日付 |
主な出来事 |
1951/1/29 |
VP-44は9機のPBM-5を装備した水上機飛行隊として、ヴァージニア州ノーフォークのブリージー・ポイント Breezy Pointに設立され、FAW-5の作戦統制下に置かれた。到着後、新しい搭乗員はコーパス・クリスティ海軍航空基地 NAS Corpus Christi(テキサス州)に送られ、マリナー機体の飛行訓練を受けた |
1951/5〜8 |
VP-44はバミューダに配備され、“コンヴェックス2艦隊演習 Convex Two fleet exercises”で哨戒飛行と護衛飛行を行った。6月に演習が終了すると、飛行隊はサン・ファンに向かい、小型水上機母艦ティンバリエ Timbalier(AVP-54)の支援を受けた。6機の分遣隊は1951年8月までニューファンドランドのアルジェンティアで維持され、飛行隊はヴァージニア州のノーフォーク海軍航空基地
NAS Norfolkに戻った |
1952/1〜3 |
VP-44は前進基地作戦のためにバミューダに展開した。配備中、乗員はP5M-1の訓練のためにマサチューセッツ州ボルティモアに送られた。3月には分遣隊がキューバに派遣され、小型水上機母艦ダックスベリー・ベイ Duxbury Bay(AVP-38)の支援を受けた。1952年3月、飛行隊はノーフォーク海軍航空基地に帰還した |
1952/4/23 |
VP-44は最初のP5M-1マーリンを受領。この飛行隊の新しい36t水上機は海軍の哨戒飛行隊で初めて使用された。PBMシリーズよりも優れた旋回半径、新しいASWとレーダー装備、頑丈な船体設計、より強力なエンジンを備えていた |
1953/7/13 |
エンジン・トラブルが発生したクルー10 Crew 10(Bu.No. 126503)が海上で墜落し、飛行隊は最初の犠牲者を出した。この墜落で11名の乗員のうち7名が死亡した |
1954/7/15〜9 |
VP-44はウェールズのペンブルック・ドック Pembroke Dockに配備され、水上機母艦カリタック Currituck(AV-7)の支援を受けて15日間の作戦を行った。飛行隊は8月上旬に英国を出発し、地中海に向かった。地中海の多くの港を訪問した後、飛行隊は1954年9月6日にヴァージニア州ノーフォーク海軍航空基地に帰還した。この派遣は、P5Mマーリンが“池を越えて
across the pond”ヨーロッパに飛来した最初の機会となった |
1955/1〜6 |
VP-44は新型尾翼P5M-2の最初の機体を受領した。この機体は、水平安定板が以前の機体のように垂直尾翼の基部ではなく上部に配置されていることから、この名が付けられた。改良されたパワーと耐久性に加え、新型機には磁気異常探知機(magnetic
anomaly detection: MAD)が装備され、飛行隊の電子能力が強化された。飛行隊は6月1日までに全機を受領した |
1955/2 |
VP-44は潜水艦からの給油実験を行った。特別に装備されたP5M-1が移動中の潜水艦タンカーに曳航されたこの実験は、非常に成功したと判断された |
1955/2 |
1955年2月 VP-44は、同飛行隊がノース・カロライナ州ナグズ・ヘッド Nag's Head沖で潜水艦との接触を調査するために警戒態勢に入ったことをメディアが知り、全国的なTVニュースとなった。飛行隊が30分で出撃し、24時間態勢で対応したことは、国民に好印象を与えた |
1956/5/7〜11 |
VP-44の4機のP5Mマーリンは、潜水艦を浮遊基地として外洋で活動するための試験分遣隊を編成した。マーリンはフロリダ州キー・ウェストとタンパのドライ・トートゥガス島
