VMA
海兵攻撃飛行隊 Marine Attack Squadron

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※MCAAFは海兵航空補助施設(Marine Corps Auxiliary Air Facility)の略。MCASは海兵航空基地(Marine Corps Air Station)の略。NASは海軍航空基地(Naval Air Station)の略。NAASは海軍航空補助基地(Naval Auxiliary Air Station)の略。NOTSは海軍航空兵器基地(Naval Ordnance Test Station)の略。NSは海軍基地(Naval Station)の略(ABC順)
※1941年6月24日に第121海兵戦闘飛行隊(Marine Fighting Squadron 121: VMF-121)として活動を開始。第二次大戦後に第121海兵攻撃飛行隊(Marine Attack Squadron 121: VMA-121)に改編。1969年初めに第121海兵攻撃飛行隊(全天候、Marine Attack Squadron (All Weather) 121: VMA(AW)-121)に改編。1989年12月8日に第121海兵戦闘攻撃飛行隊(全天候、Marine Fighter Attack Squadron (All Weather) 121: VMFA(AW)-121)に改編。2012年11月20日に第121海兵戦闘攻撃飛行隊(Marine Fighter Attack Squadron 121: VMFA-121)に改編。ニックネームはGreen Knights。この飛行隊は岩国海兵航空基地 MCAS Iwakuniを拠点とし、第12海兵航空群(Marine Aircraft Group 12: MAG-12)および第1海兵航空団(1st Marine Aircraft Wing: 1st MAW)の指揮下にある。テイル・コードは“VK”、無線コール・サインは“コンバット Combat”
所在地 駐留日
NAS Glenview
MCAS El Toro 1951半ば
MCAS Iwakuni 1968/8
MCAS Cherry Point
USS Ranger (CV-61) 1985/11/11
USS Ranger (CV-61) 1987/7
MCAS El Toro 1989/8
MCAS Miramar 1994/8
MCAS Yuma 2012/9/28
MCAS Iwakuni 2017/9/28
航空団 テイル・コード 割り当て日
CVW-2 1985/11/11
CVW-2 1987/7
航空機の割り当て 初受領日
F4F 1941/6/24
F4U
F8F
AD-2
F9F-8B 1957
A4D-2 1958末
A-4E
A-6 1969初め
F/A-18D(12 1989/12/8
F-35B 2012/9/28
日付 主な出来事
1941/6 第121海兵戦闘飛行隊(Marine Fighting Squadron 121: VMF-121)は1941年6月24日に活動を開始した。“グリーン・ナイツ”はカクタス空軍 Cactus Air Forceの創設メンバーとしてF4Fワイルドキャット、のちにF4Uコルセアに搭乗して戦闘作戦を開始し、1942年10月に到着したガダルカナル島の戦いを通じて活動した。飛行隊はエスピリトゥ・サント Espiritu Santo、タートル・ベイTurtle Bay、ブーゲンヴィル、エミラウ Emirauの前線基地からも戦闘を行った。1944年9月15日、“グリーン・ナイツ”はペリリュー島に上陸し、1945年7月25日までそこで戦闘を行った。彼らは米国に戻り、1945年9月9日に閉隊した。太平洋戦争中、VMF-121はほかのどの飛行隊よりも多くの14名の戦闘機エースパイロットを輩出しており、その中には名誉勲章受章者 Medal of Honorのジョセフ J. フォス少佐 Major Joseph J. Fossも含まれている。 VMF-121は空中戦で208機の日本軍機(ワイルドキャット165機、コルセア44機)を撃墜した
