艦ニューマン K. ペリー Newman K. Perry(DD-883)(4月14日)、マッカフェリーMcCaffery(DD-860)のグアンタナモ防衛海域でのピケット任務(4月18日)、艦隊訓練群 Fleet Training Groupのオブザーヴァーの受け入れ(4月19日)、沿岸警備隊のカッター、砲艦アンドロスコギン Androscoggin(WPG-68)(4月20日~22日)との共同作戦(20日には曳航訓練(曳航したり、曳航されたり)、洋上補給訓練(22日))であった。最終的に、リバティは4月23日に“Gitmo”をあとにし、ジャマイカに向けて進路をとった ◎翌日(1965年4月24日)の朝の見張り中にMontego Bayに到着したリバティは、26日の朝に出航のときが来るまで、入港のためにそこにとどまった。しかし、ベアリングが摩耗し、錨の巻き上げ機が使えなくなった。浅瀬に向かって漂流しながら、船は5ktで3分の1進んだのち、100ヒロ・ラインに(船首を風に向けて)停船し、甲板部が5tのチェーン・フォールを2本装備して、アンカーを手で巻き上げた。26日の午後の見張り終了時までに航行中のリバティは、4月29日にキー・ウェストの海軍作戦基地に入港し、小型港内曳船YTL-440とYTL-558に支援され、ピアD-2、バースBに横付けされた ◎翌朝(1965年4月30日)、キー・ウェストをクリアした技術調査艦は、米海軍のヘリコプターから届けられた荷物を受け取るため、1125時に26フィートのモーター・ホエールボートを下げた。1137時にボートを回収し、リバティはノーフォークへの航行を再開した。しかし5月3日、別の海軍ヘリとランデヴーし、ファーガソン博士 Dr. Fargusonを乗船させたのち、出航した。1746時、このヘリはファーガソン博士とミック三等航海士 BM3 Mickを吊り上げ、キー・ウェストの米海軍病院に向けて飛び立った ◎リバティは1965年5月10日、ハンプトン・ローズの見慣れた海域に立ち、その日の午後、ノーフォーク海軍造船所のバース36に係留された。5月26日、大型港内曳船アンカチャク Ankachak(YTB-501)とアポホラ Apohola(YTB-502)は、この船を曳航し、次の段階のためにバース10と11に移動した ◎リバティは1965年10月22日、オールド・ポイント・コンフォート Old Point Comfortを右舷前方に通過した。アポホラの支援を受け、技術調査艦は1044時にピア4のバース26に横付けされた。リバティは12月までそのバースに留まり、11月の間は執行役員のジョン・A・マゾリーニ少佐 Lt. Cmdr. John A. Mazzoliniが指揮官代理を務めた。11月18日17時14分、近くの護衛艦エドワード・マクドネル Edward McDonnell(DE-1043)から“換気扇から煙が上がっている”との通報があり、リバティの船員クヴェタン三等電子技術士 EM3 Cvetanが間もなく船内のランドリーでクラスAの火災が発生したことを報告した。リバティの水兵が火事を処理したため、艦内調査部門の責任者であり、司令部当直士官(command duty officer: CDO)であったロバート J. コラード少佐 Lt. Cmdr. Robert J. Corradoは、1737時に消防署に“結局、彼らは必要なかった”と伝えた。 CDOは、ふたたび炎が立ち上がらないよう、ランドリーと近くの塗料庫の再点火監視を命じた。月が明ける前の11月30日、駆逐艦ダグラス H. フォックス Douglas H. Fox(DD-779)艦上で火災が発生したとの通報を受け、リバティは消防援助隊を招集したが、駆逐隊員は外部の助けを必要とせずに炎を消した アポホラのアシストにより、リバティは1965年6月8日の昼の見張りの間にバース11とバース12を通過し、エリザベス川を下り、ホスピタル・ポイントを通過し、Thimble Shoals水路を下り、1115時に国際水域に入った。6月9日、Virginia Capes作戦海域で中盤に視界が悪くなったため、船は速度を落とし、濃霧信号を鳴らしたが、視界が良くなったため、これらの予防措置は不要となった。リバティはそののち、錨巻き上げ機とホエールボート・ダヴィットのテストを行った。中型港内曳船マサソイト Massasoit(YTM-131)、チルカット Chilkat(YTM-773)、オラタミン Oratamin(YTM-347)に助けられ、技術調査船はそののち、ノーフォーク海軍基地のピア5、バース51に接岸した その3日後の夜、1965年6月11日の最初の当直中に、B. R. ウッズ消防士見習い FA B. R. Woodsが突然倒れた。工作艦ヴァルカンVulcan(AR-5)の当直隊員とCDOに連絡した結果、NavStaの診療所から救急車が派遣された。船から降ろされた病身の水兵は、ポーツマスの米海軍病院に運ばれ、腰部肺炎と診断され、治療のために収容された ◎大型港内曳船チョウホナガ Chohonaga(YTB-500)とパデューカ Paducah(YTB-758)によりピア5に横付けされたリバティは、1965年6月15日にハンプトン・ローズを出航。Service Squadron (ServRon) 8に配属された同艦は、カナリア諸島へ単独で進み、6月24日に目的地に到着し、曳船El Gancheの支援を受けて、Santa Cruz de TenerifeのMoleに左舷から係留した。6日間の滞在ののち、リバティは6月30日午後に港を出航し、アフリカ沿岸に向けて出航した ◎1965年7月9日、リバティは凪の海上に横付けし、うねりに難なく乗り、航海を再開した。その数日後(7月13日)には、午後の当直時に乗組員撃退訓練を実施し、翌日(7月14日)の同じ時間にも同様の訓練を実施した ◎リバティは1965年7月15日、午前の見張りの間にVridi Canalの入り口沖で操船し、水先案内人のメリンティ少佐 Capt. Merintieを乗船させたのち、運河を通過してコート・ジヴォワールのAbidjan港に向かい、曳船Marcoryの支援を受けながら、グラン・ムーラン埠頭1番に係留した。その日の午後、ウィーランド中佐と、U.S. Chargé d'affaires、コート・ジヴォワール国軍大臣とその参謀長、国軍大臣、スーダン県知事、アビジャン市長との間で、相次いで電話があった。船員たちは帽子を交換し、熱帯の豪雨の中で踊り、ずぶ濡れになりながらも、新しい食べ物や友情に大喜びで船に戻っていった。