日付 |
主な出来事 |
1946/7 |
VFB-718は1946年7月1日、ニュー・ヨークのニュー・ヨーク海軍航空基地 NAS New Yorkに海軍予備飛行隊として設立され、F6Fに搭乗した。すぐにF4Uに移行した。部隊はいくつかの名称変更を経て、VF-68Aとなり、そののちVF-837となった |
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部隊がVF-837と呼ばれるようになると、飛行隊はカリフォルニアのモフェット・フィールド海軍航空基地 NAS Moffett Fieldに移った。VF-837は朝鮮戦争で航空母艦アンティータム Antietam(CV-36)の戦闘クルーズを行った。この時までに彼らはF9F-2に搭乗していた |
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VF-837は最初のクルーズから帰還し、2回目のクルーズに向けて準備を始めた。1953年2月4日、攻撃航空母艦プリンストン Princeton(CVA-37)艦上でゴールデン・ゲート・ブリッジ Golden Gate Bridgeの下を通過し、韓国に戻る途中、VF-837はVF-154に再指定された。VF-154は韓国で470tの爆弾を投下し、1,500,000発の弾薬を消費し、1953年6月15日にVF-154は1日に48回出撃し、海軍飛行隊の記録を打ち立てた。このころには飛行隊はF9F-5に移行していた。この時期から1957年後半まで、VF-154の記章は黄色地に燃えるような黒豹であった。1950年代後半、VF-154はFJ-3を飛行させた |
1957 |
1957年、VF-154は海軍初の超音速空母機F8Uに移行した。超音速機と攻撃航空母艦ハンコック Hancock(CVA-19)(VF-154の配属空母)のような第二次大戦時の小型甲板、“27チャーリー 27-Charley”空母の改造の組み合わせは、航空機やパイロットにとって容易なことではなかった |
1954/10 |
新しい時代と航空機を認識し、VF-154は徽章を変更した。新しい時速1,000マイル戦闘機のため、飛行隊は“グランド・スラマーズ Grand
Slammers”と命名され、新しい徽章は飛行隊パイロットのジョン“クラッシュ”ミオッテル John "Crash" Miottelによってデザインされ、最終版は「テリーと海賊 Terry and the Pirates」や「スティーヴ・キャニオン Steve Canyon」の作者として有名な漫画家ミルトン・カニフ Milton Caniffによって描かれた。新徽章は黒地に銀のクルーセイダー・ナイトで、背景には2機のF-8ディヴィジョン(4機編隊)が交差している。このパッチのデザインと、夜間作戦用に設定された新型クルーセイダーの到着により、飛行隊は非公式に“ブラック・ナイツ
Black Knights”として知られるようになった。彼らの公式無線コール・サインは“シティ・デスク City Desk”であったが、事実上すべての飛行隊は、本拠地の他の飛行隊から与えられた、ローカルで非公式な(そして通常は軽蔑的な)コール・サインを持っていた。“シティ・デスク”の蔑称として、VF-154の非公式コールサインは“シティ・ダンプ
City Dump”であり、提督のスタッフを含む本拠地のすべての飛行隊は彼らを“ザ・ダンパーズ The Dumpers”と呼んだ。“ブラック・ナイツ”の呼称は徽章に追加され、名前と徽章は今日までVF-154のシンボルとして残っている |
1965 |
1965年、飛行隊は第15空母航空団 Carrier Air Wing 15の一員として攻撃航空母艦コーラル・シー Coral Sea(CVA-43)に乗り込み、ヴェトナム戦争に参加した。最初の戦闘攻撃は2月7日に行われ、戦闘クルーズは同年11月まで続いた。そののち、毎年の戦闘巡航が続き、VF-154はすぐにF-4に移行し、第2空母航空団 Carrier Air Wing 2の一員となり、1980年までそこに留まった。コーラル・シーとの2回目の巡航ののち、飛行隊は攻撃航空母艦レンジャー Ranger(CVA-61)に空母を移し、東南アジアへの5回のクルーズを終えた |
1968 |
1968-69年、1969-70年、1970-71年のレンジャーでのウェスト・パック・クルーズの間、VF-154はウェスティングハウスAWG-10
