日付 |
主な出来事 |
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創設以来、飛行隊は23の異なるタイプの航空機を操縦し、その名称は14回変更され、20の異なる空母(および数隻の戦艦)から運用され、91名の指揮官がいた(現在は92名目が指揮官)。
初期には哨戒や観測、空母での作戦に関わるようになってからは偵察、攻撃、戦闘機、爆撃、前方航空管制など、長年にわたってさまざまな任務を与えられてきた。飛行隊はクラシックなトップ・ハットを飛行隊のパッチとして採用し、自分たちを“ハイ・ハット
High Hats”と呼んだ |
1926 |
同飛行隊は1926年、海軍初の航空母艦ラングリー Langley(CV-1)で空母運用を開始。当時は第1戦闘機飛行隊(Fighter Plane Squadron 1: VF-1)と呼ばれていた同飛行隊は、1日の空母着艦記録を樹立した。TS-1に搭乗し、飛行作戦終了までに127回のトラップを記録した |
1929 |
1929年、飛行隊は航空母艦サラトガ Saratoga(CV-3)に配属され、戦闘飛行隊(fighter squadron)として出発し、爆撃機飛行隊に移行した。1930年代を通して、FB-5、F2B、F4B、F11C、SBC、SB2U-1を飛行させた。1939年、ヴィンディケーターを飛ばしていた時、飛行隊は大西洋艦隊と航空母艦レンジャー Ranger(CV-4)に編入された |
1942 |
レンジャーにいた1942年11月、飛行隊は連合軍の北アフリカ侵攻を航空支援した。11月8日から11日までの4日間、パイロットは16機の敵機を撃破した。SBDに搭乗した飛行隊は、ノルウェーのドイツ軍に対する唯一のアメリカ海軍空爆である“リーダー作戦 Operation Leader”に参加した |
1944 |
1944年11月、飛行隊は太平洋艦隊 Pacific Fleetに転属し、航空母艦バンカー・ヒル Bunker Hill(CV-17)に所属しながらレイテ作戦に参加。航空母艦エセックス Essex(CV-9)に編入後、同飛行隊は1945年1月にフォルモサ Formosaの要塞を爆撃し、2月には硫黄島への攻撃を支援し、初の海軍空母による東京攻撃に参加し、1945年3月初旬には沖縄攻撃で太平洋の戦闘活動を完了した。終戦後、VB-4は1948年9月28日から1949年2月21日までのワールド・クルーズを含む4回のクルーズを航空母艦タラワ Tarawa(CV-40)で行い、そののち飛行隊はアメリカ東海岸を拠点とした。1946年11月15日、VB-4は第1A攻撃飛行隊(Attack Squadron 1A: VA-1A)となり、1948年8月、飛行隊は再び第14攻撃飛行隊(Attack Squadron 14: VA-14)と改称され、SB2C-5からF4U-4に移行した。1949年12月、VA-14は第14戦闘飛行隊(Fighter Squadron 14: VF-14)に改称された。 |
1951 |
1951年と1952年、VF-14は近代化された航空母艦ワスプ Wasp(CV-18)に搭載され、F4Uコルセアに搭乗して地中海に2度派遣された。1953年には、攻撃航空母艦フランクリン D. ルーズヴェルト Franklin D. Roosevelt(CVA-42)で、第201航空任務群(Air Task Group 201: ATG-201)(VF-11、VA-12、VF-13、VA-15を含む)とともに、再び地中海クルーズに参加した。1954年、VF-14はF3D-2に移行して全天候型迎撃機の役割を担うが、1954年後半に攻撃航空母艦イントレピッド Intrepid(CVA-11)に3ヶ月間配備されただけだった。F3Dが空母運用に適さないことが判明したため、飛行隊は1955年にF3H-2Nに移行した。VF-14は1957年に攻撃航空母艦フォレスタル Forrestal(CVA-59)に2度配備された。そののち、飛行隊はF3H-2を再装備した。VF-14とその母体である第1空母航空群(Carrier Air Group 1: CVG-1)はフランクリン D. ルーズヴェルトに再配置され、1969年まで地中海に8回派遣された |
1963 |
1963年5月、飛行隊はF-4Bに移行し、1964年1月23日、フランクリン D. ルーズヴェルト艦上で運用された最初のファントム飛行隊となった。1966年6月、同飛行隊はオシアナ海軍航空基地