そののち、ジョージ・アレン・モーガン米国大使 George Allen Morganは、リバティの士官と乗組員、そして彼らの“イヴォリアと米国の関係強化への貢献”を賞賛した ◎1965年7月20日、Abidjanを1543時に通過したリバティは、ふたたびMarcoryの支援を受け、南アフリカのケープタウンに進路をとった。その3日後、技術調査艦は7月23日1835時に“デイヴィー・ジョーンズ Davey Jones”を迎え、“ネプトゥヌス・レックス陛下からのメッセージ”を伝えたのち、“右舷のアンカー・チェーンから自身の船に乗り移り、船を離れた”。翌朝(7月24日)、船は0712時に赤道を通過し、そののちすぐにブリッジは“全機関停止”を告げた。リバティは航行を再開したが、“蟲 pollywogs”たちはもう乗船していなかった(赤道祭の行事) ◎リバティは、1965年7月26日のドッグ・ウォッチの時間帯にコンゴ川河口に停泊し、そののち、航行を開始し、コンゴ川河口の水域内に留まるように操船した。2122時、レオポルドヴィルの米国大使事務所から、コンゴ共和国とコンゴ川を離れる許可を得た ◎1965年8月3日、リバティは最初の見張りの間、2051に右舷クォーター沖、1,700ヤードの距離で無灯火のコンタクトを目視で確認した。見知らぬ船は2052時、技術調査船の右舷ビームを閉じ、12インチのサーチライト・ビームで米艦橋を照らした。リバティは24インチのサーチライトでよそ者の“船体番号”を照らした(P 583)。2054時、両艦はそれぞれのサーチライトを突然消し、リバティは接触者(ポルトガル海軍の哨戒艦Santiagoであることが判明した。皮肉なことに、Santiagoはシモンズ・ヴィクトリーと同じく第二次大戦中のアメリカ造船所の製品で、駆潜艇(鋼製船体)PC-1257であった)と交信するために速度を上げたが、両艦は結局何の交信も交わされないまま夜の闇に消えていった ◎リバティは、1965年9月6日の昼の見張りの間に次の寄港地であるナイジェリアのLagosに到着し、1101時にアンゴラの哨戒艇Jupiter(P 1132)を接岸させた。そののち、ジュピターは1645時に技術調査船の右舷ボート・ブームに係留され、その15分後に指揮官と乗組員がリバティのゲストとして乗船し、夕食をともにした。アンゴラの船員たちは1時間余りのちに出航し、リバティは次の寄港地であるナイジェリアのLagosに向けて出航した ◎技術調査船は、1965年9月10日の昼の監視の間、Lagosの入り口に立ち、そののち航路を通過した。リバティはモーター・ホエールボートを下ろし、右舷のアンカーを降ろしたのち、曳船George Ohikereが右舷側を押し、米国船をマリーナのNo. 1とNo. 2のブイの間に係留した。リバティは右舷のアンカーを吊り上げ、艦長専用艇と汎用ボートを下ろし、船の寄港中に使用できるようにした ◎リバティは、曳船Abdul Malikiの支援を受けながら、1965年9月14日の朝にLagosを出航し、セネガルのDakarに向かう途中、18日の最初の見張りの間にポルトガルの巡視船Venus(P 1133)に遭遇した。リバティはDakarに入港するまでの約2週間、西アフリカ沖で単独で行動した。フランス海軍の曳船Aigeitte、Ibis、Malikaに停泊を支援された技術調査艦は、DakarのArsenal de la Marineの主桟橋に右舷側から係留された。ウィーラント中佐は公式訪問のため1020時に艦を離れ、1115時に艦に戻った。そののち、海軍将校が次々と艦に戻り、フランス南大西洋海域司令官 Commander, French South Atlantic Maritime Zoneのジャン P. コルダ少将 Rear Adm. Jean P. Cordaらが訪問した。10月2日の午後、マーサー・クック駐日米国大使 U.S. Ambassador Mercer Cookがウィーラント中佐に面会し、コルダ海軍少将も面会した ◎ふたたび曳船に助けられながら、リバティは港を横断してメインの石油桟橋に向かい、そこで給油を行った(0957時~1406時)。1634時にふたたび航行し、技術調査艦はDakarを出航、1719時に出航して帰路についた。Bahia de San Ciprianoを経由して(10月6~7日)、リバティは10月22日の昼前にノーフォークに到着し、アポホラによってノーフォーク海軍造船所のバース26に入港。翌年まで続く配備後の整備を開始した ◎中型港内曳船セグワルーサ Segwarusa(YTM-365)とアンカチャックに助けられ、リバティは1966年1月3日、1005時にLagosに向けて出航した。リトル・クリークの米海軍水陸両用基地 U.S. Naval Amphibious Baseで小休止した技術調査艦は、1318時に作戦区域に向けて出航し、1411時に国際水域に入った。リバティは1月6日に砲撃訓練を行い、11日と13日には工兵負傷者訓練と一般宿舎訓練を行った。1月19日に目的地をAbidjanに変更したリバティは、水先案内人を乗せたのち、1月24日8時11分にVridi運河に入港し、曳船Marcoryの支援を受けて、Quai de Grand Moulinのバース1に停泊。モルガン大使 Ambassador Morganは1月26日(1145時~1320時)にリバティを再訪した。同日、船は給油を行った(1835時~2122時) ◎リバティは翌1966年1月27日の朝、曳船Tanoeの支援を受けてルアンダに向けて出航した。その2日後(1月29日)、技術調査艦は1830時にネプチューン王とその王室とともに“デイヴィ・ジョーンズ”を迎えた。彼らは翌朝に戻り、0820時から1000時の間に“すべての蟲たちが裁判にかけられ、有罪判決を受け、罰せられた”(赤道祭の行事) ◎1966年2月2日、中盤の当直終了直後、リバティは18マイルの距離でアンブリーズ灯を視認した。技術調査船は、命令に従い、0755時に投錨し、2月4日の前午の見張りまで停泊した。そののち、一時的に(1042時~1440時)航行したのち、再び錨泊し、1817時に右舷錨を降ろしたのち、14ノットで航行した、 ポルトガル海軍のフリゲイトVasco da Gama(F 478)が2500ヤードの距離で同艦の動きを追った。この軍艦は、リバティが2月5日と6日に沖合で活動する間、2,000ヤードから5マイルの範囲で駐留し続けた。リバティは、2月11日の前午の見張り中にふたたびアンブリーズ灯沖に停泊し、さらに作戦を進めたのち、2月18日にルアンダ港に入港し、0930時に投錨した。