RADARシステムを使用したF-4Jを装備していた。VF-154は1972年11月16日にレンジャーに配備されたのを皮切りに、アメリカ海軍の戦争最後の攻撃に参加し、飛行隊最後のヴェトナム巡航を行い、クリフトン賞
Clifton Awardを受賞した |
1979 |
1979年、部隊は海軍最後のヴァージョンであるF-4Sに移行したが、1981年1月にF-4Nに戻った。空母にはF-14Aを搭載するのに十分な強度のデッキがなかったためである。この間、VF-154はイラン人質事件の際、人質が正式に米国に解放されるまで、イラン沿岸の海上で120日間を過ごした。こうしてVF-154と姉妹飛行隊VF-21は、F-14Aに転換した最後の部隊のひとつとなった |
1983/10 |
VF-154は1983年10月にようやくF-14Aに移行した。装備が遅れたため、同飛行隊は最初からTARPS可能なF-14を受領した |
1985 |
F-14による最初のクルーズは1985年、第14空母航空団 Carrier Air Wing 14の一員として汎用航空母艦コンステレーション Constellation(CV-64)で行われた。このクルーズの間、ペルシャ湾で活動し、イランのP-3を迎撃し、いわゆる“ゴンゾ・ステーション Gonzo station”でオマーン湾の動きを実施した |
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コンステレーションでのクルーズののち、CVW-14は汎用航空母艦インディペンデンス Independence(CV-62)に移動した。インディペンデンスでは、VF-154とVF-21が“砂漠の盾作戦 Operation Desert Shield”の一環としてペルシャ湾に到着した最初のF-14飛行隊となったが、開戦前にインディペンデンスが米国に戻ったため、“砂漠の嵐作戦
Operation Desert Storm”に参加することはなかった |
1991/8 |
1991年8月、インディペンデンスは汎用航空母艦ミッドウェー Midway(CV-41)の後任として日本の横須賀を本拠地とした。VF-154はこの時も空母に残ったが、CVW-14から第5空母航空団 Carrier Air Wing 5へ、ミラマー海軍航空基地 NAS Miramarから厚木海軍航空施設 NAF Atsugiへ移動し、初の前方展開F-14飛行隊となった。CVW-5に参加すると同時に、VF-154は空対地爆撃能力を備えた最初のF-14飛行隊となった。インディペンデンスとその航空団は、原子力汎用航空母艦ニミッツ Nimitz(CVN-68)とともに、台湾支援における米国の決意を示す作戦に参加した。1995年の中国による軍事演習は、この地域の緊張を高め、台湾総統選挙に対する中国の反対を示した |
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F-14飛行隊の削減により、VF-154の姉妹飛行隊であるVF-21は閉隊され、CVW-5唯一のF-14飛行隊となった。この時、VF-154はVF-21から多くの人員と機体を吸収した。これにより機体数は16機に増え、VF-154は人員と機体数の規模から“スーパー飛行隊
super squadron”となった。VF-154はTARPSの役割を維持するだけでなく、空対地の役割でも活発に活動している。インディペンデンスへの定期的な配備は、1996年11月に空母の艦上で行われた空母の訓練で継続された |
1997/4 |
同飛行隊は1997年4月11日、“タンデム・スラスト演習 exercise Tandem Thrust”への参加を終えたばかりで、オーストラリアのフリーマントルに到着した。VF-154のF-14Aは老朽化が激しく、飛行隊は最悪の機体6機を、数週間前に汎用航空母艦キティ・ホーク Kitty Hawk(CV-63)に寄港していたVF-213の6機と交換した。同飛行隊は1997年の最終四半期と1998年1月にようやくF-14AのLANTIRNアップグレードを受けた。アップグレード・サイクルは比較的遅かったが、VF-154はその恩恵を受けることができた-彼らのF-14Aは新しいAN/ALR-67レーダー警告受信機を受け取った艦隊で最初の機体であった |
1998/1 |
