日付 |
主な出来事 |
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アメリカ海軍の3つの飛行隊が第211戦闘飛行隊(Fighter Squadron 211: VF-211)に指定されている。最初の飛行隊は1948年に設立され、1949年に解散した。2番目のVF-211は1955年に設立され、のちに1959年に第24戦闘飛行隊(Fighter
Squadron 24: VF-24)に再指定された。第3のVF-211は1945年に第74爆撃飛行隊(Bombing Squadron 74:
VB-74)として設立され、最終的に第211戦闘攻撃飛行隊(Strike Fighter Squadron 211: VFA-211)となった。 |
1945/5/1 |
第74爆撃飛行隊(Bombing Squadron 74: VB-74)は1945年5月1日、マサチューセッツ州のオーティス・フィールド海軍航空補助基地
NAAF Otis Fieldに設立された。最初の航空機はSBW-4Eであった。飛行隊はすぐにNASノーフォークのイースト・フィールドに移り、1945年10月31日に大型航空母艦ミッドウェー Midway(CVB-41)に配備された |
1946 |
1946年、飛行隊は第1B攻撃飛行隊(Attack Squadron 1B: VA-1B)と改名され、AD-1への移行を開始した。2年後、飛行隊はAD-2に移行し、1948年9月1日に第24攻撃飛行隊(Attack Squadron 24: VA-24)に改称された。スカイレイダーはエンジンの問題ですぐに地上に降ろされ、VA-24は大型航空母艦コーラル・シー Coral Sea(CVB-43)に配備される6週間前にF4Uに移行した。配備後、飛行隊はオシアナ海軍航空基地 NAS Oceanaへ移動し、1949年12月1日にVA-24は第24戦闘飛行隊(Fighter
Squadron 24: VF-24)と改名された |
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VF-24はアラメダ海軍航空基地 NAS Alamedaに移動し、航空母艦ボクサー Boxer(CV-21)とヴァリ・フォージ Valley Forge(CV-45)で朝鮮戦争を支援するために2回連続して展開し、敵の要塞、車両基地、橋、倉庫、飛行場を爆撃した |
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2回目のデプロイメント後、VF-24はカリフォルニア州のサンタ・ロサ海軍補助着陸場 NALF Santa Rosaに移転し、飛行隊初のジェット戦闘機であるF9F-2に移行した。1952年2月、VF-24はボクサーとともに再び朝鮮半島に派遣され、8月29日の平壌攻撃を含む3度目の戦闘任務に就いた。帰国後、VF-24はアラメダ海軍航空基地に移った |
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1950年代の残りの期間、VF-24はモフェット・フィールド海軍航空基地 NAS Moffett FieldでFJ、FJ-3M、F3H-2M、F11F、F8Uなど多くの航空機を飛ばした。1959年3月9日、VF-24はVF-211“チェックメイツ Checkmates”と航空翼、記章、呼称を交換した |
1959 |
VF-211は1959年4月25日から12月3日まで西太平洋に展開するため、攻撃航空母艦レキシントン Lexington(CVA-16)の第21空母航空群(Carrier Air Group 21: CVG-21)に配属された |
1961 |
1961年、飛行隊はミラマー海軍航空基地 NAS Miramarに移転し、以後35年間本拠地となった |
1964/10 |
VF-211はヴェトナム戦争中に8回の派遣を行った。1964年10月21日から1965年5月29日まで、F-8Eを装備したVF-211は攻撃航空母艦ハンコック Hancock(CVA-19)に配備された。 2月21日、F-8E Bu.No. 150897は発進時に出力を失い、パイロットは無事に脱出し、救助された |
1965/11 |
