日付 |
主な出来事 |
1950/9/15 |
飛行隊は韓国仁川 Inchonでの揚陸作戦を支援 |
1952/8 |
飛行隊機は米空軍との共同作戦に参加。平壌とその周辺地域を攻撃 |
1954/3 |
1954年3月 ヴェト・ミン Viet Minhがディエン・ビエン・フー Dien Bien Phuでフランス軍を攻撃している間、攻撃航空母艦エセックス Essex(CVA-9)がヴェトナム沖での作戦を命じられ、飛行隊は西太平洋に派遣された |
1958/8〜9 |
中国共産党が金門島 Quemoy Islandを砲撃したのち、飛行隊は台湾海峡を飛行 |
1961/1 |
VF-151が乗艦した攻撃航空母艦コーラル・シー Coral Sea(CVA-43)は、ラオスでパテート・ラオ Pathet Lao軍が戦略拠点を占領したのち、南シナ海で活動した |
1965/3 |
同飛行隊は“ローリング・サンダー作戦 Rolling Thunder operations”(北ヴェトナムの軍事目標に対する組織的爆撃)に参加 |
1967/10/24 |
飛行隊の指揮官C. R. ガレスピー中佐 Commander C. R. GillespieとR. C. クラーク中尉 Lieutenant
(jg) R. C. Clarkが北ヴェトナム上空での任務中に地対空ミサイルで撃墜される。ガレスピー中佐は捕虜となり、1973年3月14日に釈放されたが、彼のRIOは捕虜のまま死亡した |
1968/3 |
1月に環境調査艦プエブロ Pueblo(AGER-2)が北朝鮮に拿捕されたのち、VF-151を乗せたコーラル・シーが韓国沖で活動 |
1972/5〜10 |
同飛行隊は“ラインバッカーI作戦 Linebacker I operations”に参加し、北ヴェトナムの目標に対する激しい空爆を行い、物資の流れを妨害し、南ヴェトナムにおける北ヴェトナムの戦争継続能力を低下させた |
1975/4〜5 |
南ヴェトナムのサイゴンが共産主義に陥落した際、飛行隊の航空機が“フリークエント・ウィンド作戦 Operation Frequent Wind”に参加 |
1976/8〜9 |
汎用航空母艦ミッドウェー(CV-41)に乗艦し、北朝鮮による非武装地帯での米軍兵士殺害事件を受けて、朝鮮半島付近で飛行作戦を実施 |
1979/4〜5 |
VF-151を乗せたミッドウェーは、南北イエメン間の戦闘勃発とイラン国王の失脚後、汎用航空母艦コンステレーション Constellation(CV-64)を支援し、米空母のプレゼンスを維持するため、アデン湾に展開した |
1979/11〜1980/2 |
11月4日にイランがテヘランのアメリカ大使館を占拠し、アメリカ人が人質に取られた事件を受けて、VF-151を乗せたミッドウェーはオマーン湾に向かい、1980年2月初旬に解任されるまで駐留した |
1980/5〜6 |
VF-151を乗せたミッドウェーは、韓国の内乱と光州 Kwangjuの町での数百人の虐殺のため、韓国沖で活動した |
1981/12 |
韓国での緊張ののち、緊張が収まるまで、飛行隊は韓国沖のミッドウェーで活動した |
1986/4〜11 |
VF-151はF/A-18ホーネットへの移行訓練のため、一時的にリムーア海軍航空基地 NAS Lemooreへ移転。飛行隊の新しいホーネットは11月18日から21日にかけて日本に飛来した。VF-151はF/A-18に移行し、戦闘攻撃飛行隊に再指定された2つのF-4戦闘飛行隊のうちの1つであった |
1988/9 |
韓国のソウルで開催された夏季オリンピックの間、飛行隊はミッドウェーに乗り込み、日本海で平和的なオリンピックに対する米国の支持を示すために活動した |
1989/12 |
VFA-151が乗艦するミッドウェーは、フィリピンでクーデターが未遂に終わる中、フィリピン沖で駐留を続けた |
1990/11〜1991/1 |
イラクによるサウジ・アラビア侵攻の脅威に対抗するため、またイラクのクウェートからの撤退を強制するための経済封鎖の一環として、アメリカ軍と連合軍の戦力を増強した“砂漠の盾作戦
Operation Desert Shield”を支援するため、飛行隊は任務を遂行した。VFA-151は1990年10月、“砂漠の盾作戦”を支援するためミッドウェーに配備された。イラクでの敵対関係が激化し、1991年1月17日、同飛行隊は“砂漠の嵐作戦
Operation Desert Storm”の初期空爆に参加した。作戦期間中、飛行隊はイラク、クウェート、ペルシャ湾北部の主要目標に817,000ポンド以上の兵器を投下した |
1991/8 |
