VFA
戦闘攻撃飛行隊 Fighter Attack Squadron

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※ABは飛行場(Air Base)の略。MCAAFは海兵航空補助施設(Marine Corps Auxiliary Air Facility)の略。NAFは海軍航空施設(Naval Air Facility)の略。NASは海軍航空基地(Naval Air Station)の略。NAASは海軍航空補助基地(Naval Auxiliary Air Station)の略。NSは海軍基地(Naval Station)の略(ABC順)。Fighter Attack Squadronは1983年にStrike Fighter Squadronに改称された
※1950年9月1日に第41戦闘飛行隊(Fighter Squadron 41: VF-41)は設立された。2001年後半に第41戦闘攻撃飛行隊(Strike Fighter Squadron 41: VFA-41)に改編。VF-41と指定された4番目の米海軍飛行隊である。ニックネームはBlack Aces(1950年〜)、第9空母航空団 Carrier Air Wing 9に所属し、無線コールサインはファースト・イーグル Fast Eagleを使用している

↑Image courtesy of en.wikipedia.org.

所在地 駐留日
NAS Oceana 1950/9/1
NAS Lemoore
航空機の割り当て 初受領日
F2H-3 1953
F3H-2 1959
F-4B 1962/2
F-4J
F-4B 1973
F-4N 1974
F-14A 1976/4
F/A-18F 2001末
日付 主な出来事
1950/9/1 VF-41は1950年9月1日にオシアナ海軍航空基地 NAS Oceanaで設立され、VF-41と指定された4番目の米海軍飛行隊である
1953 。“ブラック・エイセス Black Aces”は1953年にF2H-3に乗り始め、攻撃航空母艦インディペンデンス Independence(CVA-62)で地中海と極東に配備される
1956/1 1956年1月24日、VF-41はキューバのグアンタナモ湾近海で攻撃航空母艦フォレスタル Forrestal(CVA-59)のシェイクダウン・クルーズにATG-181と共に乗船し、1956年3月31日にオシアナ海軍航空基地に戻った
1956/3 VF-41は再びATG-181に所属し、西太平洋への派遣に1956年10月3日に攻撃航空母艦ベニントン Bennington(CVA-20)に乗艦した。珊瑚海海戦(連合軍側呼称:コーラル・シー海戦 Battle of the Coral Sea)15周年を記念して、戦地での退役軍人によるセレモニーが行われた。1957年5月23日、ATG-181はオシアナ海軍航空基地に帰還した
1959 1959年、バンシーはF3H-2に取って代わられた
1962/2 1962年2月、VF-41はF-4Bに移行し、キューバ・ミサイル危機 Cuban Missile Crisisの際にフロリダ州のNASキー・ウェスト海軍航空基地 NAS Key Westに特別配備された
1965/5 1965年5月、同飛行隊は西太平洋に展開し、ヴェトナム戦争で7ヶ月間戦闘活動を行った。戦闘機の援護、偵察の護衛、対空砲火の制圧、昼夜を問わない阻止など、幅広い任務をこなした
その後5回の派遣(F-4J、B、Nを使用)はCVW-6のテイル・コードAEで攻撃航空母艦フランクリン D. ルーズヴェルト Franklin D. Roosevelt(CVA-42)に搭乗(1972年3月9日から1972年12月1日まで海軍功績部隊表彰 Navy Meritorious Unit Commendationを受ける)
1973 VF-41は1973年にF-4JからF-4Bに移行し、18機の飛行隊として第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争 Yom Kippur War)ではフランクリン D. ルーズヴェルトで“ニッケル・グラス作戦 Operation Nickel Grass”の護衛を行い、戦後の休戦維持に貢献する平和維持軍の一員となった