NAS Oceanaへ移動後、南シナ海へ展開し、北ヴェトナムの軍事目標に対する空爆と支援任務を行った。この戦闘配備中、飛行隊は967回の戦闘出撃で1,688時間飛行し、従来の戦闘航空哨戒と戦闘機護衛任務に加えて、651,624ポンドの兵器を運搬した。フランクリン
D. ルーズヴェルトが近代化のためにノーフォーク海軍造船所 Norfolk Naval Shipyardに入ると、第1空母航空団(Carrier
Air Wing 1: CVW-1)とVF-14は1969年に攻撃航空母艦ジョン F. ケネディ John F. Kennedy(CVA-67)に再割り当てされ、1982年まで9回の配備を行った |
1974 |
1974年1月、4回の地中海派遣の後、飛行隊はミラマー海軍航空基地 NAS Miramarで海軍の最新戦闘機F-14Aに移行し、オシアナ海軍航空基地に到着した最初の2つのトムキャット飛行隊としてVF-32とチームを組んだ。1975年6月には、汎用航空母艦ジョン F. ケネディ John F. Kennedy(CV-67)のVF-32とともにF-14Aを配備した最初の大西洋飛行隊となった。1978年10月、同飛行隊は地中海に展開中、1カ月で977時間を飛行し、F-14の飛行時間記録を塗り替えた。1976年、VF-14は100発目のAIM-54フェニックス・ミサイルを、ジョン
F. ケネディから32マイル(51km)の射程距離で模擬巡航ミサイルに対して発射し、65マイル(105km)の射程距離でこれを仕留めた。同じ巡航中、VF-14は7月21日にソヴィエトのTu-95を迎撃した。VF-14はこの爆撃機を約45分間護衛し、その間にソヴィエトの爆撃機はジョン
F. ケネディ上空を2回通過した。 |
1980/8 |
1980年8月、飛行隊はジョン F. ケネディで地中海に派遣された。この派遣中、VF-14はシルヴァー・アンカー賞 Silver Anchor Awardと戦闘準備態勢のバトル“E”賞 Battle "E"
Awardを2年連続で受賞した。受賞に貢献した功績には、100%のキル・レシオを記録した3回のミサイル発射訓練、東海岸初のTCS設置、8年間で26,500時間の無事故飛行時間などがある |
1982/6 |
1982年6月、VF-14は汎用航空母艦インディペンデンス Independence(CV-62)に所属する第6空母航空団(Carrier Air Wing 6: CVW-6)に配置転換され、7月には艦隊戦闘機航空戦闘準備プログラム(Fleet Fighter Air Combat Readiness Program: FFARP)での成績が評価され、“最優秀戦闘飛行隊
Best Fighter Squadron”に選ばれた |
1983/10 |
1983年10月から11月初めにかけて、同飛行隊はアメリカ主導のグレナダ侵攻作戦を支援した。続いてVF-14は東の地中海に向かい、レバノン沖での有事作戦に参加した。1983年12月上旬、“トップハッターズ”はベイルートの多国籍軍に戦闘航空支援を提供するよう再び要請された |
1985/4 |
1985年4月1日、飛行隊はジョン F. ケネディに戻り、米国とカナダ各地への11回の派遣を含む、折り返し訓練スケジュールで残りの年を過ごした。再びジョン
F. ケネディに乗艦したVF-14は、今度は第3空母航空団(Carrier Air Wing 3: CVW-3)に配属された |
1986/4 |
1986年4月18日、飛行隊は再び地中海に向けて出発し、レバノン人質事件により派遣期間が延長された。米国に帰還後、同飛行隊は1987年度FFARP賞を受賞し、再び“最優秀戦闘飛行隊”と称された |
1989 |
1989年、VF-14はその完璧なミサイル発射記録が認められ、“グランド・スラム賞 Grand Slam award”を授与された。同飛行隊は1990年に入り、配備のためのワークアップを行ない、ポートランド、メイポート、ニュー・ヨーク、ボストンに寄港した。プエルト・リコ沖での演習では、同飛行隊はフランス海軍航空母艦Foch(R
99)のシュペル・エタンダールやF-8と対戦した |
1990/8 |
イラクのクウェート侵攻から8日後の1990年8月10日、飛行隊は“砂漠の盾作戦 Operation Desert Shield”に参加するため、ジョン
F. ケネディで紅海への緊急展開を命じられた。戦争までの数ヶ月間、飛行隊は戦闘空中哨戒(combat air patrol: CAP)と常時警戒任務に就いてイラク禁輸の執行を支援した。1991年1月17日の朝、同飛行隊は国連軍のイラク空襲に加わり、再び戦闘に参加した。VF-14とVF-32は、“砂漠の嵐
