VMF
海兵戦闘飛行隊 Marine Fighter Squadron

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※MCAAFは海兵航空補助施設(Marine Corps Auxiliary Air Facility)の略。MCASは海兵航空基地(Marine Corps Air Station)の略。NASは海軍航空基地(Naval Air Station)の略。NAASは海軍航空補助基地(Naval Auxiliary Air Station)の略。NSは海軍基地(Naval Station)の略(ABC順)
※1942年7月1日に第214海兵戦闘飛行隊(Marine Fighting Squadron 214: VMF-214)として活動を開始。1956年12月31日に第214海兵戦闘飛行隊(全天候、Marine Fighter Squadron (All Weather) 214: VMF(AW)-214)に改編。1957年7月9日に第214海兵攻撃飛行隊(Marine Attack Squadron 121: VMA-214)に改編。2022年3月25日に第214海兵戦闘攻撃飛行隊(Marine Fighter Attack Squadron 214: VMFA-214)に改編。ニックネームはSwashbucklers(1942年〜1943年)、Black Sheep(1943年〜)
所在地 駐留日
MCAS Ewa 1942/7/1
MCAS Santa Barbara 1944/1/29
MCAS El Centro 1945/4
MCAS El Toro 1945/10
MCAS Iwakuni 1965/5
MCAS El Toro 1967/4
MCAS Yuma 1987/9
航空機の割り当て 初受領日
F4F-3 1942/7
F4U-1/A 1943/6/19
F4U-1D 1945
F4U-4/4B
F9F 1953
F2H-4 1953春
FJ-4 1958/1
FJ-4B 1958/5
A4D-2/A-4B 1962/1/23
A-4C 1964/3
A-4L 1967/1
A-4E 1970/3
A-4F 1970/12
A-4M 1972/9
F-35B 2022
A4D-2の呼称は1962年にA-4Bに変更された
日付 主な出来事
第214海兵戦闘攻撃飛行隊(Marine Fighter Attack Squadron 214: VMFA-214)はアメリカ海兵隊の攻撃飛行隊で、ロッキード・マーチン社のF-35Bと、それ以前はAV-8Bで構成されている。同飛行隊はアリゾナ州のユマ海兵航空基地 MCAS Yumaを拠点とし、第13海兵航空群(Marine Aircraft Group 13: MAG-13)および第3海兵航空団(3rd Marine Aircraft Wing: 3MAW)の指揮下にある。飛行隊は“黒い羊 Black Sheep”として知られている。その第二次大戦での活躍と指揮官グレゴリー“パピー”ボイントン大佐 Colonel Gregory "Pappy" Boyingtonの回想録は、1970年代のTV番組「Baa Baa Black Sheep」に影響を与え、のちに“Black Sheep Squadron”としてシンジケートされた
1942/7 部隊は1942年7月1日、ハワイ・オアフ島のエワ海兵航空基地 MCAS Ewaで第214海兵戦闘飛行隊(Marine Fighter Squadron 214: VMF-214)として就役。当初は“スワッシュバックラーズ Swashbucklers”と呼ばれていた飛行隊は、8月にニュー・ヘブリディーズ諸島 New Hebridesのエスピリトゥ・サント Espiritu Santoにあるタートル・ベイ飛行場 Turtle Bay Airfieldに移った。そこでグレゴリー“パピー”ボイントン少佐(名誉勲章 Medal of Honor、海軍十字章, Navy Cross)が、VMF-214のオリジナル“ブラック・シープ”となった27名のパイロットを指揮した。エスピリトゥ・サントから飛行隊はソロモン諸島 Solomon Islandsのガダルカナル Guadalcanalとヘンダーソン飛行場 Henderson Airfieldに前進した。ガダルカナルからはムンダ Mundaとヴェラ・ラヴェラ Vella Lavellaに移動した
