砲艦
アイコン | 意味 |
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません | |
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争等で沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです | |
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です | |
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です | |
インターネットやTVゲームに登場する事柄です | |
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です |
公試排水量:1,506t(1921年時) 満載排水量:1,955t(1945年時) 全長:73.15m 幅(molded beam):11.88m 吃水:4.01m(公試時、1945年時には5.41m) 主缶:バブコック&ウィルコックス缶(クロスドラムタイプ、200 psi、過熱温度750゚F)2基 主機/軸数:ゼネラル・エレクトリック式2,040kVa電気モーター、ターボジェネレーター駆動1基/1軸 出力:2,600軸馬力 速力(公試時):16.2kt(1921年時) 航続力(1945年時):15.5ktで3,500浬 兵装(1921年時):51口径127mm単装砲2基、6ポンド砲2基、1ポンド砲1基(1942年には51口径127mm単装砲2基、50口径76mm単装砲1基、12.7mm機銃1基、両舷爆雷投射機(Y砲)4基、爆雷投下軌条2条、1945年には50口径76mm単装砲2基、80口径20mm単装機関砲4基、マウストラップ2基、両舷爆雷投射機(Y砲)4基、爆雷投下軌条2条) 乗員(1945年時):士官14名、准士官2名、下士官兵80名(WPG-46~WPG-48は1945年には士官10名、准士官2名、下士官兵110名)
- ※240フィート型
- ※レーダー:SA、SF(WPG-46~WPG-48はSF-1、SC-3) ソナー:QCJ-3(WPG-47、WPG-48はQCL-2)
船名 | NAME | 造船所 記号 |
船種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
ハイダ | Haida | CG-37 | WPG-45 | Union Construction Company | 1921/10/26 | 1947/2/13 | ◎1920/9/27 起工 ◎1921/4/19 進水 ◎1948/1/20 売却 |
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◎Bering Sea, Alaska. | ||||||||
モドック | Modoc | CG-39 | WPG-46 | Union Construction Company | 1922/1/14 | 1947/2/1 | ◎1921/4/20 起工 ◎1921/10/1 進水 ノース・カロライナ州ウィルミントンを母港とするモドックは、1923年にインターナショナル・アイス・パトロール International Ice Patrolの大西洋氷上パトロール任務を開始した。そののち18年間、別のカッターと交互にグランド・バンクス沖で15日間のパトロールを行い、ノヴァスコシア州ハリファックスとボストンを拠点とした ◎モドックは、魚雷を受けた輸送船団から生存者を救助する砲艦ノースランド Northlandとジェネラル・グリーン General Greeneとともに、1941年5月23日から27日にかけてのドイツ海軍戦艦Bismarckの最後の戦いの大部分も目撃している。5月24日真夜中近く、モドックは8機の飛行機と3隻の軍艦が関与した攻撃の真っ只中に身を置いていた(英国諜報部長ウィリアム・スティーブンソン British intelligence chief William Stephensonの伝記「イントレピッドと呼ばれた男」によると、モドックはビスケー湾で魚雷を受けた輸送船団から生存者を救助していたとき、それまで追撃してきた英国軍に奪われていたBismarckと目視で接触した。彼女の位置に基づいて、RAFの第209飛行隊 209 SquadronのPBY哨戒爆撃機がBismarckの位置を特定し、イギリス海軍航空母艦Ark Royal(91)が航空攻撃を開始するのに間に合わせた)。Bismarckからの対空砲火は、カッターの左舷艦首に危険なほど接近した。重巡洋艦Norfolk(78)は、戦艦Prince of Wales(53)がカッターを米国沿岸警備隊と確認するまで、砲火を浴びせようとしていた。Bismarckから6マイルしか離れていなかったが、カッターに損傷はなかった。戦闘艦19隻と駆逐艦や小型艦艇が広範囲に移動したため、危険は広範囲に分散した。航空機は活動の調整において継続的な役割を果たし、その結果、真珠湾攻撃以前にカッターが果たさなければならなかった役割である、罪のない傍観者への事故の危険性を増大させていた (↑ドイツ海軍戦艦ビスマルク(ライン演習作戦終盤時(1941年時)) ◎1941年11月1日の大統領令第8029号によってアメリカ海軍に移管されたモドックは、グリーンランド・パトロール Greenland Patrol隊に参加した。この任務は、輸送船団の航路を確保し、グリーンランド輸送船団のために氷を割って手がかりを見つけ、輸送船団を護衛し、魚雷を受けた船から生存者を救助し、航行補助装置を建造・維持し、気象状況を報告することであった。巡視船はまた、グリーンランドにおける敵の測候所や無線基地の発見と破壊、水路調査の継続、通信の維持、物資の輸送、捜索救助活動も期待されていた。これらすべての任務を、沿岸警備隊は戦争中、模範的な不屈の精神で忠実に遂行した。船種記号WPG-46に指定されたのもこの時期である ◎グリーンランド氷上パトロールでは、沿岸警備隊の古く、小さく、低速の船の多くがのろのろと歩いていた。彼らは霧、嵐、氷、ドイツの襲撃船などの危険の中で多くの不快に耐えたが、彼らの仕事は大西洋での勝利に不可欠であった ◎両大戦とも、氷山よりも潜水艦の方が脅威であったため、国際氷上パトロールは中断され、カッターはより重要な護衛任務に就くことができた。1943年1月21日、英国船 Svend Foyneが氷山に衝突した。沈没する前に、モドックは128名の生存者を救助した ◎モドックは1945年12月28日の行政命令第9666号に従って財務省に返還され、1947年に退役するまで巡視カッターとして使用された ◎1947/6/30 売却 ◎1948 ホンジュラスのManuel Velliantisに売却され商船に改装、Amalia Vと改名 ◎1960 エクアドルのTropical Navigation Co. に登録しMachalaと改名 ◎1964 Guayaquilにて解体 |
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◎Wilmington, N.C. and Greenland. | ||||||||
モハーヴェ | Mojave | CG-38 | WPG-47 | Union Construction Company | 1921/12/12 | 1947/7/3 | ◎1921/4/20 起工 ◎1921/9/7 進水 1928/10/8 マサチューセッツ州Gloucesterにて商船T. K. Bentleyと衝突 ◎1948/2/14 売却 |