入港中(2月21日)に一度停泊地を変更した技術調査艦は、Dakarに向けて出航する2月24日までルアンダに留まった ◎リバティは、1966年3月3日午後の当直の間、総員配置で操船訓練を行い(1306時~1321時)、そののちすぐに総員配置から解除した。3月7日1737時、コンパートメント3-37-3Aでクラス“A”の火災が発生したとの通報により、船は総員配置に向かった。10分以内に火災は収まり、被害は報告されなかった。翌日(3月8日)、リバティはふたたび中間見張りに入り、No. 1空調塩水循環ポンプモーターからクラス“C”の火災が発生したとの報告を受け、0130にコンディション“ゼブラ Zebra”を設定した。0157にコンディション“ヨーク Yoke”を設定し、0201時に総員配置を解除した ◎そののち1966年3月8日、リバティは水先案内人のトーマス大佐 Capt. Thomasを乗せ、Dakarの港に入港し、右舷側、Arsenal de la Marineの主桟橋の南側に係留した。技術調査艦は、3月11日の昼の見張りまで港にとどまった。Dakarに入港したときと同じ水先案内人(トーマス)が、出港のため船列を整え始める少し前に乗船してきた。クック大使 Ambassador Cookが乗船し、非常に迅速な連絡(0824時~0828時)を行ったのち、全乗組員が出航のために総員配置を行った。0904時、リバティは防波堤を通過し、トーマス大佐を水先案内船に下船させ、ハンプトン・ローズに向かった ◎リバティは、1966年3月21日午前9時前にThimble Shoals水路に立ち、ノーフォーク海軍基地のピア12、バース2の給兵艦ダイアモンド・ヘッド Diamond Head(AE-19)と並んで係留された。その3日後、大型港内曳船チキート Chiquito(YTB-499)とチョホナガは技術調査艦の左舷に接舷し、米陸軍ターミナルに向かうために流れに乗り出した。そののちすぐにそこに到着したリバティは、もう一組のタグ、中型港内曳船イタラ Itara(YTM-391)とナドリ Nadli(YTM-534)を接岸させ、左舷側をノーフォークの米陸軍ターミナル南側岸壁に係留し、そののちすぐにダイアモンド・ヘッドを接岸させた ◎技術調査艦は、1966年4月8日にバースを変更し、ノーフォーク海軍基地のピア5、バース56で、需品補給艦アルタイル Altair(AKS-32)と並び、アルタイルの出航を可能にするために胸壁を撤去するまで、10日間そこに留まった。1966年4月26日1000時、米大西洋艦隊司令官 Commander Service Force, U.S. Atlantic Fleetのヘンリー A. レンケン少将 Rear Adm. Henry A. Renkenと第8サービス艦隊司令官 Commander Service Squadron (ComServRon) のバーンズ W. スポア大佐 Capt. Burns W. Sporeの立ち会いの下、ウィリアム L. マクゴナグル中佐 Cmdr. William L. McGonagleがピア5に停泊していたリバティの艦長に就任 ◎リバティは1966年4月29日に米陸軍桟橋に戻った。リバティは1ヶ月以上そこに留まり、その間、アメリカ大西洋艦隊司令長官 Commander in Chief, U.S. Atlantic Fleetのトーマス H. ムーラー大将 Adm. Thomas H. Moorerが5月25日にリバティを訪れた。リバティの歴史家はのちに、ムーラー提督が“リバティの調査活動に関する素晴らしいブリーフィングに感謝の意を表し”、“艦の状態と乗組員の姿に非常に好感を持った”と述べたと記している ◎最終的に、1966年5月の最終日、リバティは4月18日のComServRon 8の命令を受けて出航した。港を出航し、1234時に国際水域に入り、過去2回と同様にアフリカ沿岸に向けて出航した ◎リバティのアフリカへの航路はほぼ順調であった。1966年6月2日、大雨の中、西ドイツの商船Neidersachsenに遭遇、翌日には未確認船に遭遇、6、8、9日には総員配置で演習を行った。技術調査艦は13日、2隻の漁船Barbara Barata(LX.45.P)とAsilha de Fogo(LX.43.A)をほぼ互い違いのコースで追い越した ◎リバティは1966年6月14日、午前にDakarに入港し、燃料桟橋に停泊した。その日の午後、給油中にセネガル軍参謀総長の代表とフランス軍司令官の代表が公式訪問した。給油が終わると、技術調査艦はフランス海軍基地に停泊場所を移し、停泊から1時間も経たないうちに、クック米国大使から公式の電話を受けた ◎リバティのDakar寄港は1966年6月20日、コート・ジヴォワールに向け出航する前午前まで続いた。出航すると演習を行い、総員配置(1306時~1448時)で演習を行った。Abidjanへの航路の序盤は何事もなく進み、船は一日の大半を9ktで航行した。見張りが交代した直後、最初の見張りが始まると、リバティは2008時に全エンジンを停止し、フルバックして進路を変更し、9ktまで戻した。イタリアからシエラ・レオネのフリータウンに向かう西ドイツの商船Thorがすぐ近くを通過したため、リバティは中盤の当直開始直前に衝突を避けるため、さまざまな速度とコースで操船しなければならなかった ◎そののち1週間、リバティは単独行動を続け、視界が悪くなる日が数日続き、濃霧信号を頻繁に使用し、船首楼に見張りを配置せざるを得なかった。1966年6月23日、同船は総員配置で演習(1300時~1422時)を行い、その間、部下が戦闘配置に再配置する前に、同船は船を放棄[から退避]する状況を訓練(1403時~1416時)を実施した。6月25日、タンカーJapan Roseと遭遇し、イギリス船籍のタンカーBurutu Palm、視界不良のフランス船籍Jean Mermoz、Abidjanを母港とし、石油輸送会社の旗を掲げたタンカーChristian Birdと、中盤の警戒開始直前に遭遇した ◎リバティは1966年6月30日にAbidjanに到着し、右舷側をピア1の北側岸壁に係留した後、すぐにコートジ・ヴォワール海軍作戦部長から乗船要請を受けた(1150時~1220時)。マクゴナグル中佐は在アビジャン米国代理大使を表敬訪問し、米国代理大使は訪問を返上した(0945時~1030時)。技術調査船は水先案内人(J. Merentie)を乗船させ、そののちすぐに曳船Tanoeを接舷させ、Vridi運河の海側桟橋を通過する際には手順を逆にした ◎リバティはそののちLagosへ向け航行し、1966年7月8日の朝の見張り中に港に入港し、間もなく0835時にNo. 1とNo. 2のブイに係留した。