VF
戦闘飛行隊 Fighter Squadron

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※ABは飛行場(Air Base)の略。MCAAFは海兵航空補助施設(Marine Corps Auxiliary Air Facility)の略。NAFは海軍航空施設(Naval Air Facility)の略。NASは海軍航空基地(Naval Air Station)の略。NAASは海軍航空補助基地(Naval Auxiliary Air Station)の略。NSは海軍基地(Naval Station)の略(ABC順)
※第114戦闘飛行隊(Fighter Squadron 114: VF-114)は、1945年から1993年にかけて活動したアメリカ海軍の戦闘飛行隊である。“アードヴァークス Aardvarks”の愛称で知られ、カリフォルニア州のミラマー海軍航空基地 NAS Miramarを拠点としていた。同飛行隊は、朝鮮戦争およびベトナム戦争において戦闘任務に従事した。VF-114は、冷戦終結後の軍縮の一環として、1993年4月30日に閉隊された

↑VF-114 insignia. Image courtesy of en.wikipedia.org.

↑Another version of the badge, with Greek motto misspelled. Image courtesy of en.wikipedia.org.

所在地 駐留日
NAS Alameda 1945/1
NAS North Island
NAS Miramar
航空機の割り当て 初受領日
F6F
F4U-4
F9F-3
F2H
F3H 1957
F-4B 1961
F-4J 1970/11〜1971/7の間
F-14A 1975/12/15
日付 主な出来事
1945/1 VF-114は、1945年1月20日、カリフォルニア州のアラメダ海軍航空基地 NAS Alamedaにて、第19爆撃戦闘飛行隊(Bombing Fighter Squadron 19: VBF-19)として編成された。そののちまもなく、VBF-19はカリフォルニア州のノース・アイランド海軍航空基地 NAS North Islandへ移動し、グラマンF6Fヘルキャット、続いてヴォートF4U-4コルセアを運用した。第二次大戦後の多くの飛行隊と同様、VBF-19も何度か名称変更を経験している。最初の変更は2年後の1948年8月24日に行われ、VF-192となった。そして1950年2月15日、最終的な名称変更を経てVF-114となった。当時、VF-114は“エグゼキューショナーズ Executioners(処刑人)”という愛称で知られていた
1950/7 VF-114は1950年7月5日、航空母艦フィリピン・シー Philippine Sea(CV-47)にデプロイメントし、朝鮮戦争に参加した。同部隊は数ヶ月間にわたりコルセア戦闘機を運用し、北朝鮮軍および中国軍に対して1,100回以上の攻撃任務を実施した
朝鮮半島から帰還した後、VF-114はプロペラ機からジェット機へと移行し、まずはグラマンF9Fパンサーを運用した。続いてマクドネルF2Hバンシーが導入され、1957年にはマクドネルF3Hディーモンへと機種を更新した。このF3Hディーモンは、同部隊が運用したジェット機の中で、空対空ミサイルを搭載可能な最初の機体であった。そののち、カリフォルニア州のミラマー海軍航空基地 NAS Miramarを拠点としたVF-114は、攻撃航空母艦シャングリラ Shangri-La(CVA-38)で2回、攻撃航空母艦ハンコック Hancock(CVA-19)で1回のクルーズを行った
1961 1961年、VF-114はマクドネルF-4ファントムIIへと機種を更新し、太平洋艦隊 Pacific Fleetの戦闘機飛行隊として初めて同機を実戦配備する部隊となった。この際、VF-114は部隊名および部隊章を“アードヴァーク(ツチブタ)”に変更した。これは、F-4の姿がコミック・ストリップ“B.C.”に登場するキャラクター“アードヴァーク”に似ていたことに着想を得たものとされている。この変更は1963年に正式なものとなった
また、同飛行隊はコミック“B.C.”のアードヴァークを模した2フィート(約60cm)大のレプリカを製作し、“ゾット Zott”(コミック内でそのアードヴァークが発する擬音に由来)と名付けた。この“ゾット”は、艦上や陸上のブリーフィング・ルーム(待機室)に誇らしげに飾られていた。さらに“ゾット”は、他部隊からの“侵入者”を監視する“ウォッチヴァーク Watchvark”としての役割も担っていたと言われている
1962/9 F-4を装備したVF-114の最初の展開は、1962年9月、攻撃航空母艦キティ・ホーク Kitty Hawk(CVA-63)に搭載された第11空母航空団 CVW-11の一員として始まった。1963年8月17日には、VF-114のフェリックス E. テンプルトン大尉 LT Felix E. TempletonがF-4B(Modex No. 401)を操縦し、同艦における通算16,000回目の着艦(トラップ)を記録した
1963 1963年から1975年にかけて、VF-114は、キティ・ホークに搭載され、ヴェトナムおよび西太平洋方面へ計9回のデプロイメントを行った。その詳細は以下の通りである
1963/10 1963年10月17日から1964年7月20日まで。この期間、VF-114はF-4Bを運用した
1965/10 1965年10月19日から1966年6月13日まで。12月2日、北ヴェトナム上空にてF-4B(Bu.No. 152220)が喪失した。搭乗していたC. オースティン中佐 CDR C. AustinとJ. ローガン中尉 LTJG J Loganは戦死し、遺体は収容されなかった。1月31日、ラオス上空にてF-4B(Bu.No. 152233)が対空砲火を受け被弾したが、搭乗員2名は無事に脱出し、救助された。3月5日、南ヴェトナム上空にてF-4B(Bu.No. 152224)が標的の残骸に接触し被弾したが、搭乗員2名は無事に脱出し、救助された。4月3日、VF-114のフェリックス・テンプルトン大尉が、F-4BファントムIIを操縦してキティ・ホークへの着艦(拘束着艦)300回を達成し、同艦における初の“トリプル・センチュリオン triple Centurion(着艦300回達成者)”となった。4月26日、北ヴェトナム上空にてF-4B(Bu.No. 152255)が標的の残骸に接触し被弾したが、搭乗員2名は無事に脱出し、救助された
1966/11 1966年11月5日から1967年6月19日にかけての期間中、12月20日には、第213戦闘飛行隊(VF-213)所属のF-4Bが、AIM-7スパロー・ミサイルを用いてヴェトナム人民空軍(Vietnam People's Air Force: VPAF)のAn-2輸送機2機を撃墜した。