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◎Fort Lauderdale, Fla. | ||||||||
タンパ | Tampa | CG-36 | WPG-48 | Union Construction Company | 1921/9/15 | 1947/2/1 | ◎1920/9/27 起工 ◎1921/4/19 進水 ◎1947/9/22 売却され商船Rigil Kentとなる ◎1951 イタリアのSavonaにて解体 |
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◎Boston 1922, New York 1932, Mobile 1938. Helped rescue survivors from m/v Morro Castle off New Jersey, 8 Sep 1934. North Atlantic convoys. |
- 公試排水量:1,785t(1927年時) 満載排水量:2,150t(1945年時) 全長:66.01m 幅:11.81m 吃水:4.16m(公試時、1945年時には5.10m) 主機/軸数:6-cyl. ディーゼル2基/1軸 出力:1,000馬力 速力(公試時):11.7kt(1927年時) 航続力(1927年時):11.0ktで10,280浬(1945年時には11.5ktで9,300浬) 兵装:6ポンド砲2基、1ポンド砲1基(1942年には50口径76mm単装砲2基、1945年には50口径76mm単装砲2基、80口径20mm単装機関砲4基、両舷爆雷投射機(Y砲)4基、爆雷投下軌条2条) 塔載機:水上機1機 乗員(1927年時):士官17名、下士官兵90名(1945年には士官16名、准士官2名、下士官兵102名)
- ※216フィート型
- ※レーダー:SC-1、SF ソナー:QCJ-3
船名 | NAME | 船種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
ノースランド (1、2) |
Northland | WPG-49 | ニューポート・ニューズ・シップビルディング&ドライ・ドック社 | 1927/5/7 | 1947/4/18 | ◎1926/8/16 起工 ◎1927/2/5 進水 ◎第二次大戦前は、サン・フランシスコ、オークランド、シアトルを交互に寄港していた。主にベーリング海のパトロールに従事し、“真夜中の太陽の下であらゆること”をこなしていた。ベーリング海パトロールのカッターは単なるシンボルではなかった。彼らは多くの政府機能の遂行を支援した。司法省では、法律を施行し、犯罪者を逮捕し、水上法廷を運営していた。海軍省のために軍事情報を収集し、郵便局のために郵便物を運んだ。内務省のためには、教師を持ち場に運ぶ、衛生検査を行う、木材や狩猟の監視を行う。商務省では海岸線や地域の産業を調査し、医療サーヴィスのない孤立した村には公衆衛生局員を運んだ ◎1933ごろ 入渠 ◎1936 補助帆を取り外し、背の高いマストを切り詰めた ◎1938 最後の北極クルーズで西海岸を出発し、のちに退役 ◎1939/6 再役、第2次バード南極観測隊 Byrd Antarctic Expeditionの準備のためにボストンに移動するも9月にヨーロッパで戦争が勃発したため、この探検隊からは離脱し、アラメダに戻った ◎1940/5 グリーンランドでの特別任務のためにニュー・ヨーク海軍工廠に入港 ◎1940/8/20 最初のグリーンランド調査にニュー・ヨーク海軍工廠を出航(哨戒部隊の最適な位置を決定するために港を訪れた。その結果、グリーンランド・パイロット・ブックの作成や新しい海図の作成に貢献した。これらの情報は、1941年4月9日にアメリカとナチス・ドイツ支配下のデンマークの亡命者との間で締結された協定に基づいて、グリーンランド・パトロール隊の正式な編成に活用された。この協定により、グリーンランドはアメリカの西半球共同防衛体制に組み込まれた) ◎1941/4/7 南グリーンランド調査遠征に協力するため、2ヶ月間の航海に出発した。この調査では、北大西洋で沈没した船の犠牲者を捜索した。数々の慈悲深い任務に就いていた時、同船は大惨事に近い事態に巻き込まれた。ドイツ海軍戦艦Bismarckを最終的に沈めたイギリス海軍艦艇との戦闘現場から僅か6マイルの所で、ノースランドはイギリスに敵船と間違われ、危うく砲撃を受けるところだった (↑ドイツ海軍戦艦ビスマルク(ライン演習作戦終盤時(1941年時)) ◎のちに海軍に移管 ◎南グリーンランド・パトロール South Greenland Patrolは、砲艦モドック Modoc(WPG-46)、コマンチ Comanche(WPG-76)、港内曳船ラリタン Raritan(WYT-93)と、非分類雑役船ボウドイン Bowdoin(IX-50)で編成された。1ヵ月後、北東グリーンランド・パトロール Northeast Greenland Patrolは、ノースランド、砲艦ノース・スター North Star(WPG-59)、雑役艦ベア Bear(AG-29)。沿岸警備隊のエドワード H. スミス大佐 Capt. Edward H. Smithを指揮官として編成された ◎1941/10/25 2つのグリーンランド・パトロール隊は、10月25日に少将となったスミスの下に統合され、“アイスバーグ Iceberg”というニックネームが付けられた。ノースランドは当初からスミス少将の旗艦として機能した。1943年には37隻の船が参加するようになっていた ◎1946/1/1 沿岸警備隊に移管 ◎1947 地中海に向けて出航。改装後はThe Jewish Stateと改名、イギリスのパレスチナ封鎖を何度も行い、ユダヤ人移民を輸送(難民輸送中にはイギリス海軍駆逐艦に体当たり攻撃を行う) ◎1948 イスラエルが建国されると魚雷艇兼哨戒艇母艦Eilat(A 16) となる(新イスラエル海軍の最初の軍艦。第一次中東戦争中、65mmM1906山砲を搭載、1、2) ◎1955 Matzpenと改名、係留宿泊艦および水上倉庫となる ◎1962/2 退役、のちに解体のため売却 |
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☆WPG-49の撃沈スコア(以下の艦船) ・1941/9/12 ノルウェーのアザラシ猟船Buskoe(Mackenzie Bayにて拿捕、アメリカ参戦前の非常時にアメリカ海軍が拿捕した最初の船、この船の拿捕により、グリーンランドのMackenzie Bayから500マイルほど離れた所にドイツの無線局があることが判明した。ノースランドの夜襲隊は、Peter Bregtにて3名のドイツ軍人を捕らえ、機器とコード、そして極北にあるほかのラジオ局のドイツ側の計画を入手) |
- 満載排水量:1,005t(1934年時) 全長:50.29m 幅:10.97m 吃水:3.74m(平均) 主缶:フォスターホイーラー缶2基(WPG-77はバブコック&ウィルコックス缶2基) 主機/軸数:ウェスティングハウス式double-reductionギアード・タービン1基(WPG-77はド・ラヴァル式double-reductionギアード・タービン1基)/1軸 出力:3,350馬力 速力:17.5kt(最大) 航続力:12.8ktで1,350浬 兵装:50口径76mm砲2基、6ポンド砲2基(1942年には50口径76mm砲2基、80口径20mm単装機関砲2基、マウストラップ2基、両舷爆雷投射機(Y砲)4基、爆雷投下軌条2条) 乗員(1934年時):士官6名、下士官兵56名(1942年には士官6名、下士官兵72名)
- ※165フィート(A)型