1965年11月10日から1966年8月1日まで、VF-211はハンコックに配備された。 12月24日、F-8E Bu.No. 150891が喪失、パイロットは脱出に成功し救助された。 4月28日、F-8E Bu.No. 150867が空爆中に山に激突、パイロットのトーマス・ブラウン大尉 LT Thomas Brownは戦死、遺体は回収されなかった。 5月2日、F-8E Bu.No. 149169が油圧故障により喪失、パイロットは脱出に成功し救助された。 5月23日、F-8E Bu.No. 150901が対空砲火を受け、パイロットは脱出に成功し救助された。 6月21日、フィル・ヴァンパテラ中尉 LTJG Phil Vampatellaとユージン・チャンシー大尉 LT Eugene ChancyがそれぞれMiG-17を撃墜し、 F-8E Bu.No. 149152はMiG-17に撃墜されたが、パイロットのコール・ブラック中尉 LTJG Cole Blackは脱出に成功し、1973年2月12日に捕虜となり解放された |
1967/1 |
1967年1月26日から8月25日まで、VF-211は攻撃航空母艦ボノム・リシャール Bon Homme Richard(CVA-31)に配備された。 5月1日、M. ライト少佐 LTCDR M. WrightがVPAFのMiG-17を撃墜。 5月19日、ポール・スピア中佐 CDR Paul Speerとジョセフ・シア中尉 LTJG Joseph SheaがそれぞれMiG-17を撃墜。 5月19日、F-8E Bu.No. 150930がSA-2に被弾したが、パイロットのケイ・ラッセル少佐 LTCDR Kay Russellは脱出に成功し、1973年3月4日に捕虜となって解放された。 5月21日、F-8E Bu.No. 150348は対空砲火を受け、パイロットは脱出に成功し、救助された。 6月6日、F-8E Bu.No. 150303は対空砲火を受け、パイロットのトーマス・ホール中尉 LTJG Thomas Hallは脱出に成功し、1973年3月4日に捕虜となり、解放された。 7月21日、ティム・ハバード少佐 LTCDR Tim HubbardはMiG-17を撃墜した |
1968/7 |
1968年7月18日から1969年3月3日まで、F-8Hを装備したVF-211はハンコックに配備された。 8月24日、F-8H Bu.No. 148694が油圧故障で失われたが、パイロットは脱出に成功し、救助された。 11月15日、F-8H Bu.No. 147923がランプ・ストライク ramp strike(ramp strikeもしくはrampstrikeとは、空母に着艦する航空機が、飛行甲板のレヴェルより下にある、ランプ
rampとも呼ばれる空母の後部に衝突すること)で失われたが、パイロットは脱出に成功し、救助された |
1969/8 |
1969年8月2日から1970年4月15日まで、F-8Jを装備したVF-211はハンコックに配備された。 11月28日、F-8J Bu.No. 149211がランプ・ストライクで失われたが、パイロットは脱出に成功し、救助された |
1970/10 |
1970年10月22日から1971年6月3日まで、VF-211はハンコックに配備された。 10月28日、F-8J Bu.No. 149202がランプ・ストライクで失われ、パイロットのG. カルローニ大尉LT. G Carloniが死亡した。 2月5日、F-8J Bu.No. 149197がランプ・ストライクで失われ、パイロットは脱出に成功して救助された。 3月16日、F-8J Bu.No. 150294がランプ・ストライクで失われ、パイロットは脱出に成功して救助された |
1972/1 |
1972年1月7日から10月3日まで、VF-211はハンコックに配備された。 5月23日、ジェリー・タッカー大尉 LT Jerry TuckerはVPAFのMiG-17と交戦し、パイロットは発砲する前に脱出を余儀なくされた。 6月20日、F-8J Bu.No. 150923は対空砲火を受けたが、パイロットは脱出に成功し、救助された |
1973/5 |
1973年5月8日から1974年1月8日まで、VF-211はハンコックに配備された。 5月31日、F-8J Bu.No. 150677が海上で行方不明となり、パイロットは脱出に成功して救助された。 7月26日、F-8J Bu.No. 149186が海上で行方不明となり、パイロットは脱出に成功して救助された。VF-211はF-8クルーセイダーで8機の撃墜を確認し、“MiGキラー
The MiG Killers”と呼ばれた |
1975 |