1998年1月5日、CVW-5はペルシャ湾でのトラブルにより出動要請を受けた。インディペンデンスは2月4日に現地に到着。VF-154は最初のCVW-5フライト・パッケージを率いて24時間以内にイラク南部に向かった。緊張は和らいだが、空母と航空団は5月末まで駐留した。“サザン・ウォッチ作戦
Operation Southern Watch”の一環として、毎日いくつかのミッションが飛行された。VF-154は新しいLANTIRNポッドを使って、昼夜を問わず潜在的な標的の高画質ヴィデオを提供することができた |
1998/7 |
1998年7月、CVW-5はインディペンデンスで最後のクルーズを行った。太平洋を横断して真珠湾に移動したのち、航空団は新居であるキティ・ホークに移動した。移駐中、キティ・ホークは現役最古の艦であることを示す“Don't
Tread On Me”ジャック "Don't Tread On Me" Jackを手にした。8月30日、航空団と空母はふたたび出発した。訓練はVF-154によるMISSILEXで始まり、F-14は4機のAIM-54を撃ち、4機の標的を撃墜した。巡航は韓国近海での“フォール・イーグル演習
Foal Eagle exercise”で続けられた。11月に帰港するまでに、飛行隊は240日間を海上で過ごした。飛行隊は数々の賞を獲得し、特に太平洋艦隊バトル“E”賞 Pacific Fleet Battle 'E' award、セーフティ“S”賞 Safety 'S' award、“ブーラ・ブーラ”ミサイル賞 'Boola-Boola' missile award、クリフトン賞 Clifton awardを受賞した |
1999/1 |
1999年1月、飛行隊の航空機はSFARP訓練のためグアムに配備された。数週間後、初めてデジタル・フライト・コントロール・システム(Digital Flight Control System: DFCS)を装備したジェット機を受領した。3月2日、VF-154は初のWESTPAC派遣のためキティ・ホークに乗艦。4ヶ月の航海中、飛行隊はタンデム・スラスト'99 Tandem Thrust '99に参加し、予期せぬペルシャ湾期間(原子力汎用航空母艦セオドア・ルーズヴェルト Theodore Roosevelt(CVN-71)がコソヴォでの出来事を対処するために召集されたため)に加え、香港、タイ、シンガポールに寄港した。また、このクルーズでは、2人の海軍飛行士が同じ日に1,000トラップに到達するという新たな記録も達成された。R. マクハーグ大佐 Captain.
R. McHarg CVW-5のCAGが特別塗装のVF-154のF-14Aで着艦。歴史的なトラップのパイロットはD. バクスター大尉 Lieutenant.
D. Baxter。同じ日の後半、VFA-27の隊長であるK. ハッチソン中佐 Commander. K. HutchesonはF/A-18で着陸した。両着艦はペルシャ湾で行われ、キティ・ホークとCVW-5はイラク南部上空での1,356回の戦闘任務を含む5,426回の出撃を完了した |
1999 |
1999年から2002年にかけて、VF-154は太平洋とインド洋で5回の派遣に参加した。2001年、CVW-5は“不朽の自由作戦 Operation
Enduring Freedom”を支援するため、600以上のミッションと100回の戦闘出撃を行った |
2003 |
2003年、VF-154は“イラクの自由作戦 Operation Iraqi Freedom”を支援するため、F-14で最後のクルーズを行った。CVW-5がペルシャ湾に展開するのは1999年以来となる。キティ・ホークが2月26日に到着し、CVW-5が近接航空支援専用ウィング Close Air Support wingに選ばれた。VF-154は12機のF-14Aとともにカタールのアル・ウデイド空軍基地 Al Udeid Air Baseに配備され、5機のF-14Aと5名のクルーがカタール空軍のパナヴィア・トーネード、アメリカ空軍のF-15E、F-16CG、F-16CJ、オーストラリア空軍のF/A-18Aと緊密に連携することになった。CENTCOMはCVW-5に連絡し、イラク国内で活動する特殊部隊だけでなく、連合軍の陸上機を支援するために、前方航空管制が可能なトムキャットと乗組員を派遣するよう航空団に特に要請した。F-14は通常、すでに空軍基地に配備されている航空機とペアを組み、自ら爆弾を投下したり、他の航空機の爆弾を誘導したりした。搭乗員は毎日任務をこなし、VF-154分遣隊は48時間の間に14回の出撃、合計100時間の飛行時間をこなした。アル・ウデイドのクルーは、21日間の基地滞在中に300時間以上飛行し、50,000ポンドの兵器(98発のGBU-12)を運搬した |