船名 | NAME | 船種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
アルゴンクィン | Algonquin | WPG-75 | Pusey & Jones Company | 1934/10/20 | 1947/4/18 | ◎1934/7/25 進水 ◎1941/7 海軍に移管 1944/3末 4枚のプロペラが曲がっていたため切り詰める工事 ◎1944/5/10 Argentiaにてスクリュー交換工事 ◎1944/5中旬 ボストンにて修理改装(~1944/5/30) ◎1945/3前半 ポーツマスにて入渠 ◎1948/7/13 ベスレヘムのPatapsco Scrap Corporationに売却 |
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コマンチ (1、2) |
Comanche | WPG-76 | Pusey & Jones Company | 1934/12/1 | 1947/7/29 | ◎1934/9/6 進水 ◎1941/7/1 海軍に移管 ◎1942/7中旬? steering gear修理 ◎1943/4 チャールズタウン海軍工廠にて修理改装 ◎1943/11上旬 ボストンにて修理改装(~1943/11/27) ◎1944/5上旬 ボストンにて修理改装 ◎1944/8上旬 ボストンにて発電機修理 ◎1945/3 修理改装 ◎1946/4下旬 保管(~1947/2) ◎1948/11/10 Virginia Pilots Associationに売却 |
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エスカナバ (1、2、3) |
Escanaba | WPG-77 | Defoe Boat Works | 1932/11/23 | ― | ◎1932/9/17 進水 ◎1942/12上旬 ボストンにて修理(~1942/12下旬) 1943/6/13 北大西洋にてドイツ海軍潜水艦の雷撃により沈没 |
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モホーク (1、2) |
Mohawk | WPG-78 | Pusey & Jones Company | 1935/1/19 | 1947/10/8 (1948/1/8?) |
◎1934/10/1 進水 ◎1942/6 チャールズタウン海軍工廠にて改装(~1942/7上旬) ◎1943/2中旬 Coast Guard Yardにてオーヴァーホール ◎1943/9上旬 ボストンにて修理改装(~1943/9下旬) ◎1943/11上旬 ボストンにて修理改装(~1943/11上旬) ◎1944/1中旬 St. John'sにて修理改装 ◎1944/3/10? ボストンにて修理改装(~1944/3/24) ◎1944/9/19 Atlantic Worksにて修理 1944/12/20 小氷山と衝突し損傷 ◎1944/12下旬 Gronne Dalにて応急修理 ◎1945/2上旬 アルゼンチンにて修理改装(~1945/2/7) ◎1945/2中旬 ボストンにて修理改装(~1945/2下旬) ◎1945/10中旬 Curtis Bayにて修理改装(~1945/11) ◎1946/4/6 Cape Mayにて保管 ◎1948/11/1 Delaware Bay & River Pilots' Associationに売却 のちにMiami Dade Historical Maritime Museumに売却され記念船となる |
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オノンダガ | Onondaga | WPG-79 | Defoe Boat Works | 1934/9/11 | 1947/7/24 | ◎1934/8/2 進水 ◎1943/3? Women's Bayにて修理 ◎1943/3/14 Seattle plant of Todd Drydocks, Inc. にてオーヴァーホール(~1943/3/31) ◎1943/9/1? ダッチ・ハーバーにて修理、メンテナンス(~1943/9/8) ◎1954/12/7 売却 |
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タホマ | Tahoma | WPG-80 | Defoe Boat Works | 1934/10/22 | 1953/6/5 (1953/7/1?) |
◎1934/9/5 進水 ◎1942/12下旬 アルゼンチンにて修理 ◎1943/9下旬 アルゼンチンにて修理 ◎1947/9/18(1947/10/24) 退役、保管 ◎1952/5/1 船種を調査船(WAGE-10)に改める |
- ※データは税関監視船部蒸気船タラポーサ級の項を参照
船名 | NAME | 船種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
タラポーサ | Tallapoosa | WPG-52 | ニューポート・ニューズ・シップビルディング&ドライ・ドック社 | 1915/8/12 | 1945/11/8 | ◎のちに船種を砲艦(WPG-52)に改める ◎1942後半 Merrill-Stevens Companyにて修理、改装 ◎1943/1? 修理(~1943/2/28) ◎1946/7/22 Caribbean Fruit & Steamship Companyに売却され商船Santa Mariaとなる |
- ※データは哨戒ヨット・メイフラワーの項を参照
船名 | NAME | 船種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
メイフラワー (1、2) |
Mayflower | WPG-183 | J & O Thompson | 1943/10/20 | 1946/7/1 | ◎1943/9/6 沿岸警備隊に移管 ◎1943/10/19 船種記号をWPG-183に改め、メイフラワーと改名 ◎退役後、War Shipping Administrationに移管 ◎1947/1/8 ボルティモアのFrank M. Shawに売却されアザラシ猟船となる 1947/初め Point Lookoutにて火災より損傷 ◎1948初め Collins Distributer's, Inc. に売却されニュー・ヨークにてボイラー交換工事、Mallaと改名、パナマ船籍となる ◎のちにGenoaにて沿岸貿易用に改装(1、2、3、4、5、6、7) ◎1950 Taborと改名 ◎1950 Genoaにて解体 |
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◎Used for radar training (USCG). |