Dry Tortugas Island沖で調査潜水艦[実験潜水艦]ガヴィナ Guavina(AG(SS)-362)から燃料を補給した。この訓練は、基地が確立されていない地域で水上機に機動性を与え、飛行隊のテンダーが敵の発見を避けるために潜水したままでいられるようにするためのものだった。ガヴィナは艦尾タンクに航空燃料を搭載し、搭乗員を艦上に停泊させ、給餌し、後方支援を行い、限られた予備部品と兵器を搭載した |
1959/5/1 |
まだ残っていたレンドリース契約の条件に基づき、フランス海軍は10機のP5Mマーリンの全飛行隊を貸与された。VP-44はバージニア州ノーフォーク海軍航空基地将校と下士官を訓練することになった。訓練終了後、フランス海上哨戒飛行隊は本拠地である西アフリカのダカールに向かった |
1960/2/13 |
R. W. マイヤーズ大尉 Lieutenant R. W. Myersと乗員は、P5M-2マーリン(coded LM-8)の右舷エンジンが炎上したため、プエルト・リコのサン・ファンから360マイル離れた外洋への緊急着陸を余儀なくされた。乗員は消火を行い、マイヤーズ大尉は航空機を最も近い陸地、約200マイル離れたバハマのグランド・ターク島
Grand Turk Islandに向けてタキシングを開始した。駆逐艦アボット Abbot(DD-629)は23時間のタキシングの間、機体のあとを追った。グランド・ターク島では、水上機母艦アルベマール Albemarle(AV-5)が機体に燃料を補給し、そののち、キューバのグアンタナモ湾へ向けて1基の良好なエンジンで10ktでタキシングする機体とともに航行した。この水上機は2日半で約520マイルをタキシングし、外洋タキシングの世界記録を樹立した |
1960/12 |
VP-44は水上機P5Mマーリンから陸上機P2Vネプチューンへの移行を開始。クルーはフロリダ州ジャクソンヴィル海軍航空基地 NAS Jacksonvilleで訓練を受け、1961年4月に飛行隊はP2Vの運用を開始した |
1961/10/4 |
VP-44はシシリー島のシゴネラ海軍航空施設 NAF Sigonellaに配備され、地中海での数多くの艦隊演習と大西洋での“マーキュリー計画
Project Mercury”に参加した |
1962/4/1〜8/3 |
VP-44は、P3V-1(のちにP-3Aと改称)を受領した2番目の大西洋艦隊哨戒飛行隊に指定され、恒久的な勤務地の変更を受けた。飛行隊はヴァージニア州ノーフォーク海軍航空基地からマサチューセッツ州パタクセント・リヴァー海軍航空基地
NAS Patuxent Riverに移った。VP-44は8月13日に最初の新型P3V機を受領した。飛行隊は10月に作戦開始を宣言された |
1962/10/20 |
ロバート M. マクナマラ国防長官 Defense Secretary Robert M. McNamaraは、キューバに対する潜在的な作戦を支援するため、現役部隊と予備部隊の増強を呼びかけた。彼はのちに、“キューバ危機に関連して重要だったのは哨戒機だった。我々は、西半球に向かって移動するソ連の全ての船の位置を特定しなければならなかったが、我々はその位置を知らなかった。それは途方もない作戦だった。そのためには空軍機と海軍機の両方が必要だった。それぞれ不足していた”。VP-44は、ソヴィエトのミサイルがソヴィエトに返還された際、ロシアの貨物船Anasovの上空で近接監視飛行をしていたLM-4機が撮影され、ある種の国際的な評価を得た。Anasovは、甲板に貼り付けられたミサイルを全て公開することを拒否した唯一のロシア船であった。VP-44の航空機は、ミサイルと思われる8つの大きな長方形の物体が甲板上にあることを確認し、船の航行を許可した |
1968/5/27 |
“ゴールデン・ペリカンズ Golden Pelicans”は、5月21日にアゾレス諸島の南50マイルで消息を絶った不運な原子力攻撃型潜水艦スコーピオン Scorpion(SSN-589)の捜索を支援するため、哨戒飛行隊やその他の海軍部隊に招集された。無駄な捜索は6月5日に中止された。スコーピオンは1968年6月30日に海軍リストから抹消された。同年10月下旬、アゾレス諸島の南西400マイルの水深10,000フィートでスコーピオンの残骸が発見された。沈没の原因は特定されていない |
