日付 |
主な出来事 |
1943/8/1 |
VMF-323は1943年8月1日にノースカロライナ州のチェリー・ポイント海兵航空基地 MCAS Cherry Pointで就役した。口伝によると、この飛行隊の名前は3名の戦闘機パイロットが6フィート(1.82m)のガラガラ蛇を殺してその皮を飛行隊の準備室に飾ったことに由来している。VMF-323は、第二次大戦の太平洋戦域での戦闘のために、ほとんどすぐにF4Uの訓練を開始した |
1943/12/16 |
1943年12月16日、飛行隊は1944年1月の第1週からアメリカ西海岸に移動する準備をするよう命令を受けた。新しい飛行隊の訓練の多くは、カリフォルニア州のエル・セントロ海兵航空基地
MCAS El Centroとキャンプ・ペンドルトン海兵航空基地 MCAS Camp Pendletonで行われた。1944年7月、“デス・ラトラーズ
Death Rattlers”は護衛航空母艦ロング・アイランド Long Island(CVE-1)で太平洋へ向けて出発した。その後9ヶ月間、VMF-323は南太平洋の安全な島嶼基地から訓練ミッションを飛行した |
1945/4/9 |
1945年4月9日、“デス・ラトラーズ”の24機が護衛航空母艦ホワイトプレーンズ White Plains(CVE-66)から発進し、沖縄戦の“アイスバーグ作戦 Operation Iceberg”を支援するために嘉手納飛行場に飛来。翌日から戦闘行為が開始された。それから8月に日本が降伏するまでの間に、“デス・ラトラーズ”は124機の日本軍機を一度も失うことなく撃墜している。これは沖縄戦におけるどの飛行隊よりも高い数字である。12名の“デス・ラトラー”がエースとなった。戦後、“デス・ラトラーズ”はエル・トロ海兵航空基地 MCAS El Toroを拠点に、訓練演習を行った。1949年の映画会社リパブリック・ピクチャーズの映画「硫黄島の砂 Sands of Iwo Jima」に同飛行隊が登場したのもこの頃である |
1950 |
1950年に朝鮮戦争が始まると、VMF-323は第33海兵航空群(Marine Aircraft Group 33: MAG-33)の一員として護衛航空母艦バドエン・ストレイト Badoeng Strait(CVE-116)から戦闘活動を開始し、釜山周辺での戦い Battle of Pusan Perimeter、インチョンの戦い Battle of Inchon、朝鮮貯水池の戦い
Battle of Chosin、その他ほぼすべての主要な作戦で地上軍を支援した。1950年8月11日、コソン Kosong近郊での戦闘で、VMF-323のコルセア・パイロット、ヴィヴィアン M. モーゼス大尉 Captain
Vivian M. Mosesは、韓国で死亡した最初の海兵隊員となった |
1951/1ごろ |
1951年1月ごろ、バドエン・ストレイトから最後の戦闘行動を行い、MAG-33と共に日本の防府基地に移動した。そののちまもなく1951年2月、VMF-323は釜山近郊のK-1飛行場へ再移動した。K-1飛行場の状況は、テント生活で家具もなく、凍えるような天候の中でKレーションを食べていたため、過酷だったと言われている。3月、飛行隊は正式に第12海兵航空群(Marine
Aircraft Group 12: MAG-12)に移った。4月20日以降、ソウル近郊のK-16飛行場の困難な非硬質滑走路 non-hard-surface
runwayを前方作戦基地として再軍備と補給に使用し、K-1は修理と定期整備に使用された。1951年6月、VMF-323は大阪の伊丹航空基地
Itami Air Baseに短期間移動し、そののち護衛航空母艦シシリー Sicily(CVE-118)に乗艦した。同飛行隊は乗船時にF4U-4BをF4U-4に転換した。数ヶ月間、シシリーから戦闘行動が行われた。1951年10月30日には江陵 Kangnung付近のK-18に、1952年4月21日には平沢
Pyeongtaek付近のK-6に改編された。1952年6月には水穂ダム Sui-ho Damの攻撃にも参加している。 |
1952/6 |