1974 1974年、VF-41はF-4BからF-4Nに移行し、1975年にフランクリン D. ルーズヴェルトのファントムで最後のクルーズを実施した。この年、VF-41はCOMNAVAIRLANT Safety "S "を授与され、1981年、1989年、1992年にも授与されることになる
1976/4 1976年4月、VF-41はF-14Aに移行し、1977年9月、原子力汎用航空母艦ニミッツ Nimitz(CVN-68)のCVW-8の一部として最初のクルーズを開始。1980年にも地中海をクルーズ
1980 1980年、ニミッツとVF-41は、ホーン一周クルーズ round-the-Horn cruiseに参加した。このクルーズ中、空母はイラン人質事件とそれに続くイランからの米国大使館人質救出未遂事件に対応する海上基地としての役割を果たした。VF-41(および他の戦闘群)は144日間連続で海上で過ごし、これは第二次大戦以降、飛行隊が休みなく海上で過ごした最長の期間であった
1981 1981年から1982年の地中海クルーズのためのワークアップ中に、スティーブン E. ホワイト海兵隊中尉 Marine Lieut. Steven E. Whiteが操縦するEA-6Bがニミッツのデッキに墜落。甲板に墜落したプラウラーは、燃料を積んだ6機のF-14に幅寄せし、燃料火災とAIM-7を含む兵器の爆発を引き起こした。この事故により、ニミッツには表面上の損傷しかなかったが、F-14を3機破壊、船員45名が負傷、14名の犠牲者(VF-41は隊員3名を失った)が出た
1981/8/19 1981年8月19日、地中海に展開中、シドラ湾上空の定期戦闘航空哨戒任務中 routine combat air patrol missionに、リビアのSu-222機が飛行隊機によって撃墜された。この事件は、ヴェトナム戦争以来の海軍の空戦対決であり、F-14Aにとっては史上初であった。可変翼型航空機が他の可変翼型航空機を撃墜したのも初めてであった。1981年はまた、同飛行隊が大西洋艦隊で最も効率的な飛行隊であることを示すCOMNAVAIRLANT Battle Efficiency "E "を獲得した最初の年でもあった。VF-41は1985年と1989年にもバトル "E " Battle "E"を受賞している
1982/11 1982年11月、同飛行隊はレバノンの多国籍軍を支援するため、レバノンのベイルート沖での長期展開に乗り出した
1985 1985年、VF-41はTWA847便ハイジャック事件に対応するため、レバノン沖で68日間を過ごした
1986 1986年のクルーズがニミッツとの最後のクルーズとなった。12月に始まり、ニミッツがサン・ディエゴの新居に着いた1987年6月に終了した。同年10月、CVW-8は原子力汎用航空母艦セオドア・ルーズヴェルト Theodore Roosevelt(CVN-71)とともに配備され、最初の巡航はノルウェー空軍との作戦に関わる“チームワーク'88演習 Exercise Teamwork '88”のための北大西洋で、最初の地中海展開は12月だった
1990/12/28 1990年12月28日、VF-41は“砂漠の盾作戦 Operation Desert Shield”を支援するためセオドア・ルーズヴェルトに乗船し、イラクとの敵対関係が始まってまもなくペルシャ湾に到着した。戦争が終わるまでに、同飛行隊は1,500時間以上の戦闘飛行時間を記録している。戦争終了後、同飛行隊は停戦を実施する軍の一部としてペルシャ湾と紅海に留まり、1991年4月下旬には、“プロヴァイド・コンフォート作戦 Operation Provide Comfort”でイラク北部のクルド人難民を支援する地上部隊を航空支援する任務に就いた
VF-41は、F-14の新たな役割である空対地爆撃のための訓練をすぐに開始した。1991年末、VF-41は11年間で46,500時間以上、無事故で飛行していた
1995 1995年、VF-84は閉隊し、VF-41はTARPSの任務を引き継ぐことになった。VF-84の閉隊は、TARPSが可能な部隊が、TARPSが不可能な部隊に代わって閉隊した唯一の機会であった