1970/7/10 |
“ゴールデン・ペリカンズ”飛行隊は恒久的な任務地の変更を受け、パタクセント・リヴァー海軍航空基地(マサチューセッツ州)からブランズウィック海軍航空基地
NAS Brunswick(メイン州)に移転した。そして飛行隊はFAW-3の作戦統制下に入った。年以内にブランズウィック海軍航空基地のFAW-3は解散し、FAW-5はノーフォーク海軍航空基地(ヴァージニア州)からブランズウィック海軍航空基地に移され、同地とパタクセント・リヴァー海軍航空基地に駐留する哨戒飛行隊で構成された |
1970/7/15 |
荷解きもそこそこに、飛行隊はスペインのロタ Rotaに分割配備され、ブランズウィック海軍航空基地に残った飛行隊は新天地に落ち着いた。配備中、“ペリカンズ”はヨルダン危機の際に艦隊を支援するよう要請され、その結果、飛行隊の残りは第6艦隊
6th Fleetの戦力を増強するためにロタ海軍基地 NS Rotaに命じられた。同飛行隊の活躍により、同飛行隊は初の功労部隊表彰 Meritorious Unit Citationを受けた |
1971/2/24〜5 |
4月22日、VP-44は3機と4名の乗員からなる分遣隊をキューバのグアンタナモ・ベイ海軍航空基地 NAS Guantanamo Bayに派遣し、デュヴァリエ大統領の死後、ハイチ沿岸を24時間監視した。4月29日、この分遣隊はルーズヴェルト・ローズ海軍基地 NS Roosevelt Roadsに移転し、夜間の監視のみに縮小された。分遣隊は5月6日に活動を終了し、バミューダ海軍航空基地
NAS Bermudaに戻った |
1972/4/18〜6 |
VP-44はバミューダ海軍航空基地 NAS Bermudaとラジェス海軍航空施設 NAF Lajes(アゾレス諸島)に分割配備され、VP-45をリリーフした。追加の分遣隊は、地中海での艦隊との活動のため、必要に応じて一時的にクレタ島のソウダ湾
Soudha Bayを拠点とした。6月3日、ロタ分遣隊の航空機Bu.No. 152182がモロッコのジェスベル・ムサ Jesbel Musa近くの山岳地帯に墜落。乗員14名全員が死亡した。墜落の原因は特定できなかった |
1974/11/12 |
VP-44はVP-23の後任としてスペインのロタ海軍航空施設 NAF Rotaに配備された。分遣隊はアゾレス諸島のラジェスに維持された。この時期のASW作戦の成功により、同飛行隊は2度目の功労部隊賞を受賞した |
1980/9/3 |
VP-44は沖縄の嘉手納海軍航空施設 NAF Kadenaに配備された。同飛行隊は西太平洋とインド洋全域で活動し、戦闘群支援のための最初のハープーン対応機を提供した |
1985/6/19〜7/13 |
VP-44は、飛行隊員が家族と過ごす時間を確保するため、恒例の配備前の待機期間に入った。ソヴィエトはこの時期を選んで、大西洋西部で12隻の核弾道ミサイル潜水艦と誘導ミサイル潜水艦が参加する、第二次大戦後最大規模のASW演習を行った。東海岸の海軍哨戒飛行隊は24時間態勢で作戦を展開した。演習が徐々に終了すると、“ゴールデン・ペリカンズ”はねぐらに戻り、来るべき配備に備えた。1985年7月13日、飛行隊はスペインのロタとアゾレス諸島のラジェスに展開し、艦隊と追跡演習を行った |
1986/11/10 |
VP-44はVP-8の後任としてアイスランドのケフラヴィーク Keflavikに展開。飛行隊の新型レーダーAN/APS-137が初めて運用条件下で使用された |
1991/6/28 |
VP-44はメイン州ブランズウィック海軍航空基地にて閉隊 |