第二次大戦後、この飛行隊はアメリカ合衆国のイリノイ州グレンヴュー海軍航空基地 NAS Glenviewで再編され、1951年5月15日に第121海兵攻撃飛行隊(Marine Attack Squadron 121: VMA-121)に改称された。この間、同飛行隊はF4Uコルセア、F8FベアキャットADスカイレイダーなど、さまざまな航空機を運用した
1951半ば 1951年半ば、VMA-121は予備隊員の動員命令を受け、グレンヴュー海軍航空基地を出発し、カリフォルニア州エル・トロ海兵航空基地 MCAS El Toroに向かった。スカイレイダーでの訓練を終えたのち、飛行隊は護衛航空母艦シトコー・ベイ Sitkoh Bay(CVE-86)で横須賀へ輸送され、大韓民国への戦闘展開に向けた最終準備を開始した。1953年6月には、水湖ダム Sui-ho Dam攻撃において16機のAD-2スカイレイダーが156tの爆弾を投下し、当時の海兵隊における1日当たりの弾薬投下量記録を樹立した
1951/10 VMA-121は1951年10月19日に大韓民国平沢のK-6飛行場 K-6 Airfieldに展開し、10月27日に最初の攻撃を実施した。任務は歩兵作戦を支援する攻撃任務の遂行であった。朝鮮戦争中、この飛行隊は海軍および海兵隊のほかのどの飛行隊よりも多くの爆弾を投下し、敵の飛行場、補給集積所、橋梁、鉄道操車場を壊滅させた
朝鮮戦争中、飛行隊の記章には、漫画「Li'l Abner」に登場するアル・キャップ Al Capp作の「WolfGirl」が描かれていた。VMA-121の“ウルフ・レイダーズ Wolf Raiders”は、1953年の朝鮮戦争休戦協定調印後も数年間、韓国に留まった。1957年にエル・トロ海兵航空基地に帰還した飛行隊は、部隊デプロイメント計画の一環として日本への定期的なローテーション任務を開始し、保有していたADスカイレイダー機を下取りに出し、F9F-8Bとともにジェット機時代へと突入した。LABS(ロフト爆撃システム)を搭載したクーガーは、この飛行隊が運用した初の核兵器搭載機であった
1958後半 1958年後半、飛行隊はクーガーを新品のA-4スカイホークに交換した。翌年の大半をファロン海軍航空補助基地 NAAS Fallon、ユマ海兵航空基地 MCAS Yuma、チャイナ・レイク海軍航空基地 NOTS China Lakeなどで過ごし、“グリーン・ナイツ”は特殊兵器の配備訓練をすべて完了した最初の飛行隊となった。1962年11月、“グリーン・ナイツ”はキューバ危機 Cuban Missile Crisisに対応するため、フロリダ州ジャクソンヴィルのセシル・フィールド海軍航空基地 NAS Cecil Fieldに新型A-4で展開した
1966/8 1966年8月、ドナルド・スティヴァー中佐 LtCol Donald Stiverの指揮の下、“グリーン・ナイツ”はA-4Eスカイホークを日本の岩国海兵航空基地 MCAS Iwakuniへ輸送し、日本と沖縄での準備訓練を経て、1966年12月に南ヴェトナムのチュ・ライ空軍基地 Chu Lai Air Baseから戦闘作戦を開始した。1967年5月、VMA-121は戦闘作戦において1,750tを超える兵器を投下し、海兵攻撃飛行隊のこれまでの兵器輸送記録を塗り替えた。6ヶ月間の戦闘作戦ののち、飛行隊は岩国海兵航空基地と沖縄の那覇空軍基地 Naha Air Baseを巡回し、1967年9月にふたたびチュ・ライ空軍基地へ戻り、ふたたび戦闘任務に就いた。この派遣期間の最初の6ヶ月間で、VMA-121は118件の主要作戦を支援した
1969初め 1969年初め、この飛行隊はノース・カロライナ州チェリー・ポイント海兵航空基地 MCAS Cherry Pointで再編され、グラマンA-6イントルーダーによる全天候攻撃任務への移行を反映して、新たにVMA(AW)-121と改称された。“グリーン・ナイツ”は、昼夜を問わず、あらゆる天候において、多様な空対地兵器を用いて地上目標を捕捉・破壊する能力を獲得した。飛行隊は第1海兵航空団 1st MAWの一員として、岩国海兵航空基地への13ヶ月間の展開に参加した。日本駐留中、飛行隊はフィリピンのキュービ・ポイント Cubi Pointでの訓練演習と韓国の醴川 Yechonでの“チーム・スピリット演習 Team Sprit”に参加した。“グリーン・ナイツ”は1978年6月にエル・トロ基地に戻り、指揮官は“ウォルド”アダムズ中佐 Lt. Col. "WALDO" Adamsだった