その1時間余りのち、マクゴナグル中佐はエルバート G. マシューズ Elbert G. Mathews駐ナイジェリア米国大使に面会するため上陸した。その日の午後早く、リバティの指揮官はナイジェリア海軍司令官に面会したのち、艦に戻った。1640時、マシューズ大使はマクゴナグル中佐の呼びかけに応じ、1730時、外務官僚としてキャリアを積んだ同大使は出港した ◎翌朝(1966年7月9日)、リバティはLagosに別れを告げ、ルアンダに向けて進路をとった。この航路はほぼ2週間を要し、その間、技術調査艦は7月13日、視界不良の中、西ドイツの商船Gertrude C. Ertelに遭遇した。マクゴナグル中佐は、甲板仕官(officer of the deck: OOD)、当直仕官、見張り1名を除く当直仕官をこの日のために確保した。ネプチューン・セレモニー(赤道祭の行事)では、船員がパドルでベルトの下を殴られるという負傷を負った。数日後、リバティはコンゴ川河口沖に停泊し(7月20~21日)、ポルトガルの哨戒艇São Tomé(TM、P 585、元駆潜艇(鋼製船体)PC-1256)が800ヤードの距離で観測した ◎技術調査艦は、1966年7月22日の昼の見張り中にルアンダ港に入港し、曳船QuixeteとBeroによってモービル燃料桟橋に横付けされた。マクゴナグル中佐が公式の電話をするために上陸する間、リバティは給油を開始した。マクゴナグルは正午に帰港し、その3時間後に米国総領事が指揮官の訪問に応じるために乗船した。船は1610時に給油を完了した ◎翌日、1966年7月23日、リバティは高レヴェル警報灯の不具合により、誤って約150ガロンの海軍特殊燃料油(Navy Special Fuel Oil: NSFO)を“オーヴァーフロー排出ラインから港に汲み上げた”。幸いなことに、迅速な是正措置の結果、流出した油の80%はその地域から除去され、技術調査艦はこの災難を米国総領事と港湾当局に報告した。船は午前の見張り中にルアンダ港の錨地に移動し、訪問の残りの時間はそこに留まった。7月27日0908時、リベリアのMonroviaに向けて航行中、次の目的地に向けてルアンダを出航 ◎1966年8月6日から10日まで停泊していたコンゴ川河口を経由して、リバティは10日の昼の見張り中に商船Manfordと遭遇し、8月16日に目的地に到着、0830時にMonroviaのフリーポート、ピア1に左舷側から係留した。その日の午後、ベン H. ブラウン Jr. Ben H. Brown, Jr. 米国大使が同船を訪問した。この訪問中、技術調査艦は8月17日にリベリア国防長官(1220時~1345時)を、翌日にはリベリア沿岸警備隊(0945時~1110時)を受け入れた。最終的にリバティは8月19日、0923にMonroviaを出航し、ノーフォークに向かった ◎1966年8月30日、ハンプトン・ロードの錨地W-1(0745時~0750時)に横付けされたまま、火工品をライターに積み込んだのち、リバティは航行し、1115時にノーフォーク海軍造船所のバース2に係留された。9月1日、セグワルーサとアンカチャックによってバース11とバース12に移動し、10月3日にバース35に移動した。1966年10月最終日に再びバースを移動し、リバティは11月1日午後にカナリア諸島に向けて出航した ◎大西洋横断航路の3日後、リバティはラテンアメリカのニュー・オーリンズを出航した米国の貨物船Sue Lykes(元C5-S-75a型貨物船ホン・コン・メイル Hong Kong Mail(MAハル218))に遭遇した。1966年11月4日、前午の当直中に。スー・ライクスは“自分の位置について援助を要請”し、技術調査艦はそれを提供した。リバティは11月8日、テムズヘイブン行きの英国籍タンカーHepisomaと遭遇し、翌日、総員配置での総合訓練と廃船訓練を行い、最終的に11月14日の昼の見張りの間にカナリア諸島のLas Palmasに立ち、0900時にDique del Generalissimo Francoのバース4に係留した。これまでの訪問とは異なり、このLas Palmas訪問では醜い事件が起きた。11月15日の中番の早朝、陸上パトロール隊が泥酔した船員を船に戻した。乗組員用の寝室に連行されたその船員は喧嘩腰になり、当直の航海士にナイフで怪我を負わせた。マクゴナグル中佐は直ちに軍法会議を開き、17日にLas Palmasを出航してDakarに向かう午後、デビッド E. ルイス少佐 Lt. Cmdr. David E. Lewis(本船の調査部門責任者)を招集してこの問題を処理するよう命じた ◎セネガル方面への航行が始まって2日目、リバティは1966年11月19日の最初のドッグ・ウォッチ中に、“OB”としか識別できないソ連船と遭遇した。この船は、技術調査艦の左舷近くを約450ヤードの距離で通過した ◎リバティはDakarに到着し、1966年11月23日の朝の見張り中に入港し、0740時に右舷側の給油桟橋に係留した。給油完了後、フランス海軍の桟橋に移動した。その日の午後、急性虫垂炎と診断されたデニス M. アイクルベリー三等暗号技術者 CT3 Dennis M. Eikleberryを、ドッグウォッチの間にダカールのフランス病院に移送した。アイクルベリーは24時間余りあとの24日に帰港し、術後の治療のため病室に収容された ◎1966年11月25日、Abidjanに向けて航行中のリバティは、0903にコート・ジヴォワールに進路をとった。12月2日、Monrovia港の入口沖に一時停泊したのち、Abidjanに向けて航行を続けた。12月6日と7日に宿舎で演習を行ったが、いずれも水中核爆発を想定した訓練シナリオであった。13日の12時から18時までの間、カメルーン湾に一時停泊し、そののち航行した。12月17日の朝、技術調査艦はソヴィエトの加工船と10隻のトロール船の群れを1,000ヤード前方で通過し、その日の午後遅く、Monroviaに向かうリベリア船籍のタンカーMauriceとすれ違った。そののち、リバティは今クルーズ2度目の緊急虫垂炎に見舞われ、12月21日、トーマス R. マッサン二等電気技師 EM2 Thomas R. Massantが中直中に虫垂切除術を受け、成功した ◎リバティは1966年のクリスマスの3日前にAbidjanに到着し、さまざまなコースと速度を操り、12月23日の朝の見張り終了時にVridi運河に入港した。水先案内人のレヌーフに導かれ、曳船Tanoeに助けられた技術調査艦は、0835時にピアNorth QuayのVIPバース1に接岸した。