1995 1995年初め、VF-41は地中海、紅海、アラビア海、ペルシャ湾、アドリア海に6ヶ月間派遣された。この巡航中、VF-41はボスニア・ヘルツェゴヴィナでの“デリバリート・フォース作戦 Operation Deliberate Force”と“デナイ・フライト作戦 Operation Deny Flight”、イラクでの“サザン・ウォッチ作戦 Operation Southern Watch”を支援する戦闘作戦を実施した。1995年9月5日、2機のVF-41 F-14Aは、“デリバリート・フォース作戦”において、戦闘で初めてレーザー誘導爆弾を投下した。標的はボスニア東部の弾薬庫であった。爆弾はF/A-18によって誘導された。VF-41は“First To Fight, First To Strike”というスローガンを掲げ、F-14飛行隊として初めて空対空キルを達成し、戦闘で爆弾を投下したことを評価された。この派遣期間中、VF-41は600時間以上の戦闘時間と530回の出撃を記録し、バルカン半島での1週間の戦闘(1995年9月5日から12日)において、VF-41はボスニア・セルビアの標的に24,000ポンドの弾薬(その大部分はF/A-18による精密誘導爆弾のレーザー指定)を投下した
1996 1996年、VF-14はCVW-8のVF-41と合流したため、CVW-8はアメリカ海軍で1つではなく2つのF-14飛行隊を持つ数少ない航空団の1つとなった。CVW-8は1996年2月、合同艦隊演習のため原子力汎用航空母艦ジョン C. ステニス John C. Stennis(CVN-74)に配備された。その後、汎用航空母艦ジョン F. ケネディ John F. Kennedy(CV-67)に乗艦し、アイルランドのダブリンとイギリスのポーツマスに寄港し、北大西洋に展開した
1997 1997年4月、CVW-8はジョン F. ケネディに乗艦し、地中海/ペルシャ湾に派遣された。この間、CVW-8は“インフィニット・アクレイム Infinite Acclaim”、“ビーコン・フラッシュ Beacon Flash”、“インヴィテックス Invitex”など、数多くの演習や分遣隊に参加した。インヴィテックスでは、航空団は350回以上の出撃を行い、そのうちの203回は1日の“サージ作戦 surge operations(surgeとは急激増派の意)”で行われた。また、“デリバリート・ガード作戦 Operation Deliberate Guard”を支援するボスニア・ヘルツェゴヴィナ上空での作戦や、“サザン・ウォッチ作戦”を支援するイラク上空での作戦も実施された
1999 1999年、セオドア・ルーズヴェルトは地中海に出発し、“アライド・フォース作戦 Operation Allied Force”のためにNATO軍に合流した。VF-41の最初の攻撃は、4月6日にコソヴォのプリシュティナ Pristinaにある弾薬貯蔵施設に対するものだった。7月、セオドア・ルーズヴェルトは“サザン・ウォッチ作戦”を支援するためペルシャ湾に派遣され、VF-41は一度の派遣で2つの戦域で兵器を消費した最初の飛行隊となった。VF-41は384回の出撃で1,100時間以上の戦闘時間を記録し、前例のない85%の成功率で160t以上のレーザー誘導弾を投下し、連合軍と“サザン・ウォッチ作戦”を支援した
1999 同飛行隊は1999年、アメリカ海軍で最も優秀な攻撃飛行隊としてウェイド・マクラスキー賞 Wade McClusky Awardを受賞した。これは、それまでA-6とF/A-18の部隊にしか与えられなかった賞を、F-14飛行隊が初めて受賞したことになる
2001 2001年4月、VF-41は原子力汎用航空母艦エンタープライズ Enterprise(CVN-65)で最後のF-14クルーズに乗り出し、“サザン・ウォッチ作戦”と“不朽の自由作戦 Operation Enduring Freedom: OEF”を支援した。空母が帰路につく中、9月11日の同時多発テロの後、オマーン湾に向かうよう命令が下された。戦争への準備期間中、VF-41はパキスタン/アフガニスタン国境付近でいくつかのTARPSミッションを実施した
2001 エンタープライズとその航空団はOEFの間、夜間空母であったため、VF-41がいくつかの洞窟群を攻撃した10月8日まで行動を見ることはなかった。最初の標的の1つは、タリバンが航空機、レーダー、車両を保管していたアフガニスタン西部のシンダンド空軍基地 Shindand airbaseであった。11月の展開終了までに、VF-41は200,000ポンド以上の兵器(202発のレーザー誘導爆弾)を投下した