- 公試排水量:2,350t(1936年時) 軽荷排水量:2,216t(1965年には1,837t) 満載排水量:2,750t(1945年時、1954年には2,656t) 全長:99.66m 幅:12.54m(最大) 吃水:3.81m(平均、1945年には4.57m(最大)、1966年には4.64m(最大)) 主缶:バブコック&ウィルコックス缶2基 主機/軸数:ウェスティングハウス式ギアード・タービン2基/2軸 出力(1936年時):5,250馬力(1945年には6,200馬力) 速力:19.5kt 航続力(1945年時):19.0ktで4,200浬(1965年には19.5ktで3,640浬) 兵装(1936年時):51径127mm単装砲3基、6ポンド砲2基、1ポンド砲1基、(WPG-31は1945年には38口径127mm単装両用砲1基、56口径40mm連装機関砲3基、80口径20mm単装機関砲4基。1965年には38口径127mm単装両用砲1基、Mk. 13迫撃砲(high altitude parachute flare mortar)1基、12.7mm機銃2基、Mk. 32 Mod. 5魚雷発射管2基、Mk. 44 Mod. 1魚雷発射管4基) 搭載機:水上偵察機 乗員(1936年時):士官12名、准士官4名、下士官兵107名(1941年には士官16名、准士官5名、下士官兵200名、1945年には士官24名、准士官2名、下士官兵226名、1965年には士官10名、准士官3名、下士官兵134名、1966年には士官10名、准士官3名、下士官兵133名)
- ※327フィート型
- ※セキュレタリー級 Secretary Classともキャンベル級ともビブ級ともハミルトン級ともいわれる
- ※レーダー:HF/DF(1942年初めもしくは1943年時、WPG-31は1945年にはSC-4、SGa、SK、SG-1、1965年にはSPS-23、SPS-29、1966年にはSPS-29D、SPA-52)、Mk. 26射撃管制レーダー(1945年時、1966年にはMk. 26Mod. 4) ソナー:QCシリーズ(1945年時、WPG-31は1965年にはSQS-11)
船名 | NAME | 造船所 記号 |
船種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
ジョージ M. ビブ (1、2) |
George M. Bibb | CG-71 | WPG-31 | チャールストン海軍工廠 | 1937/3/10 | 1985/9/30 | ◎1935/8/15 起工 ◎1937/1/14 進水 ◎1937/5(1937/6?) ビブ Bibbと改名 ◎1942/4 チャールズタウン海軍工廠にて修理(~1942/5/4) ◎1942/12/15 サウス・ボストンにて修理(~1943/1/16) ◎1944/1中旬 St. Helena Navy Yardにてオーヴァーホール(~1944/2/10) ◎1944/3/23 ニュー・ヨーク海軍工廠にて修理改装(~1944/4/2) ◎1944/5/30 ニュー・ヨーク海軍工廠にて修理改装(~1944/6/10) ◎1944/10/17(1944/11?) チャールストン海軍工廠で揚陸指揮船に改装(~1945/1/29)、船種を揚陸指揮船(WAGC-31)に改める ◎1945/12 船種を砲艦(WPG-31)に改める ◎1945/12中旬 サン・ディエゴにて一時的な修理 ◎1946/1 ボストン海軍工廠で気象観測船に改装 ◎1964 改装 ◎1965/5/1 船種を長距離カッター(WHEC-31)に改める |
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◎Initially assigned to the 5th Coast Guard District at Norfolk, VA. Assigned, 5 September 1939, to joint Navy-Coast Guard neutrality patrol in the Atlantic Ocean. Reassigned as to ocean weather patrol in the Atlantic in February 1940. Transferred, 11 September 1940, to US Navy jurisdiction. Eastern Sea Frontier in December 1941. Convoy SC-121. Returned to Coast Guard jurisdiction and converted for duty as an ocean weather station at Boston Navy Yard in January 1946. Rescued 69 people from flying boat Bermuda Sky Queen which forced to land in mid-Atlantic west of Bermuda, 14 Oct 1947. | ||||||||
CG-65 | WPG-32 | フィラデルフィア海軍工廠 | ||||||
ウィリアム J. デュエイン (1、2) |
William J. Duane | CG-67 | WPG-33 | フィラデルフィア海軍工廠 | 1936/8/1 | 1985/8/1 | ◎1935/5/1 起工 ◎1936/6/3 進水 ◎1936/11/24 オークランドに配属 ◎1936/12/9 ホノルルでの臨時任務(太平洋のライン島へのアメリカの植民地化活動に参加) ◎1937/1/13 ホノルルを出航し、アメリカが植民地化している5つの島、ハウランド島、ジャーヴィス島、 カントン島、エンダーベリー島、ベーカー島を巡航した。 ハウランド島へ、同島の入植者への物資と、アメリア・イアハート Amelia Mary Earhartの世界飛行を支援するための緊急飛行場建設に必要な建設資材(重トラクター2台等)を積んで出航。錨を下ろしたのち、ポンツーンを使ってトラクターを2台とも無事に陸揚げする事ができた。そののち、4つの島を巡り、それぞれの島の入植者たちに物資を届け、ホノルルに戻った ◎1937/2/25 オークランドに到着。そののち2年間はBering Sea Patrol Forceに参加し、19世紀から続く沿岸警備隊の伝統的な任務を継続しながら、毎年同海域を巡航 ◎1937/1(1937中頃?) デュエイン Duaneと改名 ◎1939/9 フランクリン・ルーズヴェルト大統領の命令により、Destroyer Division 18に所属し、グランド・バンクス沿いの中立性パトロール(このパトロールは“グランド・バンクス・パトロール Grand Banks Patrols”と呼ばれた)に従事 ◎1939/9/7 オークランドを出港、9月22日に新しい母港であるボストンに到着した。1939年10月から12月にかけて4回のグランドバンクス哨戒を行い、1940年1月12日に最終哨戒を完了 ◎1940/1/27 “グランド・バンクス・パトロール”が廃止されると、デュエインは気象哨戒に従事することになった。戦争で商船からの気象データの流れが止まっていたため、沿岸警備隊は次の様に大西洋中部の2つの基地に327フィート型カッターで構成される気象パトロールを継続的に維持する義務を引き受けた。第1局は35.38N、53.21W、第2局は37.44N、41.13Wの位置にあり、カッターは局の中心から100平方マイルの範囲を約21日間連続的に航行した。各カッターには気象局から気象学者が乗船し、ラジオゾンデや気球による観測を行い、カッターからはパン・アメリカン航空のボーイング314飛行艇が提供された。“ヤンキー・クリッパー Yankee Clipper”、“ディキシー・クリッパー Dixie Clipper”、“アメリカン・クリッパー American Clipper”の3機は、天候や位置情報を提供し、飛行機が正確な方位を把握できる様に無線信号を送信した。デュエインは1940年1月31日、最初の気象パトロールでボストンを出航した ◎1940/7/26 国務省の要請により、ボストンを出航し、グリーンランド海域への巡航に出発した。そこに着くと、同船の飛行機はグリーンランドの西海岸を調査した。 