マクゴナグル中佐はモーガン大使を訪ねるため1時間以内に上陸し、中佐が帰港するとすぐに大使が応対した。翌日給油した船は、12月27日の朝、ルアンダに向けて出港し、0725時にVridi運河の入り口から1,000ヤード沖に投錨した。すぐに水先案内人のボートが出航し、出航に間に合わなかった船員1人を乗せた。その2日後(12月29日)、ガーナの巡視船がこの船に医療品を緊急輸送した。リバティは26フィートのモーター・ホエールボートを下ろし、この船と合流し、受け取った。その日が終わる前に、技術調査艦はラゴスへ向かう商船King Jajaとガーナの巡視船とすれ違った。12月30日、リバティは2歳の誕生日を迎え、機関士官のジョージ H. ゴールデン大尉 Lt. George H. Goldenがケーキカットをして祝った ◎1967年1月3日、リバティは前午の監視の11分間に魚加工船を目撃し、大きな船は11隻のトロール船をともなっていた。技術調査艦はその大きい船をIozasvitasと識別して、約1,000ヤードの距離でロシア船を通過した。その日の午後、技術調査艦は、火災、衝突、操船負傷の練習を含む総員配置訓練をした ◎リバティは同日、最初の見張りの間、16マイル離れたPunta de Europa灯を2056に視認した。リバティは、見知らぬ船が船首を横切ると2101時に全エンジンを停止し、そののち接近したため、米艦は1,500ヤードまで接近したときに危険信号を鳴らした。見知らぬ船は1,000ヤードまで接近し、まず右に、次に左に進路を変えた。2108時、小型漁船と確認されたその船は、わずか500ヤードの距離で左舷前方を通過した。この漁船が右に進路を変えたのち、リバティは衝突地点に向かい、“ゼブラ”をセットし、マクゴナグル中佐が通信をとった。米艦はふたたび危険信号を鳴らし、2110時に小型船は水中で停止した。そののち、リバティは横付けし、この船を呼び寄せたが、成功しなかった。そののち、両船は夜間に移動し、技術調査艦は衝突時の総員配置を確保し、コンディション“ヨーク”を設定し、OODのジェームズ C. ピアス大尉 Lt. James C. Pierceが接続をとった。そののちまもなく、Cape Nachtigal灯が見えてきた ◎リバティは几帳面なペースで航海を続け、1967年1月7日に視界が悪くなったため、濃霧信号を鳴らし、船の目に見張りを配置する必要があった。その2日後、船上での操船訓練が行われ、11日には総員配置と操船訓練が行われた。12日午後にはコンゴ川河口沖に停泊し、ほぼ1週間その場に留まり、17日の終盤には砲撃訓練と乗組員撃退訓練を行った ◎18日午後にふたたび航行したリバティは、23日朝にルアンダに到着し、0759時に水先案内人のヴェイガ・フィルミニア Veiga Firminiaを乗船させた。技術調査艦が桟橋を離れて操船すると、曳船Quixeteがルアンダのメイン桟橋の北側にあるバースへの進入を助け、0818時に固定した。そののち、1010時に給油を開始し、マクゴナグル中佐が米国総領事G. H. サム G. H. Summに連絡するため出港し、1230時に帰港、1420時に給油を完了した。サム総領事は1552時にマクゴナグル中佐に連絡した ◎リバティは1967年1月24日にバースを移し、水先案内人のフィルミニアと曳船Quixeteが港に出た。そののち、1月27日午後に港を出航し、Monroviaに向かった。2日後の1967年1月29日、技術調査艦は商船に接近し、Ojadjereと確認した。1208時、リバティは船尾トロールの加工船Radischevであることを確認し、接触事故を避けるため、衝突地点に向かった。技術調査艦は“ゼブラ”をセットし、ブリッジにはマクゴナグル中佐とナヴィゲーターのスティーブン S. トス大尉 Lt. Stephen S. Toth(USNA 1963)、コネクターにはマルコム M. ワトソン少尉 Ens. Malcolm M. Watson, USNRがいた。1249時、リバティはRadischevを500ヤードの距離で追い越した ◎Radischevとの比較的接近した遭遇の翌日、リバティは1967年1月31日、1302時に総員配置に入り、侵入者の撃退と砲撃訓練を行い、50口径を200発使用したが、後者の訓練で死傷者は出なかった。2月2日の午後、アンゴラのRio Zomba沖に停泊し、2月7日の1315時にMonroviaに向けて出航するまで、その場に留まった。この技術調査艦は、前午の当直中に視界不良に遭遇し、その日の午後にbattle problemを実施した。2月10日(1200時~1800時)、6時間のcompetitive economy trialを行い、その日の午後、battle problemのために総員配置を行った。翌日、1時間の防煙試験を終えた ◎1967年2月15日、前午の見張り中にMonroviaに到着し、0802時に防波堤を通過、曳船MesaradoとFreeportに停泊を助けられ、0830時に一般貨物埠頭に停泊した 翌朝[1967年2月16日]、中盤の見張り終了5分後、研究用無線機No. 1でクラス“C”の火災が報告された。OODのワトソン少尉 Ens. Watsonは、当直のダメージ・コントロール・パーティーを召集し、2分以内に火災を鎮圧した。ワトソンはダメージ・コントロール・パーティーの安全を確保したのち、“適切な研究要員”にこの件を通知した ◎USCGのウィリアム R. ハドソン大尉 Lt. William R. Hudsonとジョセフ・ファーパス Jr. 兵曹 Chief Joseph Furpass, Jr. を競争演習のオブザーヴァーとして乗船させたのち、リバティは1967年2月17日の昼の監視中にMonroviaを離れた。リバティは1344時、雑多なエンジニアリング・シナリオ、ダメージ・コントロール、火災訓練、模擬水中核爆発への対応などの競技訓練のため、総員配置が行われた。また、廃船訓練も行われた。ハドソン大尉とファーパス兵曹は、リベリア沿岸警備隊のボートで出発した ◎大型港内曳船オクモルギー Okmulgee(YTB-765)は、ハンプトン・ローズのヴェテラン水先案内人、J. Treakleを船に引き渡し、彼はノーフォーク海軍基地のピア4、バース42で技術調査艦ジョージタウン(AGTR-2)に横付けさせた。