2003/4 |
2003年4月1日、VF-154はイラク南部上空でエンジン1基と燃料移送システムの故障に見舞われ、残りのエンジンが空焚きとなり、1機を失った。任務開始からすでに2時間が経過し、爆弾を投下していた乗員は脱出し、すぐにHH-60Gヘリコプターに拾われた。このF-14Aは、イラク解放作戦の一環として墜落した最初の連合軍機であった。キティ・ホークの残りのF-14は、ほとんどが下級士官によって操縦され、27日間の戦闘で246発のGBU-12、10発のGBU-16、4発のGBU-10を使用した。戦争終結までに、VF-154は286回の出撃で358発のレーザー誘導爆弾 laser-guided bombsを投下し、さらに65発をバディリース buddy-lasedし、32発のJDAMの目標座標を伝えた。同飛行隊は、CVW-5で最も古いジェット機を飛ばしていたにもかかわらず、CVW-5のどの部隊よりも多くの兵器を使用した |
2003/9 |
2003年9月、VF-154は厚木海軍航空施設を最後に閉隊し、日本での13年間とトムキャットでの20年間に幕を下ろした。その1ヵ月後、VF-154はカリフォルニア州リムーア海軍航空基地
NAS LemooreでVFA-154と改名され、海軍の最新攻撃戦闘機F/A-18Fへの移行を開始した |
2005夏 |
同飛行隊は2005年夏、“イラクの自由作戦 Operation Iraqi Freedom”を支援する第9空母航空団 Carrier Air Wing 9の一員として、原子力汎用航空母艦カール・ヴィンソン Carl Vinson(CVN-70)で初のスーパー・ホーネット・クルーズを完了した。2005年4月6日、VFA-154とVFA-147はバグダッド東方の敵反乱拠点に500ポンドのレーザー誘導爆弾を2発投下した |
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カール・ヴィンソンがオーヴァーホールに入ったため、CVW-9とVFA-154は原子力汎用航空母艦ジョン C. ステニス John C. Stennis(CVN-74)に配備された。VFA-154とCVW-9は2007年春、イラクの自由作戦、不朽の自由作戦、グアム沖での合同軍事演習“ヴァリアント・シールド Valiant Shield”を支援するため、ペルシャ湾への新たな展開に乗り出した |
2009/1 |
2009年1月13日、VFA-154とCVW-9はジョン C. ステニスとともに西太平洋に展開。VFA-154とCVW-9は、海上自衛隊との演習や、韓国との年次演習“フォール・イーグル
Foal Eagle”、合同演習“ノーザン・エッジ2009 Northern Edge 2009”に参加したのち、7月6日に米国に帰還した |
2009/10 |
2009年10月、VFA-154は新しいF/A-18FブロックIIロット30/31A、AN/APG-79 AESAレーダー・ライノ Rhinoに移行した |
2010 |
2010年、飛行隊は第9空母航空団から原子力汎用航空母艦ロナルド・レーガン Ronald Reagan(CVN-76)の第14空母航空団 Carrier Air Wing 14に移転し、2月2日に2011年のデプロイメントに出発した。3月、VFA-154は“トモダチ作戦
Operation Tomodachi”の一環として津波救援活動を支援するため、なじみのある北日本の海域にいた。同飛行隊は偵察飛行を行い、のちにCVW-14ヘリコプターによって救助される生存者のグループを確認した。2011年初頭から中旬にかけては、イラクとアフガニスタンにおける“新たなる夜明け作戦
Operation New Dawn”と“不朽の自由作戦”をそれぞれ支援するため、またインド洋全域における海賊対処活動を支援するため、飛行隊はペルシャ湾に向かった。このクルーズはCVW-14にとって最後のものであり、2012年に同飛行隊は原子力汎用航空母艦ニミッツ Nimitz(CVN-68)のCVW-11に編入された。VFA-154は現在、セオドア・ルーズヴェルトの第11空母航空団 Carrier Air Wing 11に配属されている |