グリーンランドを出航し、1940年9月19日にボストンに到着 ◎1940/9中旬 ベスレヘム・スチール社のサウスボストン工場にて改装(~1940/11/15、対空兵器の他、爆雷投下軌条や爆雷投射機も追加) ◎1941/9/11 海軍の永久任務に就き、船種を砲艦(WPG-33)に改める ◎1942/4/8 チャールズタウン海軍工廠にて入渠、改装 1942/4/10 Hog Island Channelにて座礁、のちにボストンにて修理 ◎第二次大戦中、ヨーロッパアフリカ中東戦域に割り当てられる、のちにアジア太平洋戦域に割り当てられる ◎1942/4/19 砲艦ビブ(WPG-31)とともに対潜水艦演習に参加した。続いてハリファックスで攻撃教導演習が行われ、デュエインは28日に到着し、イギリスの護衛艦と一緒に商船を護衛している ◎1942/5/2 デュエインはレイキャヴィクに向けて航行中で、5月6日に輸送船団SCL-81を護衛した。この18隻の輸送船団はデュエイン、ビブ、海軍駆逐艦3隻を含むと5隻の護衛艦から構成されたものであった。輸送船は何事もなく、8日にHvalfjordurに到着した ◎1942/5/15 デュエインは輸送船団SC-83に合流し、アイスランドに向かう同船4隻を海軍の護衛付きで引き継ぐよう命じられた。17日に輸送船団を視認し、13隻を引き受けた。20日にGrottaに輸送船団は到着、護衛部隊はHvalfjordurに向かい、ドゥエインは26日までここに停泊していた ◎1942/6/10 レイキャヴィクを出航し、15隻の輸送船団ONSJ-102を護衛し、海軍駆逐艦2隻と一緒に東回りの輸送船団ONS-102と合流した。16日には砲艦キャンベル Campbell(WPG-32)とイギリスの護衛艦が潜水艦を捜索する中、主要な輸送船団を担当した。 数時間後、デュエインは砲艦インハム Ingham(WPG-35)の捜索を支援するよう命じられた。1900時に輸送船団への復帰を命じられた同船とインハムは、Uボートを振り切るために急回避したため、夜間に輸送船団を見つけることができなかった。2隻の砲艦は18日1840時にようやく輸送船団を発見し、さらなる護衛任務から解放されたのち、23日にレイキャヴィクに戻り、同じ日の夕方にHvalfjordurに係留された ◎1942/7/3 デュエインは海軍の駆逐艦2隻とともに、5日に13隻の輸送船団を護衛するために捜索隊形で海上に出た。“BN”放送のラジオで、2隻の潜水艦が付近で活動しているという報告を受けたのである。しかし、潜水艦は現れず、9日に輸送船団は掃海路とフィヨルドを抜けてHvalfjordurに停泊 1942/7/26 デュエインは国賓を迎える準備を整え、1455に合衆国艦隊司令官 Commander in Chief, U.S. Fleet アーネスト J. キング大将 ADM Ernest J. Kingとそのスタッフ、第24.6任務群 Task Group 24.6司令官D. S. ビアリー大将 ADM D. S. Bearyとそのスタッフ、大統領秘書官スティーヴン・アーリー Stephen Earlyが乗船し、正当な名誉をもって迎えられた。Hvalfjordur Fjordに向かい、港湾防衛の視察クルーズに出発した。一行は1628に出航 ◎1942/8/13 1445、輸送船団SC-95を護衛。17 日の1125にGrotta で輸送船団を降下させた ◎1942/9/11 デュエインと駆逐艦リアリー Leary(DD-158)はコルヴェットに支援され、アイスランド行きの輸送船団SC-99に合流する為に出航した。この輸送船団は66隻で構成されていたが、9月13日に合流し、デュエインと駆逐艦リアリー(DD-158)はエスコートとして配属された。船団は17日、レイキャヴィク外港のGrotta Point沖に無事停泊 ◎1942/10/5 インハム、駆逐艦シェンク Schenck(DD-159)とともに、往路の5隻の輸送船団ONSJ-136の護衛を開始。Hvalfjordurに向かい、12日に到着 1942/10/18 停泊地を移動するために錨を下ろすも操舵装置が詰まり、調査の結果、追従リンクシステムの垂直軸が激しいひずみを受け、約25゚捩じれていることが分かった。油圧側のカット調整ナット cut adjusting nutが緩み、右舷側の調整ネジが外れている事が指摘された。 これがステアリング・ギアの事故の原因であることは間違いない。これは改装でもしない限り、調整不能になることはあり得ないと思われた。ステアリング・ギアは出航前にテストされていたが、その狂いは指摘されていなかった。万が一、破壊工作が行われた場合に備えて、ホイールの取り扱いには慎重を期した ◎1942/11/7日 デュエインはレイキャヴィクに向かい、1545にビブと一緒にGrotta Point沖にて8隻の船の護衛を開始、中旬にレイキャヴィクに戻った ◎1942/11/25 デュエインは西進し、29日に海軍駆逐艦2隻とともにアイスランドから進行する輸送船団HX-216に合流するために待機した。12月1日、彼らは輸送船団HK-216のさらなる任務を解かれ、アイルランドに向かって進む輸送船団SCL-110に接触するために進行した。 2日、SC-110から離脱した輸送船団SCL-110を視認し、デュエインを先頭に、海軍駆逐艦2隻を両舷に従えた。3日にレイキャヴィクに停泊し、4日にHvalfjordurに移動 1942/12/17 デュエインはレイキャヴィクに向かい、26日に停泊のために待機していたノルウェーの流し網漁船Booreneと衝突し、Engey Lightから約800ヤードの場所にてBooreneを沈没させる。乗員全員は別の流し網漁船によって救助され、デュエインは11袋の郵便物を救い出した ◎1942/12/27 7隻からなる輸送船団ONSJ-156が編成を開始し、レイキャヴィクを出航し、29日に航空支援を受けることになった。その日の0700時にキャンベルは護衛部隊を増強した。 30日、輸送船団ONS-156は収束するコースを目撃され、砲艦スペンサー Spencer(WPG-36)付近で操船していたデュエインは、主要輸送船団の右舷船首で外洋スクリーンを任された ◎1943/1/1 デュエインと駆逐艦シェンク(DD-159)は東回りの輸送船団SC-114を護衛するため、輸送船団 ONS-156から進んでいた。5日、デュエインはGrotta Pointまで輸送船団を護衛し、レイキャヴィク港にて燃料補給を行った ◎1943/1/14 デュエインと駆逐艦バビット Babbitt(DD-128)は、敵潜水艦の攻撃の脅威にさらされていたアイスランドに向かう東向きの輸送船団SC-116に合流するよう命令を受けた。24日、デュエインは輸送船団から離脱し、Hvalfjordurに戻った ◎1943/1/28 海軍駆逐艦2隻とともに、9隻からなる西回りの輸送船団ONSJ-163の護衛としてふたたび出航。8日には、濃霧の中、輸送船団ONS-167の護衛部隊の位置を確認する様に命令を受けるも確認することができず、St. John'sに進むよう命じられ、1625に係留した ◎1943/2/9 兵員輸送艦オリザバ Orizaba(AP-24)をボストンまで護衛するためSt. John's港に立ち、12日にボストンに到着した。翌17日にCurtis Bayに到着し、修理を受けながら1943年3月21日までそこに留まった(1、2)。3月23日にCasco Bayに向かい、27日に到着して対潜演習、攻撃教官訓練、測距儀の指導を受けた。3月29日にボストンに戻り、QC(水中音響装置)ドームの修理のため乾ドックに入り、1943年3月31日にアルゼンチンへ向けて航行中 ◎1943/4/2 アルゼンチンに到着したドウェインは、4月11日まで係留され、スペンサーを旗艦として4隻のイギリス護衛艦艇を含むCTU 24.1.3の一員となった。 この任務部隊は、12 日にロンドンデリーに向かう輸送船団HX-233と合流した。