ボイントン少佐は、通称“フライング・タイガース Flying Tigers”と呼ばれる第1アメリカ義勇群 1st American Volunteer Groupの一員として1年間の中国遠征から戻ったばかりで、そこで複数の日本軍機を撃墜した功績があった。ボイントンは公式には中国での6機の撃墜と、“ブラック・シープ”での22機の撃墜、合計28機の撃墜と記録されている。飛行隊は当初、航空機や補助要員を割り当てられず、満足のいく状態でなかった借用機でガダルカナルやのちのラッセル諸島 Russell Islandsへ飛行した
1943/9 1943年9月13日の夜、VMF-214の隊員たちは指揮官の小屋に集まった。当初、飛行隊は新司令官の名前にちなんで “ボイントンズ・バスターズ Boyington's Bastards(ボイントンのろくでなしども)”と名乗っていたが、パイロットが全員“孤児”で飛行隊に所属していなかったこと、信頼できる飛行機がほとんどなく整備士もいなかったことから、“Boyington's Bastards”と改名した。翌日、この新しいレッテルは当時この島にいた海兵隊の広報担当官、ジャック・デチャント大尉 Captain Jack DeChantに提示されたが、民間の新聞は決して印刷しないだろうから受け入れられないと判断された。デチャントは次に、この表現が本質的に同じことを意味するので、コールサインを“ブラック・シープ Black Sheep”とすることを提案した。パイロットは、空対空で数回の勝利を収めた経験豊富なベテランから、米国からの新しい交代パイロットまで様々であった。ボイントン少佐とスタン・ベイリー少佐 Major Stan Baileyは、未配属のパイロットを4週間以内に完全に訓練して戦闘態勢を整えるという理解のもと、飛行隊を編成する許可を与えられた。彼らは“ボイントンズ・バスターズ”という呼称をやめたが、飛行隊はその盾を横切る私生児の黒いバーをまだ残している。彼らはそのバッジに私生児の黒い盾、不吉なバー、黒い羊を重ね合わせ、12の星の円に囲まれ、彼らの航空機であるF4Uのイメージの冠を選んだ。黒い羊飛行隊は84日間戦った。彼らは自国の野原と領土の上で日本軍に立ち向かい、203機の破壊または損害の記録を積み上げ、9名の戦闘機エースを輩出し、97機の空対空キルが確認され、数隻の兵員輸送船と補給船を撃沈し、多くの施設を破壊し、その他多数の勝利を収めた。初代“ブラック・シープ”は、行動中の並外れた英雄的行為に対して大統領部隊賞 Presidential Unit Citationを授与された。最初の戦闘任務の後、飛行隊の26名のパイロットはムンダの飛行場を離れ、オーストラリアのシドニーで1週間の休養をとり、オーストラリア・ホテルに身を寄せた
1944/1 “ブラック・シープ”は、ボイントン少佐が撃墜され、日本軍に捕虜となった5日後の1944年1月8日に、2回目の戦闘任務を終えた。オリジナルの“ブラック・シープ”は解散し、パイロットは第11海兵航空群(MAG-11)のパイロット・プール pilot poolに入れられた。この部隊の活躍は、ロバート・コンラッド Robert Conradがボイントン役を演じた1970年代のTVシリーズ「Baa Baa Black Sheep」(のちに「Black Sheep Squadron」と改名)で、ゆるやかにフィクション化された
1944 VMF-214は1944年1月29日、カリフォルニア州ゴレタ Goleta近郊のサンタ・バーバラ海兵隊航空基地 MCAS Santa Barbaraで再編成された
1945/2 1945年2月4日、沖縄での作戦に参加するため、航空母艦フランクリン Franklin(CV-13)に配備された。3月19日、日本軍の爆撃機がフランクリンを直撃。この爆発と火災により、32名の“ブラック・シープ”隊員を含む772名が死亡した。当時、多くの“ブラック・シープ”機が日本本土攻撃のために発進していた。ケン・リンダー中尉 First Lieutenants Ken Linderとロバート“ボブ”マクドネル中尉 First Lieutenants Robert "Bob" McDonnellは、フランクリンを襲った日本軍爆撃機を撃墜した功績を認められた。これでVMF-214の第二次大戦への関与は終わった。戦争中、飛行隊は23名のパイロットが戦死または行方不明となり、事故や敵との接触で48機を失った
1945/4 1945年4月、ブラックシープはカリフォルニア州エル・セントロ海兵航空基地 MCAS El Centroに移駐し、1945年10月にはカリフォルニア州エル・トロ海兵航空基地 MCAS El Toroに移駐した。そののち数年間、“ブラック・シープ”は護衛航空母艦レンドヴァ Rendova(CVE-114)バイロコ Bairoko(CVE-115)バドエン・ストレイト Bairoko(CVE-116)航空母艦ボクサー Boxer(CV-21)に乗艦して作戦に参加した。