3月7日、曳船がリバティをジョージタウンの横から移動させ、ジョージタウンが出航できるようにしたのち、リバティを桟橋に戻し、17日にオクモルギーとダローネガ Dahlonega(YTB-770)がリバティをノーフォーク海軍基地のピア3、バース35に横付けし、1421時に係留した 3日後の1967年3月20日、リバティはヴァージニア岬作戦区域 Virginia Capes Operating Areaで活動するためにハンプトン・ローズを通過し、昼前に国際水域に入った。22日にピア4、バース41に横付けされた攻撃貨物輸送艦ユヴァルディ Uvalde(AKA-88)と係留して帰港するまで、ヴァージニア岬沖で活動した。24日、ユヴァルディの横から、工作艦ヴァルカンの船外に横付けされたドック型揚陸艦ドナー Donner (LSD-20)の横、ピア5、バース52に係留するために移動し、リバティは工作艦から全てのサーヴィスを受け始めた。中型港内曳船ダローネガとマハスカ Mahaska(YTM-730)は4月11日、技術調査艦をヴァルカンに横付けした ◎リバティは、1967年4月21日の前午の見張り中にバース42にシフトするために出航し、大型港内曳船ワパコネタ Wapakoneta(YTB-766)、オクモルギー、ダローネガの支援を受け、0906時にシフトを完了した。そこで5月1日、技術調査艦は、前午の当直の間、0930に給油を開始した。昼過ぎには、国防総省から臨時追加任務(temporary additional duty: TAD)に就いていたジョージ N. ドハティ George N. Daughertyが乗船し、同日遅くには、米海軍海洋局からTADに就いていたポール H. テイラー Paul H. Taylor、マレー J. アロンソン Murray J. Aronson、Joesuke Todaも乗船し、赤道直下における正確な測位の問題に対する米海軍の航法衛星システムのユニークな応用を研究した ◎大型港内曳船オクモルギーとオシュコシュ Oshkosh(YTB-757)の支援を受けて、リバティは1967年5月2日、最初の“ドッグ・ウォッチ”の早朝に西アフリカ沿岸に向けて出航し、ハンプトン・ローズとThimble Shoals channelsから出航した。5月4日、2日間に渡って(1300時~1335時)総員配置訓練を行い、翌日の午後には総員配置訓練と操舵負傷者・廃船訓練を行い、9日と11日には操舵負傷者訓練を行った。12日には2隻のソヴィエト漁船と遭遇した ◎リバティは1967年5月15日0730時にギニアのタマサ島沖に停泊し、約11時間滞在したのち、1823時に同海域を離れ、再びコート・ジヴォワールに進路をとった。16日、マクゴナグル中佐はふたたび乗組員に対し、総員配置、乗組員撃退、操船放棄の訓練を行った。翌日[5月17日]の昼の見張りの間に大雨が降り、視界が1マイル以下になったため、リバティは霧信号を鳴らし、船の“目”に見張りを配置する必要があった。操船を続けながら、19日には操舵訓練と機関部の負傷者訓練を行い、朝の見張り中にVridi Canalを何事もなく通過し、そののちすぐに、TanoaとSt. Briacの曳船に助けられ、目的地のAbidjanに接岸した リバティがAbidjanに到着してから8時間も経たない1967年5月23日、ガーヴィン L. D. マクマキン三等暗号技術者 CT3 Garvin L. D. McMakinは、扇風機を動かそうとして右手に裂傷を負い、医務室に報告した。当直の衛生兵が手当をし、マクマキンは任務に戻った。30分も経たない0030時、CTCジェームズ A. マシューズ CTC James A. Matthewsがリチャード C. カールソン甲板長 BMC Richard C. Carlsonを船に連れ戻した。カールソンは軽い心臓発作と診断され、医療処置が必要であった。0122時、ジェームズ P. キャヴァノー暗号技術兵 CTSN James P. Cavanaughがタクシーにはねられ、複数の擦り傷を負って自由行動から戻った。さらにその日の後半、1810時、ユーティリティ・ボートの給油ステーションであるフレーム100の01階でクラス“B”の火災が発生した。反応は迅速で、対応者は1812時に火災を消し止め、直ちに再点火監視を開始した。その日が終わる前に、コート・ジヴォアールの警察はテリー W. リーマン暗号技術兵 CTSN Terry W. Lehmanを“彼自身の保護のため”に船に戻した。甲板士官は饒舌にこう述べた“罪状はない” ◎その日、第6艦隊 6th Fleetは、アラブ連合共和国(United Arab Republic: UAR)が国連緊急部隊(United Nations Emergency Force: UNEF)にシナイからの撤退を命じてから4日後に、地中海東部への進駐命令を受けた ◎ 1967年5月24日午前7時20分、リバティの出航準備の中、任務を終えた海軍海洋局のポール・テイラー Paul Taylorが下船した。水先案内人のサルヴァティ氏 Mr. Salvatiを乗船させ、曳船Marcoryを横付けし、技術調査艦は桟橋を離れ、まずAbidjan港を出て、次にVridi Canalを下った。0834時にサルヴァティ氏を下船させ、リバティはロタに向けて進路をとった。ロタへの航海中、リバティは5月26日(1300時~1351時)と31日(1259時~1347時)に総員配置訓練を行った ◎1967年5月26日、エジプトがシナイ半島を再軍備し、イスラエルのエイラート港沖のアカバ Aqaba湾の封鎖を宣言したため、米国の扶養家族は、それぞれカイロ、アラブ連合共和国(UAR)、イスラエルから空輸され、アテネとローマで離陸した。ソヴィエトの軍艦が初めて黒海からダーダネルス海峡を通過し、米海軍の動きをより積極的に監視し始めたからである ◎リバティは1967年6月1日、前午の見張り中にスペインのロタに入港し、中型港内曳船シャハスカ Shahaska(YTM-533)とワハカ Wahaka(YTM-526)に助けられ、1015時に係留され、ロタの米海軍基地のピア1に接岸した。ジョン カドマン消防士 FN John E. Cadmanは治療のためロタの米海軍病院へ、ジェームズ R. パターソン二等機械工 MM2 James R. Pattersonはヴァージニア州ポーツマスの米海軍病院へ移送された。また、海軍海洋局のJoesuke Todaとマレー J. アロンソン、国防長官のジョージ・ドハティ George Doughertyも乗船した ◎ロバート L. ウィルソン Robert L. Wilson、ドナルド L. ブラロック Donald L. Blalock、アレン M. ブルー Allen M. Blueの民間言語学者と、3名の米海兵隊言語学者が乗船した:ブライス F. ロックウッド参謀軍曹 SSgt. Bryce F. Lockwood、ジャック L. レイパー軍曹 Sgt. Jack L. Raper、エドワード E. レーマイヤー上等兵 Cpl. Edward E. Rehmeyerである。