Desert Storm operating”の期間中、CVW-3の攻撃機と支援機のCAPと戦闘機護衛任務を遂行し、当初はイラク西部と中部で活動し、その後、紅海とペルシャ湾の他のトムキャット飛行隊とイラン国境近くのイラク東部で、前例のない7〜8時間に及ぶ長距離バリアCAP任務を遂行した。戦闘作戦終了後、ジョン
F. ケネディは紅海に短期間留まり、エジプト沖に寄港した後、8ヶ月の洋上任務を終えてオシアナ海軍航空基地に帰還した。1991年12月、VF-14はトムキャットの新しい空対地任務の訓練を開始した最初の飛行隊のひとつとなった。低空飛行訓練といくつかの打撃関連学校の後、飛行隊はネヴァダ州ファロン
Fallonでの航空団のワークアップで新しい技能を試した |
1992 |
1992年10月、飛行隊は再び地中海展開のため東に向かった。ロック・オブ・ジブラルタル Rock of Gibraltarを過ぎると、VF-14は旧ユーゴスラヴィアの国連政策を支援するため、アドリア海で制空権と偵察任務の飛行を開始した。この派遣期間中、飛行隊はエジプト、モロッコ、トルコとの演習にも参加し、旧ユーゴスラヴィア沖での作戦やイラクでの“プロヴァイド・コンフォート作戦
Operation Provide Comfort”の支援も続けた |
1995 |
1995年、同飛行隊はトムキャット空対地ロケット計画のテストベッドとなった。同飛行隊は空対空砲撃戦での優れた成績が評価され、“ファイター・フリング・バナー・ブラスター賞 Fighter Fling Banner Blaster
award”を受賞した。 1995年後半、海軍が空母航空団へのトムキャット飛行隊を2個から1個に減らし、TARPS対応飛行隊を保持し始めたため、同飛行隊はCVW-3から切り離された。非TARPS飛行隊であるVF-14は、当初はオシアナ海軍航空基地の第1戦闘航空団(Fighter
Wing 1)に一時配属される予定であった。その翌年、多くのトムキャット飛行隊にとって多くの不安があったが、海軍最古の飛行隊の系譜を引き継ごうとする草の根運動が功を奏し、飛行隊は消滅の危機から救われ、姉妹飛行隊VF-41とともにVF-84を失っていた第8空母航空団(Carrier Air Wing 8: CVW-8)に配属された |
1996/1 |
1996年1月、飛行隊は再びジョン F. ケネディに復帰。3月、飛行隊は原子力汎用航空母艦ジョン C. ステニス John C. Stennis(CVN-74)に配備された。6月、飛行隊はジョン F. ケネディでアイルランドとイギリスへの40日間のクルーズを行った。次いでVF-14は地中海などを訪問 |
1998/3 |
1998年3月、VF-14は原子力汎用航空母艦セオドア・ルーズヴェルト Theodore Roosevelt(CVN-71)に本拠地を移した |
1999 |
1999年、同飛行隊はNATOの“アライド・フォース作戦 Operation Allied Force”と“サザン・ウォッチ作戦 Operation
Southern Watch”に参加。VF-14は連合軍作戦を支援するため、さまざまな標的に395,000ポンド以上の兵器を投下し、レーザー誘導爆弾やレーザー誘導AGM-65マーヴェリック・ミサイルを含む、他の航空機から発射された190種類の兵器を標的に誘導し、AGM-65マーヴェリック・ミサイルを誘導しながら100%の成功率を記録した |
2001 |
2001年4月、VF-14は原子力汎用航空母艦エンタープライズ Enterprise(CVN-65)で最後のF-14巡航に乗り出し、“サザン・ウォッチ作戦”と“不朽の自由作戦 Operation Enduring Freedom”を支援した。空母が本国へ向かい、南アフリカへ向かう途中、9月11日の同時多発テロののち、彼らは北ペルシャ湾へ向かうよう命令を受けた。エンタープライズ/CVW-8は“不朽の自由作戦”中の夜間空母に選ばれていたため、10月8日まで行動を見ることはなかった。VF-14はCVW-8の初撃でカブール近郊のレーダー警戒施設を攻撃した。VF-14はF/A-18の一部、VF-14のF-14の一部、VAQ-141のEA-6Bで構成される予定だったが、ホーネットに使用できる燃料が不足していたため、F-14とEA-6Bだけで攻撃を続けた。11月にアメリカに戻った後、VF-14は173,324ポンドの兵器(174発のレーザー誘導爆弾)を投下し、VF-14は28発のAGM-65と23発のレーザー誘導爆弾もバディリース