1950/8 朝鮮戦争が勃発したとき、VMF-214は海軍兵学校の海軍兵学校生徒を迎えてバドエン・ストレイトでハワイに向かう途中だった。飛行隊の指揮官であるロバート P. ケラー少佐 Major Robert P. Kellerはハワイの司令部に呼び出され、当時のヴィクター・クルーラック大佐 Colonel Victor Krulakと面会した。クルーラックは「少佐、戦争に行く準備はできているか?」と単刀直入に尋ねた。1950年8月3日、8機のF4U-4Bを飛ばしたVMF-214は、護衛航空母艦シシリー Sicily(CVE-118)から発進し、インチョン Inchon近郊の敵施設に対する空襲を実行したとき、韓国で行動を見た最初の海兵飛行隊となった。F4Uが焼夷弾とロケット弾を投下した後、彼らは一連の空爆で追撃した。バドエン・ストレイトとボクサーから飛来した“ブラック・シープ”は、韓国で2回の戦闘ツアーを完了した。彼らは、インチョン上陸作戦や国連の朝鮮総督府 Chosin Reservoirからの敗北と撤退を含む重要な戦闘に参加した。これらの戦闘やその他の戦闘で、ほぼ継続的に航空援護を行い、補給線や通信線を妨害し、多数の地上要塞や敵の装甲に大きな損害を与えた
朝鮮戦争が終結する直前、VMF-214は海兵隊エル・トロ基地に戻った。ここで彼らはコルセアをF9Fパンサーに交換し、別の訓練プログラムを開始した。1953年春、“ブラック・シープ”はF9Fを新しいF2H-4に交換し、ハワイ諸島に向かった。到着後、彼らは第13海兵航空群および第1海兵旅団(1st Marine Brigade)の一員となった
1956/1 1956年1月、“ブラック・シープ”は再び“準備せよ”という命令を受けた。今回は、それほど厳しい状況ではなかった。そののち15ヶ月間、“ブラック・シープ”は海兵航空隊のあらゆる側面をカヴァーした。1956年12月31日、同飛行隊はバンシィを駆る第214海兵戦闘飛行隊(全天候、Marine Fighter Squadron (All Weather) 214: VMF(AW)-214)に改称された。この飛行隊は計器飛行、爆撃、ロケット弾、空爆、空対空砲術、野戦空母の着艦訓練、高高度および低高度での特殊兵器の投下、空母の資格取得などを行った。VMF(AW)-214は1957年2月、特殊兵器輸送の資格を得た最初の海兵隊飛行隊となった
韓国とヴェトナムの間の期間、“ブラック・シープ”にはいくつかの変化があった。VMFは1957年7月9日にVMAに変更され、飛行隊は“戦闘”ではなく“攻撃”に指定された。1958年3月、“ブラック・シープ”はFJ-4に移行した。VMA-214とVMF-212は、太平洋を横断して配備された最初の飛行隊となった。1959年1月、“ブラック・シープ”はより新しいFJ-4Bに変わった。FJ-4Bで、飛行隊は攻撃飛行隊として27,000時間以上を記録した。この中には20,000時間を超える無事故飛行時間も含まれていた。“ブラック・シープ”は1961年8月29日、海兵攻撃飛行隊の中で“最も優れた安全記録 most outstanding safety record”を残した飛行隊としてCMC安全賞 CMC safety awardを受賞した
1962 1962年1月23日、ブラック・シープはFJ-4BからA-4Bに交代した。これにより、“ブラック・シープ”とスカイホークの後続ヴァージョンとの27年にわたる関係が始まった。1963年秋、VMA-214は海兵隊最初の飛行隊に選ばれ、対潜航空母艦ホーネット Hornet(CVS)のウェストパック・クルーズに“N”分遣隊 detachment ("N")を派遣した。この分遣隊は、日本海の対潜海軍任務部隊 anti-submarine naval task forceに向かって飛んでくるソヴィエトのTu-95Tu-16を迎撃する任務に就いた。1964年4月、カネオヘ・ベイ海兵航空基地 MCAS Kaneohe Bayに帰投
1965/5 1965年5月、“ブラック・シープ”は太平洋艦隊海兵部隊 Fleet Marine Force, Pacific、第1海兵航空団(1st Marine Aircraft Wing: 1st MAW)、第12海兵航空群(Marine Aircraft Group 12: MAG-12)に配置転換され、日本の岩国海兵航空基地 MCAS Iwakuniに移動した。1965年6月21日、“ブラック・シープ”第1隊 first Black Sheep divisionはヴェトナム共和国のチュー・ライ Chu Laiに飛来し、4,000フィート(1,219m)のSATS滑走路に着陸した。