ロンドンデリーにに1943年4月22日に到着した ◎1943/4/29 ロンドンデリーからモヴィルに向けて出発し、5月1日にはスペンサーと一緒にボストンに向かっていた。 5月5日にアルジェンティアに到着したデュアンは、8日からタンカーSabine Sunのボストンへの護衛を開始し、12日にボストンに到着した。 24日まで修理を受け、25日にニュー・ヨークへ向かった ◎1943/5/28 第69任務部隊に参加したデュエインは、カサブランカに向かう輸送船団UGS-9の護衛。6月16日にカサブランカ港に停泊 ◎1943/6/21 スペンサー、キャンベル、海軍駆逐艦3隻とともにカサブランカを出航し、 輸送船団出発前の掃討作戦を行い、翌日の正午過ぎから輸送船団GUS-8Aのカサブランカ・セクションの護衛に加わる 1943/7/3 洋上給油中、プロペラ・ガードと銃座のスポンソン・サポートに軽い損傷を受けた。ニュー・ヨーク・セクション6隻は8日にデュエイン(旗艦)、スペンサー、キャンベルと海軍駆逐艦1隻をエスコートとして離脱した。輸送船団は濃霧の中、10日深夜に灯船アンブローズ Ambrose付近に停泊し、1943年7月12日に港に入港した ◎1943/7/23 ニュー・ロンドンに進み、翌日訓練に立ち会ったのち、25日に到着したスペンサーと海軍駆逐艦3隻と一緒にハンプトン・ローズに向けて出港した。27日には第64任務部隊に参加し、UGS-31をカサブランカまで護衛した。1943年8月13日にカサブランカに入港し、内港に係留された ◎1943/8/19 第64任務部隊とともにジブラルタルに向かい、翌日、輸送船団GUS-12の護衛として出港した。スペンサーが護衛するカサブランカ・セクションと他の3隻の護衛艦はその日のうちに合流した。9月3日、ノーフォーク・セクションは出発した。5日、ニュー・ヨーク港の掃海路に入ったニュー・ヨーク・セクションから切り離され、スペンサーとともにボストンに向かい、6日にサウス・ボストン海軍工廠に係留された。7日から23日まで修理を受け、24日にはCasco Bayにて砲台、機銃、対潜、対空練習を行った ◎1943/10/2 キャンベルとともにノーフォークに向かい、5日にはキャンベルと海軍駆逐艦8隻と共に輸送船団UGS-20の護衛としてカサブランカに向けて再び航行した。20日、カサブランカ・セクションはデュエイン、キャンベル、海軍の護衛艦3隻とともに切り離され、21日にカサブランカに係留された ◎1943/10/29 デュエイン、キャンベルと海軍艦艇3隻はGUS-19のカサブランカ・セクションの護衛を始め、その日のうちに輸送船団本隊とともに第65任務部隊に合流した。11月1日と2日、2隻の護衛艦から医療関係者がデュエインに移送された。13日、ニュー・ヨーク・セクションはデュエイン及び海軍艦艇4隻と離脱した。そののち、任務部隊から切り離され、単独でボストンに向かい、16日にサウス・ボストン海軍工廠に係留し、10日間の修理改装を行った ◎1943/11/28 デュエインはキャンベルと一緒にボストンを出航し、12月2日にグアンタナモ湾に到着。4日、オランダ軍艦1隻と駆潜艇(鋼製船体、PC)4隻とともに、Trinidad(BWI)へ向かう輸送船団GAT-103の護衛として航行中であった。駆潜艇(木製船体、SC)は2隻をCuracaoまで護衛し、Curacaoからは護衛なしの1隻が合流した。9日、船団はBocas de Dragon swept channelに入り、10日にTrinidadに係留された ◎1943/12/17 第4.1.2任務隊旗艦として航行。22日、護衛艦は輸送船団から離脱し、デュエインはSanta Luciaにて給油後、25日にTrinidadに帰港した。30日には、4隻の駆潜艇(鋼製船体、PC)とともに第26.4任務隊旗艦として、輸送船団TAG-106の護衛に当たっていた。輸送船団は4日2249時に グアンタナモに到着した ◎1943末 艦種を揚陸指揮艦(AGC-6)に改める◎1944/1/12 デュエインは単独でノーフォークに向かう、海軍に移管、艦種を揚陸指揮艦(AGC-6)に改める予定がキャンセル ◎1944/1/16 ノーフォーク海軍工廠に係留された ◎1944/1/17 ノーフォーク海軍工廠、ポーツマスで揚陸指揮船に改装(~1944/3/6)、船種を揚陸指揮船(WAGC-33)に改める(7日に海軍造船所を出発し、一連のテストを受けたのち、19日に造船所に戻り、28日まで使用可能な期間となり、1944年4月3日までノーフォークのN.O.Bに移動、1、2、3、4) ◎のちに船種を砲艦(WPG-33)に改める ◎1965/5/1 船種を長距離カッター(WHEC-33)に改める ◎1946年5月にボストンからアルゼンチンへ出航し、気象ステーション・チャーリー Weather Station Charlieに向かう。そののち20年の間、太平洋に配備されたタニーを除くデュエインと同型船達は、チャーリー気象台(ニューファンドランド自治領(1949年からニューファンドランド州)St. Jonsの北東850マイル)、ブラヴォー気象台(Labrador州セント・チャールズ岬の北東250マイル)、デルタ気象台(アルゼンチンの南東650マイル)、エコー気象台(バミューダの東北東800マイル)で交代勤務を行った。 そののち、これらは単に“海洋ステーション ocean stations”と呼ばれるようになった 1955/4/20 カリブ海にて商船Arlesianaをバミューダへ曳航中、悪天候により搭載していた3番艇はcradleから引きちぎられ、甲板に激しい打ち付けられた |
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◎Conboy HX-203, Convoy UGS-38, Southern France. ☆WPG-33の撃沈スコア(以下の艦船) ・1943/4/17 ドイツ海軍潜水艦U175(47.53N、22.04Wにて損傷を与える(スペンサーと共同で)) (←ドイツ海軍IXC型潜水艦) |
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CG-69 | WPG-34 | ニュー・ヨーク海軍工廠 | ― | |||||
CG-66 | WPG-35 | フィラデルフィア海軍工廠 | ||||||
CG-70 | WPG-36 | ニュー・ヨーク海軍工廠 | ||||||
☆WPG-36の撃沈スコア(以下の艦船) ・1943/4/17 ドイツ海軍潜水艦U175(47.53N、22.04Wにて撃沈(デュエインと共同で)) (←ドイツ海軍IXC型潜水艦) |
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CG-68 | WPG-37 (1、2、3) |
フィラデルフィア海軍工廠 |
- 軽荷排水量:1,342t(1966年時) 満載排水量:2,010t(1945年時、1966年には1,978t) 全長:77.41m(77.72mともいわれる) 幅:13.10m(13.13m(最大)ともいわれる) 吃水:4.87m(1945年時、5.18mともいわれる、1966年には5.25m(最大)) 主缶:フォスターホイーラーdrum-top fired Express-type缶2基 主機/軸数:ウェスティングハウス式タービン1基、発電機、電動機/1軸 出力:4,000馬力(1945年時) 速力:16.0kt 航続力(1945年時):19.0ktで5,800浬 兵装:38口径127mm砲2基、56口径40mm4連装機関砲2基、80口径20mm単装機関砲4基、マウストラップ1基、両舷爆雷投射機(Y砲)6基、爆雷投下軌条2条(1966年には38口径127mm砲1基、12.7mm機銃1基、Mk. 10 Mod. D爆雷投射機1基。WPG-40は1966年には38口径127mm砲1基、ヘッジホッグ2基、Mk. 32魚雷発射管2基。1973年には38口径127mm砲1基、81mm迫撃砲2基、12.7mm機銃6基。WPG-42は38口径127mm砲1基、81mm迫撃砲1基、12.7mm機銃2基、Mk. 32 Mod. 5魚雷発射管2基、Mk. 10 Mod. 1爆雷投射機1基) 乗員(1945年時):士官18名、准士官2名、下士官兵256名(1966年には士官10名、准士官3名、下士官兵130名)