1982 1982年、飛行隊は無事故飛行時間43,000時間を達成したことで功労部隊表彰(Meritorious Unit Commendation: MUC)を受賞。この表彰は、それ以前にヴェトナムで無事故飛行を続けていた期間に遡る。この表彰は、飛行隊が岩国に展開し、指揮官が“ジャック”リッピー中佐 Lt. Col. "JACK" Rippyであった際に授与された
1985/11 1985年11月11日、VMA(AW)-121の運用管制は、汎用航空母艦レンジャー Ranger(CV-61)所属の第2空母航空団司令官 Commander, Carrier Airwing Twoに移管された。1987年7月、ジョー“ジャヴァ”ウェストン中佐 LtCol. Joe "Java" Westonの指揮の下、飛行隊はレンジャーに乗艦し、6ヶ月間の西太平洋/インド洋クルーズを行った。北アラビア海の“ゴンゾ・ステーション Gonzo Station”に到着した飛行隊は、クウェートの旗艦を改称したタンカーの護衛任務である“アーネスト・ウィル作戦 Operation Earnest Will”に参加
1989/2 1989年2月、飛行隊はふたたびレンジャーに乗艦し、ピート“ノーダック”ジェイコブズ Pete "NODAC" Jacobsの指揮の下、西太平洋/インド洋航海に出発した。1989年8月にエル・トロ海兵航空基地に帰還すると、VMA(AW)-121の運用権は第3海兵航空団(3rd Marine Aircraft Wing: 3rd MAW)司令官に返還された
1989/12 1989年12月8日、この飛行隊は第121海兵戦闘攻撃飛行隊(全天候型)(Marine Fighter Attack Squadron (All Weather) ONE TWO ONE: VMFA(AW)-121)に改称され、海兵隊初のF/A-18Dホーネット夜間攻撃飛行隊となった。それから1年余りのち、この飛行隊は“砂漠の嵐作戦 Operation Desert Storm”の支援に派遣された。“砂漠の嵐”航空作戦 Desert Storm Air Campaign中、この飛行隊は557回の出撃と1,655.5時間の戦闘時間を達成した(これは海軍および海兵隊の他のどの戦術ジェット飛行隊よりも長い飛行時間)
戦闘の停止後、エル・トロ海兵航空基地に戻った“グリーン・ナイツ”は、ユニットのデプロイメント・ローテーションを再開し、1994年8月にカリフォルニア州ミラマー海兵航空基地 MCAS Miramarに移転した。これは、エル・トロ海兵航空基地も閉鎖したBRAC措置に従って、その施設の管理が海軍 (ミラマー航空基地として) から海兵隊に移管されたため。“グリーン・ナイツ”は、2000年3月にイラク上空の戦闘に戻る前に、西太平洋に3回デプロイメントした。2000年のデプロイメント中、飛行隊はクウェートのアフマド・アルジャベル空軍基地 Ahmad al-Jaber Air Baseを拠点として、“サザン・ウォッチ作戦 Operation Southern Watch(OSW)”の支援で287ソーティを飛行し、第一次湾岸戦争の終結以来アルジャベルでOSW任務に就いていた現役のアメリカ空軍、空軍予備役、および空軍州兵のA-10サンダーボルトII戦闘飛行隊に、切望されていた運用テンポ (operational tempo: OPTEMPO) の軽減を提供した
2002/4 2002年4月、“グリーン・ナイツ”飛行隊は6機の航空機を率いてキルギスタンに展開し、1か月後に残りの6機の航空機と人員が続いた。同飛行隊は“不朽の自由作戦 Operation Enduring Freedom”を支援するため、アフガニスタン上空で900回以上の戦闘出撃を行い、2002年10月にミラマー海兵航空基地に帰還した
キルギスタンから帰還してからわずか3か月後、“グリーン・ナイツ”はクウェートのアルジャベル空軍基地に展開した。2003年2月から5月にかけて、同飛行隊は“サザン・ウォッチ作戦 Operation Southern Watch”と“イラクの自由作戦 Operation Iraqi Freedom”を支援するため、イラク上空で750回以上の戦闘出撃を行い、5月12日にミラマー海兵航空基地に帰還した