当初8,000フィート(2,438m)あった滑走路のうち4,000フィート(1,219m)は、モンスーンの季節に“滑走路が浮いている floating runway”という問題を解決するために撤去された。A-4はMORESTで着陸し、陸上カタパルトで発進した。C-130はJATOアシストで発進した。海軍海兵隊は滑走路の出発端に4,000フィートのアルミ滑走路板を積み上げていた。海兵隊将兵の一名と彼の“ツバを光らせた spit shined”C-130は、管制塔からの指示に反して、出発前に滑走路をフル・ランナップ full run-upすることに決めた。海兵隊員たちは重機の後ろに身を縮め、板が頭上を通過するのを待った。 “ブラック・シープ”は1966年2月、新しいパイロットと隊員を迎え入れるため、ヴェトナムをローテーションで離れた。1966年4月、黒い羊は再びチュー・ライに配備され、ヴェトナム共和国を支援するために戦闘任務を遂行した。“ブラック・シープ”飛行隊は14,000時間の戦闘時間、13,000回の出撃、10,000t以上の兵器を投下し、青銅星章付きの海軍部隊表彰 Navy Unit Commendation with Bronze Starを受けた。
1967/4 VMA-214は1967年4月にヴェトナムから帰還し、エル・トロに移動し、太平洋艦隊海兵隊(Fleet Marine Force, Pacific)、第3海兵航空団(3rd Marine Aircraft Wing: 3rd MAW)、第33海兵航空群(Marine Aircraft Group 33: MAG-33)に再配属された。エルトロに到着後、この部隊は攻撃パイロットの作戦訓練飛行隊として認識されるようになり、その多くはヴェトナム行きの交代パイロットであった。1970年12月、“ブラック・シープ”は第13海兵航空群(Marine Aircraft Group 13: MAG-13)に再編成された。
1970 1970年代後半から1980年代にかけて、同飛行隊は部隊配備プログラムに参加し、日本の岩国海兵航空基地にある第12海兵航空群とカリフォルニア州エル・トロ海兵航空基地にある第13海兵航空群の間をローテーションした
1982/10 1982年10月、“ブラック・シープ”は年間最優秀攻撃飛行隊としてローソン H. M. サンダーソン賞を受賞 Lawson H. M. Sanderson Award
1987 1987年9月、“ブラック・シープ”飛行隊はアリゾナ州ユマ海兵航空基地 MCAS Yumaに移転。1987年10月17日、“ブラック・シープ”はサンダーソン賞 Sanderson awardを2度受賞した最初の飛行隊となった。1989年、“ブラック・シープ”は3万時間の無事故飛行と6年間の無事故飛行を達成。1989年6月、“ブラック・シープ”はAV-8B(NA)ナイト・アタック・ハリアーII Night Attack Harrier IIの最初の運用飛行隊として、単座固定翼の“夜間攻撃 night attack”機を海兵隊に導入した
1991 VMA-214は1991年10月、20機のナイト・アタック・ハリアーを日本の岩国に7ヶ月間派遣し、夜間攻撃能力を部隊派遣プログラムに導入した最初の飛行隊となった。パイオニアとしての伝統を引き継ぎ、1993年7月、黒い羊はカリフォルニア州トゥエンティナイン・パームス Twenty-Nine Palmsの海兵隊航空地上戦闘センター Marine Corps Air Ground Combat Centerへ“夜間システム Night Systems”専用配備を行った。結局、3週間にわたって夜通し、夜明け前まで出撃が行われた。夜間飛行とそれがパイロットのパフォーマンスに及ぼす影響について、医学的データが収集された
1993 1993年12月から1994年7月まで、VMA-214の海兵隊員は強襲揚陸艦(汎用)ペリリュー Peleliu(LHA-5)に乗船し、ソマリア沖の“レストア・ホープ作戦 Operation Restore Hope”と“クイック・ドロー作戦 Operation Quick Draw”に参加した。またこの派遣期間中、VMA-214分遣隊B Det. Bはブルンジとルワンダで“ディスタント・ランナー作戦 Operation Distant Runner”に参加した。1994年10月、第13海兵遠征ユニット(13th Marine Expeditionary Unit: 13MEU)を支援するため、VMA-214の分遣隊が強襲揚陸艦(多目的)エセックス Essex(LHD-2)に乗艦。派遣中、分遣隊は南西アジアでの“サザン・ウォッチ作戦 Operation Southern Watch”とソマリア沖での“ユナイテッド・シールド作戦 Operation United Shield”を支援した