- ※255フィート型
- ※インディアン・トライブス級 Indian Tribes Classともいわれる
- ※レーダー:SR、SUレーダー(1945年時、1965年にはSPS-23、SPS-29-B、SPA-52。WPG-40、WPG-41は1966年にはSPS-23、SPS-29、WPG-42は1965年にはSPS-23)、Mk. 26射撃管制レーダー(WPG-40、WPG-41は1966年にはMk. 26、Mk. 27) ソナー:QJA(1945年時、1965年にはSQS-1、SQA-2、55134-B、UQC-1C、WPG-42は1965年にはSQS-1)
船名 | NAME | 造船所 記号 |
船種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
オワスコ | Owasco | CG-105 | WPG-39 | Western Pipe & Steel Co. | 1945/5/18 | 1973/6/27 | ◎最初の予定船名はオナイダ Oneidaだった(起工後改名) ◎1943/11/17 起工 ◎1944/6/18 進水 ◎1946 Coast Guard Yardにて改装(~1946/5) ◎1951 退役、Coast Guard Yardにて係船 ◎1955/8/15 再役 1962/1 嵐により損傷 1965/8/24 Little Goshen Reefにて座礁により損傷 ◎1966/5/1 船種を長距離カッター(WHEC-39)に改める |
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ウィネベーゴ | Winnebago | CG-106 | WPG-40 | Western Pipe & Steel Co. | 1945/6/21 | 1973/2/27 | ◎1943/12/1 起工 ◎1944/7/2 進水 ◎1948/2 Coast Guard Yardにて係船(~1948/9) 1962/3/26 真珠湾入り口にて座礁(数日後に離礁) ◎1966/5/1 船種を長距離カッター(WHEC-40)に改める |
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チョートークア | Chautauqua | CG-107 | WPG-41 | Western Pipe & Steel Co. | 1945/8/4 | 1973/8/1 | ◎1943/12/22 起工 ◎1944/5/14 進水 1947/4/30 火災により損傷 ◎1966/5/1 船種を長距離カッター(WHEC-41)に改める |
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セバゴ | Sebago | CG-108 | WPG-42 | Western Pipe & Steel Co. | 1945/9/20 | 1972/2/29 | ◎最初の予定船名はワチュセット Wachusettだった(起工後改名) ◎1943/6/7 起工 ◎1944/5/28 進水 ◎1949/10/31 退役、Coast Guard Yardにて保管 ◎1952/12/17 再役 ◎のちにCoast Guard Yardにてオーヴァーホール(~1959/2) 1959/7/7 Algiers海軍基地にて貨物航空機運搬艦クロアタン Croatan(T-AKV-43)と衝突 1964/10/15 エンジン室出火(修理額$50,000) ◎1966/5/1 船種を長距離カッター(WHEC-42)に改める |
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CG-109 | WPG-43 | Western Pipe & Steel Co. | ||||||
CG-110 | WPG-44 | Western Pipe & Steel Co. | ||||||
CG-111 | WPG-64 | Western Pipe & Steel Co. | ||||||
CG-112 | WPG-65 | Western Pipe & Steel Co. | ||||||
CG-113 | WPG-66 | Western Pipe & Steel Co. | ||||||
CG-114 | WPG-67 | Western Pipe & Steel Co. | ||||||
CG-115 | WPG-68 | Western Pipe & Steel Co. | ||||||
CG-116 | WPG-69 | Coast Guard Yard | ||||||
CG-117 | WPG-70 | Coast Guard Yard |
- 満載排水量:3,500t(1945年時) 全長:91.64m 幅:16.76m 吃水:5.79m(最大、1945年時) 主缶:スコッチ缶6基 主機/軸数:パーソンズ式LPタービン3基/3軸 出力:5,000馬力 速力:15.7kt(1945年時) 航続力(1945年時):14.7ktで3,300浬 兵装:38口径127mm単装砲2基、80口径20mm単装機関砲6基、マウストラップ2基、両舷爆雷投射機(Y砲)4基、爆雷投下軌条2条 乗員(1945年時):士官9名、下士官兵114名
- ※レーダー:SA、SLレーダー ソナー:QCL-8
船名 | NAME | 船種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
コッブ | Cobb | WPG-181 | Delaware River Iron Shipbuilding & Engine Works (Delaware River Iron & Ship Building Works?) |
1943/7/20 | 1946/1/31 | ◎1942/6/5 フィラデルフィアにて1906年4月21日進水、1906年10月23日竣工のEastern Steamship Company(のちにP & O Steamship Companyが運航、第一次大戦中、United States Shipping Boardが取得し、練習船となる、1937年にRomance Lineに売却されるも商務省所管の航行汽船検査局(U.S. Bureau of Navigation & Steamboat Inspectionが不合格とし係船)の商船Governor CobbをWar Shipping Administrationが取得 ◎1943/8/2 コッブと改名 ◎のちに沿岸警備隊に移管、ボルティモアのGeneral Ship Repair Companyでヘリコプター着陸船に改装 のちに機関故障、海軍工廠にて修理 ◎1947/3/6 売却 |
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◎Used as helicopter test ship, 1944. Had machinery failures. |
