VFA
戦闘攻撃飛行隊 Fighter Attack Squadron

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※ABは飛行場(Air Base)の略。MCAAFは海兵航空補助施設(Marine Corps Auxiliary Air Facility)の略。NAFは海軍航空施設(Naval Air Facility)の略。NASは海軍航空基地(Naval Air Station)の略。NAASは海軍航空補助基地(Naval Auxiliary Air Station)の略。NSは海軍基地(Naval Station)の略(ABC順)
※第101戦闘攻撃飛行隊(Strike Fighter Squadron 101: VFA-101)は“グリム・リーパーズ Grim Reapers”とも呼ばれ、フロリダ州エグリン空軍基地 Eglin AFBを拠点とするアメリカ海軍の艦隊代替飛行隊(United States Navy Fleet Replacement Squadron: FRS)である。1990年代半ばにF-14トムキャットの西海岸FRSであるVF-124が閉隊したのち、VF-101が唯一のF-14 FRSとなった。当時はヴァージニア州のオシアナ海軍航空基地 NAS Oceanaを拠点としていた。F-14の退役に伴い、VF-101は2005年に活動を停止した。2012年に再活性化され、第101戦闘攻撃飛行隊(VFA-101)と改名された。2019年に不活性化されるまでは、2つのF-35CライトニングIIFRSのうちの1つであった。アメリカ太平洋艦隊 U.S. Pacific Fleetのアメリカ海軍打撃戦闘航空団 U.S. Navy's Strike Fighter Wingの下部組織として、フロリダ州エグリン空軍基地拠点とし、第33戦闘航空団(33d Fighter Wing: 33FW)と統合されていた

↑Image courtesy of en.wikipedia.org.