1996 1996年4月、VMA-214は13th MEUを支援するため、再び強襲揚陸艦(多目的)タラワ Tarawa(LHD-1)に分遣隊を派遣した。分遣隊はクウェート沖の“サザン・ウォッチ作戦”とイラク北部の“デザート・ストライク作戦 Operation Desert Strike”を支援した
1997 1997年8月、“ブラック・シープ”はローソン H. M. サンダーソン賞の年間最優秀攻撃飛行隊として3度目の表彰を受けた
1998 1998年と1999年、“ブラック・シープ”飛行隊は、“デザート・フォックス作戦 Operation Desert Fox”に参加するため、強襲揚陸艦(多目的)ボクサー Boxer(LHD-4)で直接ペルシャ湾北部に向かう準備をし、配備された。ハリアーのコミュニティが、共有デッキでのヘリコプターとの共同作業を含む艦上活動で暗視装置を初めて運用的に使用したのは、この展開のときであった
海兵隊がハリアーを着陸させたのち、“ブラック・シープ”は飛行隊を分割し、2つの別々の海兵隊遠征部隊を支援するために同時に展開した。飛行隊(-) Squadron (-)は日本の岩国海兵隊航空基地に配備され、ブラヴォー分遣隊 Detachment Bravoはタラワの第13海兵遠征ユニットを支援するために出撃した。この派遣期間中、VMA-214の海兵隊員は東ティモールとインドネシアでの人道支援活動に参加した。その1カ月後、ブラヴォー分遣隊は第13海兵遠征ユニット(SOC) 13th MEU(SOC)とともにイエメン沖で、ミサイル駆逐艦コール Cole(DDG-67)奪還作戦(Operation Determined Response)に参加した。この作戦中、“ブラック・シープ”海兵隊員は同地域で訓練を受け、常時固定翼を配備して安定化に貢献した。VMA-214は“イラクの自由作戦 Operation Iraqi Freedom”を支援するために2度派遣された。最初は2003年のイラク侵攻のためで、2004年2月から8月にかけてはアル・アサド Al Asadを拠点に活動した。2009年11月にユマ海兵航空基地に帰還し、6ヶ月の派遣期間中に約3,000時間の飛行を行った。派遣期間中、彼らは第40海兵航空機群(Marine Aircraft Group 40: MAG-40)の一部としてカンダハル国際空港 Kandahar International Airportを拠点とし、近接航空支援と空中偵察を行った。彼らは2009年2月中旬にオバマ大統領が発表した17,000名の兵力増加の一部であった
2009/5 2009年5月、VMA-214の分遣隊は、“不朽の自由作戦 Operation Enduring Freedom”と第13海兵遠征ユニットとの第151統合任務部隊(Combined Task Force 151: CTF-151)を支援するために派遣された。その結果、“ブラック・シープ”は2010年の年間最優秀攻撃飛行隊として、ローソン H. M. サンダーソン賞で4度目の表彰を受けた
2022/3 2022年3月25日、飛行隊はF-35Bの飛行に切り替えたため、第214海兵戦闘攻撃飛行隊(Marine Fighter Attack Squadron 214: VMFA-214)に再指定された
VMA-214のこれらの海兵隊員は、空中戦で5機以上の敵機を撃墜した飛行エースである
グレゴリー“パピー”ボイントン Gregory "Pappy" Boyington→28.0機
ロバート M. ハンソン Robert M. Hanson→25.0機
ジョン F. ボルト・ジュニア John F. Bolt, Jr. →12.0機(WW2で6機、韓国で6機)
クリストファー L. マギー Christopher L. Magee→9.0機
ウィリアム N. ケース William N. Case→8.0機
ドン H. フィッシャー Don H. Fisher→8.0機
アルヴィン J. ジェンセン Alvin J. Jensen→7.0機
ロバート W. マクラーグ Robert W. McClurg→7.0機
ポール A. ミューレン Paul A. Mullen→6.5機
H. アレン・マッカートニー・ジュニア H. Allen McCartney, Jr. →5.0機
エドウィン L. オランダー Edwin L. Olander→5.0機
ハートウェル V. スカーボロ Hartwell V. Scarborough→5.0機
スタンリー T. シナール Stanley T. Synar→5.0機


Update 24/07/05