1991年8月、同飛行隊はミッドウェー最後の航行期間中、ミッドウェーで日本を離れ、ハワイの真珠湾海軍基地 NS Pearl Harborに向かった。そののち、VFA-151はCVW-2に移籍し、カリフォルニア州リムーア海軍航空基地へ移動した。1993年2月、飛行隊は航空機をアップグレードされたLot
15のF/A-18Cホーネットに移行した。1993年5月、飛行隊はコンステレーションに乗艦し、東海岸から南米ホーン岬を回ってカリフォルニア州サン・ディエゴの新しい母港に向かった |
1994 |
同飛行隊は、1994年から1995年にかけての“サザン・ウォッチ作戦 Operation Southern Watch”を支援するため、西太平洋の戦闘区域に派遣され、イラク南部の“飛行禁止”区域 "no-fly" zonesの実施に貢献した。“サザン・ウォッチ作戦”を支援するため、1997年と1999年にもコンステレーションに搭載され、WESTPACへの追加派遣が続けられた |
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同飛行隊はCY2000でストライク・ファイター・ウイング・パシフィックのバトル“E”賞 Strike Fighter Wing Pacific's
Battle "E" awardを受賞し、2001年にはふたたびコンステレーションに配備された |
2002 |
同飛行隊は2002年11月、コンステレーションでの最終配備を行った。戦闘配備の成功ののち、コンステレーションは2003年8月7日にカリフォルニア州サン・ディエゴで退役した。VFA-151はCVW-2とともに原子力汎用航空母艦エイブラハム・リンカーン Abraham Lincoln(CVN-72)に移った。2004年10月、同飛行隊は米海軍の新艦隊対応計画を支援するため、初のWESTPAC/Surgeに派遣された。派遣中、同飛行隊は2004年12月26日に東南アジアを襲った津波の生存者を支援する人道支援活動である“ユニファイド・アシスタンス作戦
Operation Unified Assistance”に参加した |
2006 |
2006年3月24日から31日にかけて行われたFoal Eagle 2006演習では、CVW-2のVFA-2、VFA-34、VFA-137、VFA-151飛行隊は、嘉手納基地を拠点とする第18航空団 18th Wingのアメリカ空軍機とチームを組み、演習の統合航空作戦センターを通じて戦闘空中哨戒と調整爆撃を行った |
2008 |
2008年、VFA-151はふたたびエイブラハム・リンカーンに搭載され、第5艦隊責任領域(Fifth Fleet Area of Responsibility:
AOR)に派遣された。帰還後、ふたたび2008年のバトル“E”を受賞した |
2010 |
同飛行隊は2010年10月から2011年3月まで、エイブラハム・リンカーンに乗艦し、第5艦隊AORの“新たなる夜明け作戦 Operation
New Dawn”と“不朽の自由作戦 Operation Enduring Freedom”を支援した。同飛行隊は2010年のバトル“E”とマイケル J. エストシン賞 Michael J. Estocin awardを授与された |
2011 |
2011年12月、同飛行隊は“不朽の自由作戦”を支援するため、第5艦隊AORに5ヶ月間の“サージ”展開のためふたたび派遣された。2度の延長を経て、飛行隊は2012年8月に帰国した。F/A-18Cを5ヶ月間飛行させたのち、VFA-151は2013年2月にLot
35/36のF/A-18Eスーパー・ホーネットへの移行を開始した。移行に伴い飛行隊はCVW-2を離れ、2013年6月1日に原子力汎用航空母艦ジョン C. ステニス John C. Stennis(CVN-74)所属のCVW-9に移動した。2019年8月、飛行隊はリムーア海軍航空基地から飛来したF/A-18Eスーパー・ホーネットを失い、チャイナ・レイクの海軍航空兵器基地 Naval Air Weapons Station近くの“スター・ウォーズ・キャニオン Star Wars Canyon”として知られる壁に墜落した。飛行士は助からなかった |
同飛行隊は、人道奉仕勲章 Humanitarian Service Medal、大統領部隊賞 Presidential Unit Citation、8つの軍隊遠征勲章
Armed Forces Expeditionary Medal、4つのバトル“E”賞、6つの安全“S”賞 Safety S、6つの海軍部隊表彰
Navy Unit Commendation、マイケル J. エストシン賞、7つのヴェトナム共和国功労部隊表彰 Republic of Vietnam
Meritorious Unit Citationを授与されている |