(↑AIM-7スパロー)
1月19日にはF-4B(Bu.No. 153029)が失われ、搭乗員2名が死亡した。4月6日にはF-4B(Bu.No. 152999)が失われたが、搭乗員2名は脱出に成功し、救助された。4月24日、同飛行隊の機体がAIM-9サイドワインダー・ミサイルを用いてヴェトナム人民空軍のMiG-17戦闘機2機を撃墜した。この際、F-4Bの1機が高射砲火を受けて被弾したが、搭乗員2名は脱出に成功し、救助された

(↑AIM-9サイドワインダー)
5月8日、F-4Bが発艦時にエンジンを喪失した。パイロットは脱出に成功して救助されたものの、レーダー迎撃士官(Radar Intercept Officer: RIO)のトーマス・スタイマー中尉 LTJG Thomas Steimerは戦死し、遺体は収容されなかった。5月14日、ズーニ・ロケット弾の欠陥が原因でF-4B(Bu.No. 153001)が失われた。搭乗員のC. サウスウィック少佐 LCDR C. SouthwickとD. ロリンズ大尉 LT D. Rollinsは脱出に成功したが捕虜となり、1973年3月4日に解放された。5月19日、F-4B(Bu.No. 153004)がSA-2地対空ミサイルに被弾した。搭乗員のC. プラム大尉 LT C. PlumbとG. アンダーソン少佐 LCDR G Andersonは脱出に成功したが捕虜となり、それぞれ1973年2月18日と3月4日に解放された。5月21日にはF-4B(Bu.No. 153040)が失われたが、搭乗員2名は脱出に成功し、救助された
1967/11 1967年11月18日から1968年6月28日まで。12月27日、F-4B(Bu.No. 153005)が北ヴェトナム上空で喪失した。搭乗していたL. リー少佐 LCDR L LeeとR. イネス中尉 LTJG R Innesの2名は戦死したが、1997年7月に遺骨が確認された。4月15日には、F-4B(Bu.No. 153002および153043)が空中衝突により喪失したが、搭乗員は全員無事に脱出し、救助された。4月20日にはF-4B(Bu.No. 153003)が喪失したが、搭乗員2名は無事に脱出し、救助された
1970/11 1970年11月6日から1971年7月17日まで。この期間中にF-4Jへ機種更新が行われた
1971/2 1972年2月17日から11月20日まで。4月14日、F-4J(Bu.No. 157252)が南ヴェトナム上空で対空砲火を受け、パイロットのJ. グリーンリーフ中尉 LTJG J. Greenleafが戦死した(遺体は未回収)。一方、RIOのC. マッキニー大尉 LT C McKinneyの遺骨は、1985年8月に確認された。5月6日、同飛行隊の航空機がAIM-9ミサイルを使用し、VPAFのMiG-21戦闘機2機を撃墜した。8月16日、F-4J(Bu.No. 157262)がSA-2ミサイルにより被弾し、搭乗していたJ. ピッツェン中佐 CDR J. PitzenとO. ペンダー大尉 LT O. Penderの2名が戦死した。彼らの遺骨は1994年11月に確認された
1973/11 1973年11月23日から1974年7月9日まで
1975/5 1975年5月21日から12月15日まで
1975/12 1975年12月15日、VF-114は姉妹飛行隊であるVF-213とともに、グラマンF-14トムキャットへの機種転換を開始した。この転換作業には1年余りを要し、1977年10月、同飛行隊はF-14を装備して初のデプロイメント任務に就いた。この際、VF-114はCVW-11およびVF-213とともに、汎用航空母艦キティ・ホーク Kitty Hawk(CV-63)に乗艦して西太平洋へと向かった
1979/3 1979年3月、CVW-11は汎用航空母艦アメリカ America(CV-66)に乗艦して地中海へデプロイメントした。これは西海岸を拠点とする空母航空団としては異例のことであり、1981年にも同様の地中海デプロイメントが行われた。これら2度のデプロイメントにおいて、VF-114は“ゴールデン・テイルフック賞 Golden Tailhook award”を獲得した。同賞は、デプロイメント期間中、着艦評価スコアが最も高かった飛行隊に授与されるものである。さらに1982年には、西海岸の空中射撃競技会“ハイ・ヌーン High Noon”で優勝したほか、“マザー Mutha”トロフィーも獲得した。このトロフィーは、太平洋艦隊の中で最も優秀な飛行隊であることを示すものだった