2001後半 2001年末の帰還後まもなく、VF-41はF/A-18Fに移行し、VFA-41と改名された
2002/10/18 2002年10月18日、カリフォルニア沖で2機のF/A-18Fが空中衝突し、VFA-41の4名のエヴィエイターが死亡した
2003/3 イラク自由作戦では、2003年3月下旬に2機のF/A-18Fが原子力汎用航空母艦エイブラハム・リンカーン Abraham Lincoln(CVN-72)に前方配備された。これらのF/A-18は、CVW-14の空中給油能力を高めるため、また、有資格のフォワード・エア・コントローラー Forward Air Controllersを追加で提供するために要請された。F/A-18はニミッツからエイブラハム・リンカーンまで、2,700マイルの距離を飛行した。4月6日、ホーネットはニミッツに帰還した。戦争中、VFA-41はレーザー誘導爆弾、JDAM、AGM-65を使用した
2005/5 2005年5月、VFA-41は“イラクの自由作戦 Operation Iraqi Freedom”を支援するため、再びペルシャ湾に派遣された。この派遣期間中、飛行隊はPBSのドキュメンタリー番組「Carrier」に取り上げられ、デイヴィッド・フレーヴァー隊長 Commander David Fravorに大きな注目が集まった
2007 2007年、VFA-41はニミッツでWESTPACクルーズに参加し、グアム近海での合同演習である“ヴァリアント・シールド作戦 Operation Valiant Shield”に参加
2008 2008年1月、同飛行隊は太平洋のニミッツに急増配備された。2008年2月13日、ロシアのTu-95爆撃機数機が太平洋上で、急増配備中のニミッツのF/A-18によって迎撃されたと報告された。1機のTu-95はVFA-41のホーネットに護衛され、2,000フィート(610m)上空で空母の真上を飛行した。海軍作戦本部長のゲーリー・ルグヘッド大将 The Chief of Naval Operations, Adm. Gary Rougheadは、この事件を“良性”と呼び、次のように述べた“彼らは見に来たのだ。我々は合流して(そして)彼らが帰るまで一緒に飛んだ”と述べている。2機は空母打撃群の東約500マイルに留まり、1機のTu-95がニミッツ空母群の上空を2回低空通過したため、もう1機は約50マイル離れたところを周回していた。米国に戻った後、VFA-41はロット26のF/A-18FをAESAレーダー技術を搭載したロット30のF/A-18Fと交換するようになった
2009 2009年、CVW-11とニミッツ空母打撃群 Nimitz Strike Groupは、2009年から2010年にかけての配備を想定し、南カリフォルニア沖で複合部隊訓練 composite unit trainingや統合任務部隊訓練 joint task force trainingなど、いくつかの訓練を実施した。7月28日、CVW-11とニミッツ空母打撃群が8ヶ月間の派遣に出発することが報告された
2020 2020年代には、同飛行隊はエイブラハム・リンカーンの第9空母航空団(Carrier Air Wing 9: CVW-9)に所属していた

↑An F/A-18F Super Hornet of VFA-41 moves onto a catapult to launch while the ship completes sustainment exercises in southern Californian waters, 6 July 2012. Another jet approaches to land and two more circle during the busy flight operations. (Mass Communication Specialist Seaman Nolan Kahn, U.S. Navy Photograph 120706-N-NK714-210, Navy NewsStand. Image courtesy of Naval History and Heritage Command.


Update 24/12/10