1952年6月、この飛行隊は第323海兵攻撃飛行隊(Marine Attack Squadron 323: VMA-323)と改称された。このころ、24機の航空機は約半数のF4U-4Bと、より重装甲の地上攻撃重視のAU-1を含むように変更された。“デス・ラトラーズ”は1953年7月に韓国を去った。VMA-323は、1950年8月に韓国に到着して以来、合計48,677時間の飛行時間を蓄積し、朝鮮戦争中に最も長い海外勤務をした海兵隊固定翼攻撃飛行隊であった。合計16名の“デス・ラトラー”が戦死し(第二次大戦と同じ数の損失)、4名が捕虜となった。帰国後、飛行隊はF9Fパンサー、そしてパンサーの後退翼ヴァージョンであるF9Fクーガーに乗り始めた |
1956 |
1956年、飛行隊はFJ-4を採用し、1957年に西太平洋に展開した。その年、“デス・ラトラーズ”は中国の民族主義勢力を支援するため、金門島と馬祖島 Quemoy and
Matsu islandsの上空で武装哨戒飛行を行った |
1958 |
飛行隊はエル・トロ海兵航空基地 MCAS El Toroに再就職し、1958年夏に最初のF8Uを受領した。1958年と1959年に訓練されたのち、攻撃航空母艦オリスカニー Oriskany(CVA-34)に配属された |
1964 |
1964年、飛行隊はチェリー・ポイント海兵航空基地に戻り、現在の第323海兵戦闘攻撃飛行隊(VMFA-323)の呼称を得た。この年、“デス・ラトラーズ”はF-4の飛行を開始した。1965年のドミニカ危機では、“デス・ラトラーズ”はアメリカ市民が避難している間、航空援護を行った |
1958 |
アメリカが北ヴェトナムとの戦争に近づいていく中、“デス・ラトラーズ”は1965年10月25日からダ・ナン基地 Da Nang Air Baseに配備された。到着した翌日から戦闘行為が開始された。到着から1週間後、飛行隊の幹部が北ヴェトナム上空で地対空ミサイルに撃墜され、飛行隊は最初の航空機を失った。これは戦争中にSAMによって墜落した唯一の海兵隊F-4であった。飛行隊は1969年までヴェトナムに留まり、ダ・ナンやチュー・ライ
Chu Laiから戦闘出撃した |
1979 |
飛行隊は1979年11月、汎用航空母艦コーラル・シー Coral Sea(CV-43)でF-4ファントムIIによる唯一の空母クル^ズに乗り出した。韓国、タイ、シンガポールでの自由行動後、1980年1月にアラビア海に到着し、コーラル・シーと原子力汎用航空母艦ニミッツ Nimitz(CVN-68)のフライング・プロテクション・キャップ flying protection capsを行った。1980年4月24日、VMFA-323は、米国人質救出作戦“イーグル・クロー作戦 Operation Eagle Claw”を支援するため、イラン南部で戦闘任務を行う準備をし、離陸しようとするイラン戦闘機を撃墜する任務を受けた。“イーグル・クロー作戦”が失敗すると、VMFA-323のF-4は、米国の全ての支援船がペルシャ湾とオマーン湾を出るまで、24時間体制で任務を遂行した。同飛行隊は、その功績により大統領単位勲章 Presidential Unit Citationを授与された。同飛行隊は102日連続の海上勤務の後、スービック・ベイ Subic Bayに帰着した |
1982/9 |
1982年9月14日、VMFA-323は現在の航空機であるF/A-18に移行した |
1985/10 |
1985年10月、同飛行隊は再びコーラル・シーに乗り込み、今度は地中海に派遣された |
1986春 |
1986年春、リビア沖の国際水域と空域で航行の自由を守るための演習が行われた。1986年4月15日、“エル・ドラド・キャニオン作戦 Operation
El Dorado Canyon”において、SAMの制圧と戦闘機によるCAP(Combat Air Patrol)出撃を実施した |
1994 |
1994年、1995年、1997年、1999年、2001年、“デス・ラトラーズ”は“サザン・ウォッチ作戦 Operation Southern
Watch”を支援するミッションを飛行した |
2002/11/2 |
2002年11月2日、VMFA-323はCVW-2の一員として汎用航空母艦コンステレーション Constellation(CV-64)に配備され、“サザン・ウォッチ作戦”を実施。この派遣期間中、“デス・ラトラーズ”は“サザン・ウォッチ作戦”からイラク・フリーダム作戦に移行し、戦争開始初日の夜にバグダッドに出撃した |
2005/5/2 |
2005年5月2日、VMFA-323の2機のF/A-18C(Bu.No. 164721とBu.No. 164732)が原子力汎用航空母艦カール・ヴィンソン Carl Vinson(CVN-70)からの出撃中にイラク中南部の上空で衝突し、副長と下級士官が死亡した |