1982/9 地中海での2度のクルーズを終えたVF-114は、1982年9月、原子力汎用航空母艦エンタープライズ Enterprise(CVN-65)」に乗艦して太平洋艦隊に復帰した。このルーズ中、VF-114は北太平洋において、汎用航空母艦ミッドウェー Midway(CV-41)およびコーラル・シー Coral Sea(CV-43)の空母打撃群と合流し、第二次大戦後最大級の海軍演習に参加した。ミラマー海軍航空基地への帰還後、VF-114はふたたび“ハイ・ヌーン”トロフィーと“マザー”トロフィーを獲得した。F-14飛行隊がこれら両方の賞を2年連続で受賞したのは、これが初めてのことであった
1984/5 1984年5月30日、VF-114はライル“ホー・チ”ビーン中佐 CDR Lyle "Ho Chi" Bienの指揮下でふたたび出航し、12月20日に帰還した。この巡航中、同飛行隊および所属する航空団は、ハワイ沖で行われた環太平洋合同演習“リムパック/RIMPAC”や、フィリピン北部での演習“ビーコン・フラッシュ Beacon Flash”など、幾つかの演習に参加した。また、“アードヴァークス”の愛称で知られる同飛行隊は、北太平洋における艦隊演習にもふたたび参加し、今回はミッドウェーおよび原子力汎用航空母艦カール・ヴィンソン Carl Vinson(CVN-70)とともに任務にあたった
1985 1985年、VF-114は次なる海外デプロイメントに備え、ミラマー海軍航空基地にてデプロイメント前訓練サイクル(Inter-Deployment Training Cycle: IDTC)を実施した。この期間中、同飛行隊は南カリフォルニア作戦海域(Southern California Operational Area: SOCAL)での通常の海上訓練に加え、ほかの海軍飛行隊や、米空軍および米海兵隊の戦闘機・戦闘攻撃機部隊を相手に、広範な空中戦訓練を行った。1986年1月24日、パット“キラ”キルケニー中佐 CDR Pat "Killa" Kilkennyの指揮下、VF-114はエンタープライズに乗艦して海外デプロイメントを開始した。同艦は西太平洋へと進出し、真珠湾やフィリピンのスービック海軍基地 Subic Bayなどに寄港した。さらにインド洋へと進んだVF-114は、ソヴィエトやインドの航空機を頻繁に迎撃・追尾した。この時期、リビアに対する作戦が国家指揮当局の焦点となり、エンタープライズを中心とする空母戦闘群 carrier battle groupを地中海へ移動させることが決定された。これにともない、同打撃群はスエズ運河を通過したが、これによりエンタープライズはスエズ運河を通過した初の原子力空母となった。シドラ湾に到着し、リビアの指導者ムアンマル・アル=カダフィ Muammar al-Gaddafiが“死のライン Line of Death”と呼んだ境界線の付近において、CVW-11の戦闘機および戦闘攻撃機部隊は2ヶ月間にわたり戦闘空中哨戒(combat air patrols: CAP)を実施したが、リビア機との遭遇は稀であった。そののち、空母群はナポリ Naplesやトゥーロン Toulonに寄港した。帰路はスエズ運河を通らず、ジブラルタル海峡を抜けて大西洋へ入り、喜望峰を回ってオーストラリアのパース Perthに寄港。さらに太平洋を横断し、母港であるアラメダ海軍航空基地へと帰還した
1987 1987年は訓練に費やされ、その一環としてカリフォルニア州のエル・セントロ海軍航空施設 NAF El Centroやネヴァダ州のファロン海軍航空基地 NAS Fallonへのデプロイメントが行われた。VF-114はふたたび“マザー”トロフィーを獲得したほか、太平洋艦隊における最優秀F-14飛行隊として、太平洋艦隊海軍航空部隊の戦闘効率賞であるバトル“E” Battle "E"を受賞した。1988年1月、同飛行隊は次の航海(クルーズ)を開始した。その期間中、当時続いていた“タンカー戦争”に対応するため、3月から5月にかけてペルシャ湾において、船籍を変更したタンカーの護衛任務に従事した。1988年4月には、“プレイング・マンティス作戦 Operation Praying Mantis”に参加した。