全部で3名がアラビア語の専門家で、3人がロシア語の専門家だった。大型港内曳船トンカワ Tonkawa(YTB-786)と中型港内曳船ワハカに助けられ、リバティは1358時にパイロットをトンカワに降ろした:士官16名、下士官271名、海兵隊員3名、民間人3名 ◎地中海東部への航行中、リバティの航海士と作戦部のほかのメンバーは、見張りに“相対方位、おおよその射程距離、目標角度を含む全ての水上接触の報告”、“全ての水上および空中接触を甲板士官に適切に報告するためのそのほかの要素”の再訓練を行った ◎1967年6月5日、イスラエルと周辺アラブ諸国との間で戦争が勃発し、第6艦隊司令官ウィリアム I. マーティン中将 Vice Adm. William I. Martinは、艦船と航空機を“レバノン、シリア、イスラエル、アラブ連合共和国(エジプト)の海岸から少なくとも100海里、キプロスから少なくとも25海里”離すよう指示された。悲しいことに、第6艦隊司令部も米海軍ヨーロッパ総司令部(Commander in Chief, U.S. Navy Europe: CinCUSNavEur)も、リバティの任務については特に触れていない ◎同日(1967年6月5日)、マクゴナグルはOOD/JOODとCICに、“追って通達があるまで、24時間体制で修正された即応態勢3番 Condition of Readiness Three Watchを確立し維持するため、2名の要員を追加の見張り/砲乗組員として前檣楼に配置する”と通達した。全ての50口径機関銃は、マウント・トレイに弾薬を入れた状態で配備すること。(弾丸は薬室の横にあるが、薬室にはないこと)。見張りと前線砲架要員は、正規の一般宿舎チームが編成されている間、交戦側の砲架に搭乗し、航空/水上奇襲の際に艦を防御すること。砲手たちは、25kt以上で接近してくる未確認の水上コンタクトを敵対的なものとみなし、ただちにコンディション・ワン Condition Oneを設定することになっていた。さらに、マクゴナグルは、“明らかな攻撃態勢で艦に直接接近してくる未確認の空からの攻撃は、敵対的な行動とみなし、即座にレディネス1 を設定する”と指定した。彼はこう締めくくった“不意打ちを食らって戦闘不能になるよりは、疑わしい場合には総員配置を設定した方がよい。状況に応じて直ちに行動を起こし、どのような措置が取られたかを私に報告せよ” ◎翌日(1967年6月6日)、CinCUSNavEur は、“中東の敵対行為中、地域の指揮統制と保護が必要になる可能性があるため”、リバティが6月7日の中盤の当直開始時に指揮下に入ると第6艦隊に通知し、現地の状況によって技術調査艦のスケジュールが修正される可能性があると指摘した。リバティは同日2036時にこの指示を承認した。その3時間後、第6艦隊はリバティに対し、“攻撃または攻撃の脅威に対して高い警戒態勢を維持”するよう促し、特にUARによる行動の“予測不可能性”に警告を発した。同艦はまた、“外部からの脅威によって必要とされる予定からの逸脱”について第6艦隊に報告し、“艦船、航空機、(未確認の)潜水艦...”との接触を報告するよう指示された。また、“諜報上の関心事」や“嫌がらせ”についても報告することになっていた。しかし、フラッシュ・プリオージェンス Flash precedence(極度の緊急性を要する作戦メッセージに与えられる)や高速空母機動部隊の周波数を使うようにという指示は、リバティには届かなかった ◎1967年6月7日8時、リバティはUAR沖で作戦区域2と3に接近し、0908時に位置を報告した。同艦の通信は即時優先であったが、状況・位置報告が第6艦隊に届くまで15時間半を要した。6月7日の午後の当直の間、リバティは、総員配置訓練(1301時~1420時)を行い、その終わりに、2隻の商船のうち、1隻目の船籍不明のBencleughと、2隻目のギリシャ船籍のIoanis Aspiotusを目撃した。その日の残りは何事もなく、各見張りは“以前と同じように航行中”という表記で経過した。 マクゴナグル中佐とリバティの乗組員たちは知らなかったが、技術調査艦が紛争地帯に接近していることに関する審議が進められ、3回にわたって、この地域から100マイル沖合で活動するよう命じる決定が下された。しかし、人為的なミスによる不運な通信の遅れにより、リバティは、危険な海域から撤退させようとする努力に気づかなかった ◎リバティは、そのキャリアの中でたびたびそうしてきたように、国際水域で指定された任務のためにゆっくりと航行した。イスラエル軍の偵察機、フランス製の双発エンジン、ノール2501ノラトラが、イスラエル海軍の監視官を乗せたまま船を偵察し、現代の一般に入手可能な参考資料のプロフィールから、彼女を正確に識別した。1967年6月8日8時30分、地中海の穏やかな海を航行中のリバティは、今後24時間の予測位置をComSixthFleetに通知した。メインマストから通常の航行色を掲げた。リバティの艦橋で見張りをする者は、UARの海岸にあるEl’Arishのミナレット(モスクに付属する高い塔)を見ることができた ◎前午の見張り開始約1時間後、リバティは2機のデルタ翼ジェット機が5,000フィート、2マイル離れた軌道を周回していることに気づき、この出来事を第6艦隊に連絡した。そののち、1056年ごろ、別のノラトラが3マイルから5マイルの距離で艦の後方を横切ったが、ジェット機と同じように遠すぎて何のマークも確認できなかった。 1310時、リバティは総員配置訓練を行い、1345時に居住区を出て、“修正コンディション3”の見張りを再開した。乗組員が居住区に戻る直前、艦橋の監視員がエル・アリッシュの西15~20マイルで“大きな黒煙が立ち上っている”のに気づいた。その30分後、さらに小さな黒煙が上がった ◎マクゴナグル中佐は、訓練終了後に乗組員を解散させ、各自の持ち場に戻らせる前に、“PAシステムで乗組員に短い話をし、総員全般への迅速な対応の重要性と、訓練や実際の攻撃時のコンディション・ゼブラの設定を思い出させた”。自分たちの立場の重大さを印象づけるため、マクゴナグルは“船が潜在的に危険な状況にあることを示す十分な証拠”として、浜辺の黒煙の柱に注意を促した。ゼブラを4分45秒で沈没させたが、これはやりすぎだと彼は思った。