1975年、VF-211はF-14Aに移行し、1977年4月、第9空母航空団(Carrier Air Wing 9: CVW-9)とともに汎用航空母艦コンステレーション Constellation(CV-64)に配備された。同飛行隊は1970年代から1980年代にかけて、コンステレーションで多数のWESTPACデプロイメントを完了した |
1980 |
VF-211は戦術航空偵察ポッドシステム(Tactical Air Reconnaissance Pod System: TARPS)任務を追加した |
1983 |
VF-211は空母を汎用航空母艦レンジャー Ranger(CV-61)に変更 |
1985 |
1985年、汎用航空母艦キティ・ホーク Kitty Hawk(CV-63)がF/A-18に対応できるようにアップグレードされたため、キティ・ホークとともに配備された。VF-211はそののち、コンステレーション、キティ・ホーク、原子力汎用航空母艦ニミッツ Nimitz(CVN-68)に移る |
1986 |
VF-211は実験的な水性迷彩スキーム water based camouflage schemesの試験に参加し、少なくとも4機を茶色と灰色からなる一時的なスキームで塗装した |
1989/4 |
VF-211はF-14A+(のちのF-14B)にアップグレードした |
1991 |
VF-211は湾岸戦争の余波を支援するために展開し、連合軍に航空優勢と空中偵察画像を提供した |
1992 |
1992年、同飛行隊はすべてのF-14Bを大西洋艦隊飛行隊 Atlantic Fleet Squadronsに移行させることを決定したため、F-14Aに戻さざるを得なくなった。VF-211は1990年代、ペルシャ湾に定期的に派遣された。 |
1996 |
1996年、VF-211はVF-24が閉隊されたのち、最後のF-14飛行隊となり、ミラマー海軍航空基地が海兵隊に引き渡されたため、オシアナ海軍航空基地へ移動した。1996年、部隊はLANTIRN可能なF-14も受領し、1997年9月、“サザン・ウォッチ作戦
Operation Southern Watch”を支援するため、ペルシャ湾で4ヶ月間クルーズした。VF-211は毎日イラク上空を飛行し、国連が課した飛行禁止区域を実施し、航空偵察画像と精密打撃能力を提供した |
2000 |
VF-211と他のCVW-9は原子力汎用航空母艦ジョン C. ステニス John C. Stennis(CVN-74)のミレニアム・クルーズに参加し、ペルシャ湾で4ヶ月間、イラク上空の飛行禁止区域の執行にあたった |
2001 |
9月11日の同時多発テロの後、飛行隊はCVW-9とともにアフガニスタン上空での“不朽の自由作戦 Operation Enduring Freedom”の戦闘任務を支援するために展開した |
2002初め |
同飛行隊は3週間にわたる“アナコンダ作戦 Operation Anaconda”を直接支援し、1,250回の戦闘出撃、4,200時間の戦闘時間を記録し、100,000ポンド(45,000kg)の兵器を投下し、 2002年度のアレン精密打撃賞(VADM "Sweetpea" Allen Precision Strike Award)を受賞した。米国に帰還すると、原子力汎用航空母艦エンタープライズ Enterprise(CVN-65)の第1空母航空団(Carrier Air Wing 1: CVW-1)に移行した |
2002 |
同飛行隊は太平洋艦隊司令官 Commander Naval Air Force Pacific Fleetから戦闘効率に与えられるバトル“E” BATTLE "E"、大西洋艦隊司令官 Commander Naval Air Force Atlantic Fleetから空対空の優秀な作戦に与えられるGRAND SLAM賞 GRAND SLAM Award、そして戦闘効率と作戦における最も優れた総合的な功績に与えられるクリフトン賞 Clifton Awardを受賞した |
2003後半 |
VF-211はイラクの自由作戦を支援する最後のF-14クルーズのために派遣され、主に偵察、“力の誇示 show of force”、地上支援任務に就いた |
2004 |
2004年にオシアナ海軍航空基地へ帰還したVF-211は、F/A-18Fへの移行を開始し、VFA-211と改称され、東海岸初のスーパー・ホーネット運用飛行隊となった