- ※データは沿岸警備隊カッター・レイク級の項を参照
船名 | NAME | 船種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
モコマ | Mocoma | WPG-163 | ユナイテッド・ドック社 | 1932/3/22 | 1950/5/8 | ◎1947/3/20 再役 1950 マイアミにて座礁 ◎1955/7/15 売却 |
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セベック | Sebec | WPG-164 | ジェネラル・エンジニアリング&ドライドック社 | 1930/10/2 | 1954/8/10 | ◎1946/2/27 イギリスより返還され船種を砲艦(WPG-164)に改め、セベックと改名 ◎1947/5/27 再役、タンパ Tampaと改名 ◎1959/2/16 売却 |
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シャンプレーン | Champlain | WPG-319 | ベスレヘム・シップビルディング社 | 1929/1/24 | ◎1946/3/27 イギリスより返還され船種を砲艦(WPG-319)に改める ◎1948/3/25 売却 |
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アイタスカ | Itasca | WPG-321 | ジェネラル・エンジニアリング&ドライドック社 | 1930/7/12 | 1941/5/30 | ◎1946/4/23 イギリスより返還され船種を砲艦(WPG-321)に改める、再役する予定だったがキャンセル ◎1950/9/28(1950/10/4?) 解体のため、ボルティモアのPatapsco Scrap Corporationに売却 |
- 満載排水量:3,077t(1942年時) 全長:96.31m 幅:14.98m 吃水:5.79m 主機/軸数:ディーゼルエレクトリック/2軸 出力:1,600馬力 速力:12.0kt(14.0ktともいわれる) 航続力:12.0ktで20,000浬 兵装:50口径76mm砲2基、80口径20mm機関砲8基、Mk. Xヘッジホッグ1基、爆雷投射機(K砲)4基、爆雷投下軌条2条 爆雷44個 乗員:士官21名、兵曹長1名、兵曹13名、下士官兵160名
- ※レーダー:ET 80198-2-22MC、 ET 8010C 375-500 KC、ET 8012B 2100 - 3000 KC ソナー:エコー測距装置、レンジ・レコーダー、Sub-Sig Fathometer
↑USCGC Sea Cloud (WPG-284). Photographed by the U.S. Coast Guard, circa 1942. This ship later transferred to the Navy, as USS Sea Cloud (IX-99), but retained her Coast Guard crew. U.S. Naval Historical Center Photograph. Image courtesy of HyperWar.
船名 | NAME | 船種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
シー・クラウド (1、2、3) |
Sea Cloud | WPG-284 | Friederich Krupp Germaniawerft, A.G. Schiff- und Maschinenbau AG "Germania" |
1942/4/4 | ◎1942/1/7 1931年4月25日進水のMarjorie Merriweather Postと2番目の夫でウォール街のE. F. Hutton
& Co. のEdward F. Huttonのバーク型帆船Hussar V(1935年に駐ソヴィエト大使のJoseph E. DaviesはMarjorie
Merriweather Postと結婚し、Davies夫妻は船名をシー・クラウドと改名。Davies夫人は船を所有していたが、Davies氏が船の所有権を主張する事を許した。デイヴィス大使がベルギーに赴任することになり、シー・クラウドもそれに同行した。第二次大戦が勃発し、大型船が海軍の船と間違われる危険があったため、黒光りするヨットは安全確保のため白く塗り直された)を沿岸警備隊が使用するために、海軍から年間$1でチャーター(1941年にDavies夫人がこの船を海軍省に最初に提供した時、海軍はこれを拒否した。フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領 President Franklin Delano Rooseveltは、この船は犠牲にするには美しすぎると述べ、就航に反対した)、Curtis Bayにて改装(気象観測所船として改装させ、4本のマストを取り除き、船体を戦艦色
battleship grayに塗った) ◎Eastern Sea Frontierに割り当てられ、ボストンを定住港とすることとなった。沿岸警備隊の気象パトロールに投入され、7月23日にボストンを出発した。1944年4月20日までこの任務でボストンを出発し、北大西洋をパトロールした ◎1943/4/9 海軍に移管 ◎1944/11/4 沿岸警備隊に移管、戦前の姿に戻すための$175,000とともに前の持ち主に返却 ◎1955/8/1 ジャクソンヴィルの海運会社へ売却 ◎のちにドミニカ共和国のラファエル・トルヒーヨ将軍 Generalissimo Rafael Trujilloが購入、大統領専用船Angelitaとなる ◎1964 トルヒーヨが暗殺されたのち、ドミニカ共和国政府によって引き継がれPatriaと改名された ◎1966 Operation Sea Cruises, Inc. に売却。社長のJohn Blueはこの船をパナマで登録し、イタリアのNaplesに送り、チャーター用の改装と装備をさせた ◎1969 マイアミのAntarna, Inc. に売却されAntarnaと改名。Blueはこの船をアメリカに持ち込んだが、パナマのColónにて紛争が発生し、港湾当局が船を係留させた。 CharlesとStephanie Gallagher夫妻は、Blueがまだ船の書類を持っていたにもかかわらず、船を自由にするための費用を支払い海に出した。二人は、この船を“海洋学校”にし、生徒達が従来の学習を海洋教育で補うことを夢見た。Blueはパナマでの対立の末、最終的に船を取り戻した ◎この船が8年間港に留まったのち、Hartmut Paschburgとハンブルクの仲間達がこの船を購入し、ふたたびシー・クラウドと名づけた。Paschburgと38名の仲間は、この船をヨーロッパに向けて航海させ、1978年11月15日にハンブルク港に到着。シー・クラウドは8ヶ月間、建造された造船所(現在のHowaldtswerke-Deutsche Werft)で修理を受けていた ◎1979 最初のクルーズに出航し、それ以来、BerlitzのComplete Guide to Cruising & Cruise Shipsで“船上に浮かぶ最もロマンチックな帆船”と評されている(1、2、3、4、5、6、7) ◎2011 シー・クラウドはBremerhavenのMWB-Werftにて大規模な改装を受けた ◎現在、クルーズ船として運航している(1、2) |
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◎USCG weather patrol 1942. |
Update 24/08/04