しかし、彼はこの訓練におおむね満足し、ワードルームでの士官との協議を見送った ◎1400時ごろ、04レヴェルの監視員から報告があり、付近でジェット機を目撃したと報告があった。ブリッジの右舷翼(03レヴェル)にいたマクゴナグルは、その飛行機が以前に見たものと同じでないにせよ、よく似ているのを観察した。マクゴナグルはロイド C. ペインター中尉 Lt.(j.g.) Lloyd C. Painterをブリッジの右舷翼に呼び出した。“前方の砲架に連絡した方がいい”と、マクゴナグルは飛行機を指して言った。“攻撃してくると思う”。ペインターはブリッジに駆け込み、マウント51と52に3回連絡を試みた。電話を手にしたペインターは、ダッソー・ミラージュIIICJが30mm機関砲で攻撃するのを見た。砲撃は短時間続き、砲弾は艦橋の前方舷窓のガラスを砕き、破片は操舵席のフロイド H. ポラード三等操舵手 QM3 Floyd H. Pollardを切断した。ミラージュは弾薬を消費しながら3回通過し、シュペル・ミステールのペアが第2波の攻撃を行った。最初のパスでは、ミラージュの砲撃がハリヤード(帆や旗を上げ下げするロープ)からカラーを切り落とした (↑ミラージュIII) ◎アリグザンダー N. トンプソン Jr. 三等上等兵曹(砲手) GMG3 Alexander N. Thompson, Jr. は、通常の戦闘配置が04レヴェルのブリッジにあったため、リバティが戦闘配置についたときにはそこに到達できないと考えたのだろう。彼はマウント51に急行し、イスラエル航空機に発砲した。リペア2の彼の下にいた隊員たちは、トンプソンが少なくとも半箱分の弾薬を撃ち落としたように聞こえたとあとで報告している。奇跡的に、彼は1回の空爆攻撃を無傷で逃れたが、そののち、別の峠を越えて旋回する飛行機に向かって発砲した。悲しいことに、彼は次の攻撃を生き延びることはできなかった。リバティの情報将校であるスティーヴ・トス大尉 Lt. Steve Tothは、攻撃機の正体を確かめるため、遮るもののない視界を得るために艦橋の04レヴェルに急いだ。“物静かだが粘り強い態度で知られ”、“成功への固い願望を持ち”ていたトスは、最初の空爆の砲弾が03レベルの右舷艦橋翼で爆発し、その爆発で01レヴェルに投げ出されて死亡した ミラージュの1機が01レヴェルの左舷で機銃掃射し爆発を起こしたのだ。マクゴナグルは全体警報を鳴らすよう命令し、被害を確認するために艦橋の左舷翼に行き、すぐにそこに保管されていたガソリンの55ガロン入りドラム缶2本が“激しく燃えている”ことに気づいた。火災のため、艦のそちら側のはしごを使ってクイックリリース・ギアに近づくことが不可能になったので、マクゴナグルはフィリップ・マックアームストロング Jr. 大尉(USNA 1953期) Lt. Cmdr. Philip McC. Armstrong, Jr. (USNA 1953)に右舷の01レヴェルまで降りて左舷に渡り、ガソリン容器を取り除くよう命じた。USNAの同級生たちは、“マッカッチMcCutch”がアカデミーの“学業と経営上の障害を笑いながら”“不可解なほど簡単に乗り越えてきた”と感じていた。良い学生、良いミッドシップマン、そして良い男として知られていた幹部は、1355時にOODを解任されたジェームス G. オコナー大尉 Lt. James G. O'Connorとともに03レヴェルから下へ続く梯子の頭に到達した。爆発でアームストロングとオコナーらは足から吹き飛ばされ、人気者の執行官に致命傷を負わせた ◎その瞬間、マクゴナグルが“全速前進”と叫んだ。煙突からさらに煙が出始めた。彼は、リバティの研究補佐官であるモーリス H. ベネット Jr. 大尉 Lt. Maurice H. Bennett, Jr. に、ハイコム(最高司令部 High Command: HiCom)回線を利用し、艦が未確認機による攻撃を受けており、直ちに支援が必要であることを報告するよう命じた。フランシス・ブラウン三等操舵手 QM3 Francis Brownは、負傷したポラード三等操舵手から操縦を引き継いだ 1967/6/8 El Arish北方海域にてイスラエル海軍魚雷艇と空軍機(ミラージュ、シュペル・ミステール)の誤った攻撃により損傷(以下の要約は、ジェームズ M. エネス Jr. James M. Ennes, Jr.著「リバティ号襲撃 Assault on the Liberty」(ランダム・ハウス Random House、ニュー・ヨーク、1979年、ISBN 0-394-50512-3)のジャケットにある: 1967年6月、地中海のシナイ半島沖の国際水域で、イスラエルのジェット機とモーター魚雷艇がアメリカ海軍艦艇USSリバティを残忍に襲撃した。この攻撃は、イスラエルの写真偵察機による6時間以上にわたる強烈な低空偵察に先行して行われたもので、偵察機は情報艦を13回も旋回させ、時には真上200フィートまで低空飛行した。そののちの入念に計画された攻撃は、高性能ジェット機によって開始され、より低速で機動性の高いジェット機がナパームを搭載して追撃した。 この攻撃は2時間以上続き、34名のアメリカ人が死亡、171名が負傷した。リバティ号が損傷を受けてもなお頑なに浮いていると、イスラエル軍は救命いかだを機銃掃射し、部隊を乗せたヘリコプターを送り込んでとどめを刺した。この時点で、ようやく第6艦隊 6th Fleetの救助機が到着したため、イスラエル政府は謝罪し、攻撃軍は突然撤退した。加害者の正体が明らかになったのは、そのときになってからである)、のちにマルタにて暫定的な修理 ◎退役後、ノーフォークにて大西洋予備艦隊に編入 ◎1970/11/23 海事局に移管 ◎1970/12/17 解体のため、ボストン・メタルズ社に売却 ◎1970 ボルティモアにて解体 リバティは1967年6月8日の行動に対して大統領部隊賞 Presidential Unit Citationと戦闘行動章 Combat Action Ribbon(1967年6月8~9日)を授与された。ウィリアム L. マクゴナグル中佐 Cmdr. William L. McGonagleは、1968年6月11日、ワシントンD.C. のワシントン海軍工廠で行われた式典で、“卓越したプロ意識、勇気ある闘志、勇敢なリーダーシップ superb professionalism, courageous fighting spirit, and valiant leadership.”が評価され、名誉勲章 Medal of Honorを授与された |
◎PUC 8 Jun 1968. |
Update 24/08/17