2005/3 2005年3月、同飛行隊は部隊展開プログラムの一環として、日本の岩国海兵航空基地に展開した。飛行隊は2005年9月15日にミラマー海兵航空基地に帰還した
2007/2 2007年2月、飛行隊は“イラクの自由作戦06-08 Operation Iraqi Freedom 06–08”を支援するため、イラクのアル・アサド空軍基地 Al Asad Air Baseに展開した
2008/9 飛行隊は、部隊展開プログラムの一環として、2008年9月から2009年3月、2010年3月から2010年9月、そして2012年1月から2012年7月まで、岩国海兵航空基地に展開した
2011/8 2011年8月17日、VMFA(AW)-121所属のF/A-18Dがサン・ディエゴの南西約85マイルの太平洋上に墜落した。パイロットとWSOはともに無事脱出した
2012 2012年9月28日、ジェフ・スコット中佐 LtCol. Jeff Scottがマイケル・ウォーターマン中佐 LtCol. Michael Watermanから“グリーン・ナイツ”の指揮権を引き継ぎ、VMFA(AW)-121におけるF/A-18Dホーネットの任務は終了し、第5世代ステルス戦闘機時代の幕開けとなった。この指揮権交代により、同飛行隊はミラマー海兵航空基地の第11航空群(MAG-11)からユマ海兵航空基地の第13航空群(MAG-13)へ正式に異動となった。11月20日、VMFA(AW)-121は正式にVMFA-121に改称され、最初の3機のF-35B機の受領を受け、海兵隊作戦部隊初の運用F-35B飛行隊、そして全軍種初の運用F-35飛行隊となった
2017/1 2017年1月9日、VMFA-121はアリゾナ州ユマ海兵航空基地を離れ、岩国海兵航空基地へ転属した
2017/1 2017年1月18日、VMFA-121は、最初の前方展開常駐F-35B飛行隊として岩国基地に到着
2018/4 2018年4月24日、同飛行隊所属のF-35Bが福岡空港に緊急着陸した
2020/9 2020年9月29日、カリフォルニア州でF-35BがVMGR-152所属のKC-130と空中衝突し、墜落した
2025/3 2025年3月25日、高知県の高知空港にF-35Bが緊急着陸した
飛行隊のエース
ロバート M. ベイカー Robert M. Baker→7.0機
レナード K. デイヴィス Leonard K. Davis→5.0機
セシル J. ドイル Cecil J. Doyle→5.0機
ケネス M. フォード Kenneth M. Ford→5.0機
ジョー・フォス Joe Foss→26.0機
ウィリアム B. フリーマン William B. Freeman→6.0機
ロジャー A. ハーバーマン Roger A. Haberman→7.0機
グレゴリー K. レッシュ Gregory K. Loesch→8.5機
ハーバート H. ロング Herbert H. Long→10.0機
ウィリアム P. マロンテート William P. Marontate→13.0機
ヘンリー A. マッカートニーHenry A. McCartney→5.0機
ジョセフ L. ナー Joseph L. Narr→8.0機
ロバート B. ポーター Robert B. Porter→5.0機
フランク H. プレスリー Frank H. Presleyr→6.0機
ジョセフ H. ラインバーグ Joseph H. Reinburg→7.0機
ペリー L. シューマン Perry L. Shuman→6.0機
ドナルド K. ヨスト Donald K. Yost→8.0機
航空機の損失
クロード N. ウィリアムズ大尉 Capt Claude N. Williams(087244)-チューライ飛行場 Chu Lai Airfield付近のGCA夜間着陸中に、搭乗していたA-4E、Bu.No. 151123が墜落し死亡

↑VMA-121 F9F-8 Cougar at MCAS El Toro, 1958. Image courtesy of en.wikipedia.org.


Update 25/09/23