所在地 駐留日
NAS Cecil Field 1952/5/1
NAS Oceana 1960/6
NAS Key West 1970/6
NAS Oceana
航空機の割り当て 初受領日
FG-1D 1952
F2H-2
F4D-1 1956
F3H-2
F4H-1 1960/6
F-4J 1967/8
F-14A 1976/1
F-14B 1988
F-14D 1996
F-35C 2012
日付 主な出来事
2つの異なる飛行隊が“グリム・リーパーズ Grim Reapers”と呼ばれており、VF-10とのちのVF-101である。公式には、アメリカ海軍は同じ名称やニックネームで新しい飛行隊が結成された場合、廃止された飛行隊との直接の血統を認めない。多くの場合、新しい飛行隊は以前の飛行隊のニックネーム、記章、伝統を引き継ぐ
1952/5 1952年5月1日、フロリダのセシル・フィールド海軍航空基地 NAS Cecil FieldにVF-101が設立された。この新しい飛行隊はそれまでの“グリム・リーパーズ”のニックネームと伝統を引き継ぎ、朝鮮戦争ではFG-1Dコルセアを飛行させた。そののち1952年、VF-101はジェット・エンジンのF2H-2バンシーを受領。飛行隊は攻撃航空母艦ミッドウェー Midway(CVA-41)の第1空母航空群 Carrier Air Group 1に配属され、1954年12月27日から1955年7月14日の間に地球を一周した
1956 1956年、VF-101は初のレーダー搭載機であるF4D-1スカイレイに移行した。同飛行隊は1957年9月3日から10月22日までの“NATOストライクバック作戦 NATO Operation Strikeback”の間、攻撃航空母艦サラトガ Saratoga(CVA-60)に搭載された第7空母航空群 Carrier Air Group 7に配属された
1958/4 1958年4月、VF-101は大西洋艦隊全天候訓練部隊 Fleet All Weather Training Unit Atlanticと統合され、F4D-1とF3H-2ディーモンの両方で全天候戦闘機パイロットの訓練を開始した。訓練組織の一部となったことで、VF-101は第4即応攻撃空母航空団 Readiness Attack Carrier Air Wing 4の一部となり、配備可能な部隊ではなくなった
1960/6 1960年6月、VF-101はF4H-1ファントムIIを運用するA分遣隊 Detachment Aをオシアナ海軍航空基地 NAS Oceanaに設立した。1962年の終わりまでに、スカイレイとディーモンはF-4に取って代わられた。A分遣隊は解散し、F-4の訓練はフロリダのキー・ウェスト海軍航空基地 NAS Key Westに移った
1966/5 。1966年5月1日、新しい分遣隊がオシアナ海軍航空基地で、主に空中給油、空母資格、通常兵器の分野で代替パイロットとレーダー迎撃士官(Radar Intercept Officer)を訓練するために結成された。キー・ウェスト分遣隊 Key West unitは空対空戦闘、ミサイル発射、レーダー迎撃技術に集中した
1967/8 1967年8月、VF-101はF-4Jを受領した
1970/6 1970年6月1日、VF-101の司令部であった第4即応攻撃空母航空団は解体され、VF-101は司令部を艦隊航空キー・ウェスト Fleet Air Key Westに移管した。この移動はわずか1年しか続かず、飛行隊はキー・ウェスト海軍航空基地からオシアナ海軍航空基地へ移動し、第1戦闘航空団司令官 Commander Fighter Wing Oneの指揮下に入った。分遣隊は2000年代までキー・ウェストに残った。1971年7月6日から12月16日まで、VF-101 Det. 66は攻撃航空母艦アメリカ America(CVA-66)の第8空母航空団 Carrier Air Wing 8に配属され、地中海に派遣された
1976/1 1976年1月、VF-101はF-14トムキャットの運用と搭乗員および整備員の指導を開始した。1975年と1976年に飛行隊はCNO航空安全賞 CNO Aviation Safety Awardを受賞し、1976年11月には36ヶ月連続無事故を達成し、4度目の安全表彰 Safety Citationを受けた
1977/8 1977年8月5日、VF-101のF-4訓練部門はVF-171という別の新しい飛行隊に分割され、最後の2つのオシアナF-4飛行隊(VF-74とVF-103)がトムキャットに移行し始めた1984年に解散するまでF-4クルーの訓練を続けた。VF-101は引き続きF-14乗員の訓練を行った
1986 1986年、VF-101は3年間無事故を達成し、ふたたび安全表彰を受け、1988年3月には3度目のCNO安全賞を受賞した。同年、VF-101はF-14A+(のちにF-14Bと改称)の受領を開始した。これはF-14Aの低出力でトラブルの多かったエンジンを、燃費を改善し、F-14Aより14,600ポンド(65,000ニュートン)推力を増加させた新エンジンに改良したものである。新しい燃費のおかげで、F-14Bは駐機時間が3分の1に、航続距離が60%伸びた。1989年9月28日にF-14A+で高度32,000フィート(9,753.6m)において、ミリタリー推力によるマッハ1.08での2分間のクルーズを記録(月刊「航空ファン」1990年9月号より)