1989年2月までに空母は帰港したが、同年9月から次の航海が予定されていたため、VF-114は非常にタイトなスケジュールで準備期間を過ごすこととなった。限られた時間の中ではあったが、艦隊戦闘機ACM即応プログラム(Fleet Fighter ACM Readiness Program: FFARP)のためにエル・セントロ海軍航空施設へデプロイメントし、また航空団の一員としてファロン海軍航空基地へも派遣されるなど、充実した訓練を実施した。エンタープライズに乗艦してからは世界一周航海が始まり、空母戦闘群は各地で演習に参加した。この航海は、エンタープライズが太平洋艦隊から大西洋艦隊 Atlantic Fleetへ移籍し、ヴァージニア州ノーフォークを新たな母港とするための移動も兼ねていた。10月には、F-14飛行隊として過去最多となる月間811時間以上の飛行記録を達成した。1989年12月には“クラシック・リゾルヴ作戦 Operation Classic Resolve”に参加し、クーデター未遂事件に直面したフィリピン政府を支援した。この航海の終了をもって、CVW-11のエンタープライズにおける長期間の配属は幕を閉じた。次回の航海からは、太平洋艦隊の最新鋭空母である原子力汎用航空母艦エイブラハム・リンカーン Abraham Lincoln(CVN-72)に配属されることとなった
1990/9 1990年9月25日、VF-114はエイブラハム・リンカーンに乗艦した。同艦は当時、ノーフォークから新たな母港となるアラメダへ向かう処女航海中であった。6週間にわたる航海で南米大陸の南端を回った同艦は、1990年11月下旬に新たな母港へ到着した。1991年中ごろには、リンカーンにとって初となる長期デプロイメントが開始された。このデプロイメントの初期段階において、同艦および搭載航空団は、ピナトゥボ山 Mount Pinatuboの噴火にともないフィリピン諸島から数千人の軍関係者とその家族を避難させる任務に従事した。この任務を完了したのち、リンカーンはペルシャ湾へと向かった
当初の計画では、リンカーンは“砂漠の嵐作戦 Operation Desert Storm”に従事する部隊の交代要員(救援空母)として派遣される予定であったが、同艦が到着したころには紛争は終結していた。そのため、VF-114はCVW-11のほかの部隊とともに、停戦後の戦闘空中哨戒(CAP)任務に就くこととなった
1992 J. R. バーネット中佐 CDR J. R. Barnettが指揮を執り、副隊長にはJ. S. コルヴァード少佐(中佐昇任予定) LCDR (CDR sel) J. S. Colvardが就いていたVF-114は、1992年11月30日に最後の飛行を行った。“砂漠の嵐作戦”後のF-14運用部隊の約半数と同様に、VF-114も冷戦終結に伴う海軍航空戦力削減の一環として閉隊されることとなった。1993年4月30日、ミラマー海軍航空基地にて執り行われた最終式典をもって、VF-114は正式に閉隊された。
VF-114は、1986年公開の映画「トップ・ガン Top Gun」で大きく取り上げられている。同作の冒頭には、エンタープライズから発艦するVF-114およびVF-213所属のF-14の映像が収められている。また、劇中にはこの部隊をモデルにした架空の部隊も登場しており、トップガンの教官であるリック“ジェスター”ヘザリー Rick "Jester" Heatherly(演:マイケル・アイアンサイド Michael Ironside)が着用している部隊章には、VF-213のエンブレム“ブラックライオン Blacklion”と“VF-114”という部隊番号を組み合わせたデザインが採用されている

↑"VF-114" emblem from Top Gun. Image courtesy of en.wikipedia.org.

↑VF-114 F3H-2 launching from USS Hancock in 1960. Image courtesy of en.wikipedia.org.

↑VF-114 F-14A escorts a Soviet Tu-95 in 1983. Image courtesy of en.wikipedia.org.


Update 26/10/16