 「CVW: US Navy Carrier Air Wing Aircraft 1975-2015」の著者であるマイク・クラッチ Mike Crutchは、彼の本の第1巻を執筆中に、歴史から-そしてペンタゴンの書類から-失われていた興味深い間違いを発見した。CVW-1のコマンド・ヒストリーには、VF-211がF-14AからF/A-18Fへの移行を開始した2004年10月にVFA-211になったと書かれているが、飛行隊、航空団、そしてトムキャット・フリートの“型式指揮官
type commander”である米大西洋艦隊戦闘航空団(Fighter Wing, US Atlantic Fleet: FITWINGLANT)の誰も、部隊を正式に再指定することを仕事だとは考えていなかったようだ。実際、FITWINGLANT自体は2004年10月1日に活動を停止したが、そのための正式な書類が公布されたのは2005年1月27日のことであり、その時点ではまだ“FITRON
211”が残っていた。ペンタゴンの生命線であるペーパーワークの欠如は、2012年4月に発行されたOPNAVインストラクション5030-4G「海軍航空隊の系統と海軍航空司令部の記章
Navy Aviation Squadron Lineage and Naval Aviation Command Insignia」で認められ、その日付の実際のペーパーワークも上がっていないにもかかわらず、再指定の日付を2006年8月1日としている。さらに悪いことに、脚注にある二重の誤植が、VF-211ではなくVF-213に関する見落としを二回言及しており、この誤りは海軍歴史遺産司令部
Naval History & Heritage Commandが出版した 「United States Naval Aviation 1910-2010」の最新版にも重複して記載されている。この見落とし、訂正の失敗、そして永続する誤りの結果、“ファイティング・チェックメイツ”は今日に至るまで、技術的にはアメリカ海軍の最後にして唯一の戦闘機飛行隊であると主張することができる。昨年、この調査のおかげで、飛行隊はVF-211のワッペンを注文した THE AVIATION GEEK CLUBより |
2006 |
2006年、VFA-211は“イラクの自由作戦 Operations Iraqi Freedom”と“不朽の自由作戦”を支援するために派遣された。2006年9月8日、VFA-211
F/A-18Fはカンダハル Kandahar近郊のタリバンの標的に対してGBU-12とGBU-38爆弾を使用した。同飛行隊は2006年11月18日、数百回の戦闘出撃と数十発の精密誘導兵器を地上部隊の支援に使用したのち、オシアナ海軍航空基地へ帰還した |
2008初め |
同飛行隊はAN/APG-79 AESAレーダーを装備したブロックIIスーパー・ホーネットに移行した |
2011/1 |
VFA-211はエンタープライズに搭載されたCVW-1に合流し、第5艦隊 5th Fleetの責任領域 area of responsibilityで“不朽の自由作戦”を支援するために展開した |
2012/12 |
エンタープライズは運用を終了し、VFA-211は引き続きCVW-1に配属された |
2020/7 |
2020年7月、VFA-211はF/A-18FからF/A-18Eに移行する最初の戦闘攻撃飛行隊となった |
2021/12 |
2021年12月から2022年9月まで、VFA-211は第1空母航空団、第8空母打撃群(Carrier Strike Group 8: CSG-8)の一員として原子力汎用航空母艦ジョン C. ステニス Harry S. Truman(CVN-75)に配備された。 この配備中、VFA-211はアドリア海 Adriatic、イオニア海 Ionian、エーゲ海 Aegean Seasでの航空警備任務を通じてNATOの利益を支援した |
2022/7/8 |
同飛行隊のF/A-18Eの1機は、予期せぬ悪天候の中、地中海に吹き飛ばされ、海中で行方不明となった。同機は後に回収され、米国に輸送するため、軍事海上輸送軍団
Military Sealift Commandの船に積み込まれた |
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VFA-211は第11空母航空団(Carrier Air Wing 11: CVW-11)の一部であり、現在は原子力汎用航空母艦セオドア・ルーズヴェルト Theodore Roosevelt(CVN-71)に所属している |