より大きなF-14からF-16Nへのガン・キルを可能にした異種空戦訓練(Dissimilar Air Combat Training: DACT)技術を開発したキース“オッキー”ナンス中佐 CDR Keith "Okie" Nanceにまつわる話である。キー・ウェスト海軍航空基地を取り囲む美しい天候と手つかずの海は、太陽を求める人々やDACTにとって理想的だった。1989年まで、最後の敵機は驚異的な推力重量比と9Gの旋回能力を持つF-16N“ヴァイパー”だった。これはトムキャット搭乗員にとって、天候を利用するためにキー・ウェストから通常実施される艦隊即応飛行隊(FRS)戦術フェーズの間、機体との戦い方を学ぶための手強い敵となった。 経験豊富なトムキャット・パイロットは、トムキャットが有利に飛行し、F-16Nが勝てる状況に近づかなければ、F-16Nといえどもそれほど無敵ではないことを知った。この種の遭遇戦の名手の一人はキース“オッキー”ナンス中佐で、彼はF-16Nに怯むことなく、いわゆる“電話ボックス phone booth”での“ナイフ・ファイト”で日常的にF-16Nに挑み、勝利を収めていた。“オッキー”はVF-101のF-14A+とVF-43のF-16Nを遭遇させ、勝者はただ一人という一騎打ちに突入した。“オッキー”はF-16Nがエネルギーを消耗しているため、トムキャットのピッチングとエネルギー維持能力を利用し、すぐに不利な状況に追い込まれる。トムキャットは高度差を利用してF-16Nの後方に引き込み、M61ヴァルカン砲で対処する。“オッキー”のような経験豊富なトムキャット・パイロットは、“スーパー・フォックス Super Fox”として知られるF-16NやA-4Fスカイホークのような軽快な敵を相手にすることができたが、彼らが使った戦術は、VF-101で指導を受けている補充搭乗員にも伝授され、彼らも同様の偉業を成し遂げることができた。参考文献:THE AVIATION GEEK CLUB
1990/8 主にカリフォルニア州ミラマー海軍航空基地 NAS MiramarのVF-24が率いるフリートの献身的な努力の1年ののち、1990年8月8日にフリート・トムキャットによる史上初の爆弾投下任務が行われた(VF-24/VF-211の共同分担機)。続いて1990年9月12日、VF-101トムキャットが東海岸で初めて“フリート機”から爆弾を投下した。それまでトムキャットは、当初は戦闘機としても攻撃機としても十分な能力を持つように設計されていたにもかかわらず、空対空の役割に厳格に割り当てられていた。1990年代から2000年代初頭にかけて、VF-101はVX-4と西海岸の飛行隊で培った基礎の上に、空対地兵器の訓練を追加し続け、最終的には汎用爆弾、クラスター爆弾、レーザー誘導爆弾、空中発射デコイ、JDAMなど、あらゆる空対地兵器を網羅した
VF-101の西海岸カウンターパートであるミラマー海軍航空基地のVF-124は1994年に閉隊され、VF-101は唯一のF-14 FRSとなった。VF-101分遣隊はF-14クルーと地上要員の訓練を継続するためにミラマーに創設された。1996年にミラマー海軍航空基地がミラマー海兵航空基地 MCAS Miramarになると、すべてのF-14飛行隊はオシアナ海軍航空基地へ移転し、VF-101分遣隊は廃止された。この時期、飛行隊はトムキャットの最終型であるF-14Dを初めて受領した
F-14飛行隊がF/A-18E/Fスーパー・ホーネットに移行し始めると、VF-101の任務は減少した。この間、VF-101の機体には、VF-1、VF-21、VF-24、VF-33、VF-74、VF-84、VF-111、VF-142など、廃止されたF-14飛行隊のマーキングが施されていた。2005年に解散するまで、唯一のF-14 FRSであったVF-101は、一時は3種類すべてのF-14を130機も保有し、通用訓練 currency trainingと射撃場の安全のために少数のT-34メンターも保有していた
2005/9 VF-101は2005年9月30日、オシアナ海軍航空基地で行われた式典で活動を停止した。式典の名誉ある来賓として、フラットリー家(3世代にわたってVF-101のパイロットだった)の存続メンバーが出席し、飛行隊旗が贈呈された
2012/5 2012年5月1日、同飛行隊はフロリダ州エグリン空軍基地 Eglin Air Force Baseで再活性化され、第101戦闘攻撃飛行隊(Strike Fighter Squadron 101: VFA-101)と再指定された。同飛行隊は、管理上、海軍航空軍司令官およびアメリカ太平洋艦隊打撃戦闘航空団司令官 Naval Air Forces and Commander Strike Fighter Wing, U.S. Pacific Fleetの配下にあった
2014/11 2014年11月、VFA-101はF-35Cの無事故飛行時間1,000時間を突破した
2018/9 2018年9月10日、海軍作戦部長は "Deactivation of Strike Fighter Squadron One Zero One" の通達を公布した。2019年5月23日、VFA-101は活動停止を完了し、残りのF-35C FRSであるVFA-125“ラフ・ライダーズ Rough Raiders”に統合された。その資産と支援要員はVFA-125の本拠地であるNASリムーア海軍航空基地 NAS Lemooreへ移された

↑VFA-101 receives its first F-35C at Eglin AFB, 22 June 2013. Image courtesy of en.wikipedia.org.


Update 24/04/04