buddy-lasedした。最後のF-14クルーズののち、VF-14とVF-41はリムーア海軍航空基地 NAS Lemooreへ移転し、第11空母航空団(Carrier
Air Wing 11: CVW-11)と原子力汎用航空母艦ニミッツ Nimitz(CVN-68)に乗り換えてF/A-18スーパー・ホーネットへの移行を開始した |
2003 |
両飛行隊はニミッツでイラク自由作戦(Operation Iraqi Freedom: OIF)に参加するために展開し、ペルシャ湾に到着する前の2003年3月下旬、第14戦闘攻撃飛行隊(Strike
Fighter Squadron 14: VFA-14)の2機のF/A-18EとVFA-41の2機のF/A-18Fが原子力汎用航空母艦エイブラハム・リンカーン Abraham Lincoln(CVN-72)に前方展開され、その航空団を増強した。スーパー・ホーネットは、第14空母航空団(Carrier Air Wing 14: CVW-14)の空中給油能力を高めるとともに、F/A-18F搭乗員で資格を有する前方航空管制官(Forward
Air Controllers, Airborne: FAC(A))を増強するために要請された。F/A-18の分隊はニミッツからエイブラハム・リンカーンまで2,700マイル(4,300km)の距離を飛行した。4月6日、ホーネットはニミッツに戻った。OIF期間中、VFA-14はレーザー誘導爆弾、JDAM爆弾、AGM-65ミサイルを使用し、バグダッド
Baghdad北部とティクリート Tikritへの長距離任務を数多く行った。2003年のOIFクルーズののち、VFA-14はファロン海軍航空基地
NAS Fallonで航空団訓練を実施し、2004年に原子力汎用航空母艦ロナルド・レーガン Ronald Reagan(CVN-76)とともに処女配備を行った。2004年のワークアップののち、彼らは2005年のクルーズのために展開し、OIFを支援し、2,100回以上の出撃と4,300時間以上の飛行時間を飛んだ |
2006 |
2006年、VFA-14はファロン海軍航空基地とスコットランドへの英空軍との共同訓練に派遣された。訓練はファロン海軍航空基地に3週間派遣されたストライク・ファイター・アドバンス・レディネス・プログラム(Strike
Fighter Advance Readiness Program: SFARP)で2006年まで続けられた。VFA-14とCVW-11は、10月初旬にサン・フランシスコで開催されたネイヴィー・フリート・ウィーク
Navy Fleet Weekに参加した。この期間中、2機のF/A-18Eがサン・フランシスコ49ersのフットボールの試合中にフライオーヴァーした。OIFとOEFを支援するために間近に迫ったGULF/WESTPAC展開とグアム近郊での“ヴァリアント・シールド演習
exercise Valiant Shield”に備え、訓練は2007年まで続けられた |
2008 |
2008年1月18日、CVW-11が1月24日にニミッツ艦上でのサージデプロイメント surge-deploymentのために太平洋にデプロイメントすることが発表された |
2009 |
2009年中、CVW-11とニミッツ空母打撃群 Nimitz Strike Groupは、2009年から2010年にかけての配備を想定し、南カリフォルニア沖で複合部隊訓練や統合任務部隊訓練など、いくつかの訓練を実施した。7月28日、CVW-11とニミッツ空母打撃群が7ヶ月間のデプロイメントに出発することが報告された |
2011 |
VFA-14とVFA-41は第9空母航空団(Carrier Air Wing 9: CVW-9)とジョン C. ステニスに航空団と空母を変更し、2011年7月27日にCVW-9はジョン
C. ステニス艦上に配備され、イラクとアフガニスタンでの活動、海賊対策、海上安全保障活動を支援した |
2020年代 |
VFA-14はカール・ヴィンソン空母打撃群 Carl Vinson Carrier Strike Groupと南シナ海での相互空母運用 dual
carrier operationsに参加したほか、2022年6月には合同演習“ヴァリアント・シールド”、2月には自衛隊 Japanese Self-Defense
Forceとの二国間演習“ノーブル・フュージョン Noble Fusion”、3月には“ジャングル・ウォーフェア Jungle Warfare”に参加し、最近では7月に行われた環太平洋合同演習(リムパック
Exercise Rim of the Pacific: RIMPAC)2022で26の参加国とともに訓練を行った |