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主な出来事 |
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海軍の3つの飛行隊が“サンダウナーズ Sundowners”を名乗っている。アメリカ海軍は2つ以上の航空部隊に同じ呼称を与えることがしばしばあり、永続的な混乱につながる。公式には、アメリカ海軍は、同じ呼称で新しい飛行隊が結成された場合、廃止された飛行隊との直接的な血統を認めない。多くの場合、新しい飛行隊は、以前の飛行隊の愛称、記章、伝統を引き継ぐことになる。2006年11月、VFC-13キー・ウェスト分遣隊
VFC-13 Detachment Key WestはVFC-111として再指定され、“サンダウナー Sundowner”徽章とコールサインを引き継いだ |
1955/6/4 |
VA-156は、当初“アイアン・タイガース Iron Tigers”として知られ、1955年6月4日に設立され、F11F-1を使用していた。VA-156はCVW-11に配属され、攻撃航空母艦シャングリラ Shangri-La(CVA-38)で西太平洋に1回だけデプロイメントを行った。VF-111は1956年に攻撃航空母艦レキシントン Lexington(CVA-16)で西太平洋にデプロイメントを行う |
1961 |
1961年、“サンダウナーズ”の伝統的なマスコット“オマー Omar”は、F-8Dの移行を記念して、飛行隊の下士官兵によって考案された。この三角形の棒状の人物は、VF-111の機体や飛行隊のスペースに登場した。1960年代、VF-111は4つの異なるヴァージョンのクルーセイダー(F-8C/D/E/H)を飛行させた |
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ヴェトナム戦争中、サンダウナーズはカリフォルニア州のミラマー海軍航空基地 NAS Miramarに拠点を置き、飛行隊(分遣隊を含む)は東南アジアに10回配備され、12,500回の戦闘出撃を行っている |
1963/10/17 |
1963年10月17日から1964年7月20日まで、F-8Dを装備したVF-111は攻撃航空母艦キティ・ホーク Kitty Hawk(CVA-63)に配備された |
1965/3/6 |
1965年3月6日から11月20日まで、VF-111は攻撃航空母艦ミッドウェー Midway(CVA-41)に配備された。5月5日、F-8D Bu.No. 148637は北ヴェトナム上空で対空砲火を受け、海上に墜落した。パイロットのジェームズ・ラハヤ中佐 CDR
James LaHayeは戦死、遺体は回収されなかった。5月27日、F-8D Bu.No. 148706はVinh付近で撃墜され、パイロットのドイル・リン中佐 CDR Doyle Lynnは戦死、遺体は未回収。8月12日。F-8D Bu.No. 147911が撃墜された。パイロットのジーン・ゴラホン中尉 LTJG Gene Gollahonは戦死し、遺体は1974年3月に返還された。11月3日、F-8D Bu.No. 148635が撃墜された。パイロットも無事脱出し救助された |
1966/5/26 |
1966年5月26日から11月16日まで、F-8Eを装備したVF-111は攻撃航空母艦オリスカニー Oriskany(CVA-34)に配備された。4月6日、F-8E Bu.No. 150296が失われ、パイロットは脱出に成功して救助された。8月11日、F-8E Bu.No. 150880が油圧故障により失われ、パイロットは脱出に成功して救助された。8月13日、F-8E Bu.No. 150866が対空射撃を受けて、パイロットは脱出して無事に救助された。8月23日、F-8E Bu.No. 150907はエンジン故障により行方不明となり、パイロットは脱出に成功し救助された。9月5日、F-8E Bu.No. 150896は対空砲火を受け、パイロットであるアメリカ空軍交換将校ウィルフレッド・キース・アボット大尉 Capt
Wilfred Keese Abbottは無事に脱出、1973年4月に捕えられ解放されている |
1967/5/11 |
1967年5月11日から12月30日まで、F-8Cを装備したVF-111第11分遣隊 VF-111 Detachment 11、“オマーズ・オーファンズ
Omar's Orphans”は対潜航空母艦イントレピッド Intrepid(CVS-11)に配備されていた。大西洋艦隊の対潜空母であったイントレピッドは、攻撃空母としてCVW-10とともにヴェトナムに3度派遣された。8月12日、F-8C Bu.No. 146993が撃墜され、パイロットは海から救助された。10月26日、オリスカニーの火災で飛行隊の3名が死亡した |
1967/6/16 |
1967年6月16日から1968年1月31日まで、F-8Cを装備したVF-111はオリスカニーに配備された。7月31日、F-8C Bu.No. 146993はSA-2の攻撃を受け、パイロットのチャールズ・ズホスキー大尉 LT Charles Zuhoskiは脱出に成功し、捕虜となり1973年3月14日に解放された。9月8日、F-8C Bu.No. 146929は電気故障により失われたが、パイロットは脱出に成功し救助された。10月5日 F-8C Bu.No. 146138は撃墜される。そのパイロットであるデイヴィッド・ポール・マセニー少尉 ENS David Paul
Mathenyは脱出に成功したが捕虜となり、北ヴェトナムによる早期解放の申し出を受け入れた12名のアメリカ人捕虜の一人として、1968年2月16日に解放された。12月5日にはF-8C Bu.No. 146907が撃墜されたがパイロットは脱出に成功し救助された。1968年1月2日にF-8C Bu.No. 146989はVinh近くで撃墜されるがパイロットは脱出して救助された |
1968/6/4 |
1968年6月4日から1969年2月8日まで、VF-111第11分遣隊はイントレピッドに配備されていた。9月19日、トニー・ナルージ大尉 Lieutenant Tony Nargiはヴェトナム人民空軍(VPAF)のMiG-21をAIM-9で撃墜した |
1969/2/4 |
1969年2月1日から9月18日まで、F-8Hを装備したVF-111は攻撃航空母艦タイコンデロガ Ticonderoga(CVA-14)に配備された。7月6日、F-8H Bu.No. 148636はエンジン故障により行方不明となったが、パイロットは無事脱出し、救助された |
1970/3/5 |
1970年3月5日から12月17日まで、VF-111はシャングリラに配備されていた |
1971/11/12 |
1971年11月12日から1972年7月17日まで、F-4Bを装備したVF-111は攻撃航空母艦コーラル・シー Coral Sea(CVA-43)に配備された。1972年3月6日、ゲリー・ウェイガンド大尉 LT Garry Weigandとビル・フレックルトン中尉 LTJG Bill Freckletonは北ヴェトナムのクアン・ラン飛行場
Quang Lang Airfield付近でVPAF MiG-17と交戦して撃墜した。彼らの機体、F-4B、Modex No. NL-201、Bu.No. 153019は、現在の“サンダウナーズ”飛行隊、VFC-111によってオリジナルの塗装に復元され、フロリダ州キー・ウエストのメインゲート内側の台座に飾られている |
1973/3/9 |
1973年3月9日から11月8日まで、VF-111はコーラル・シーに配備された |
1971 |
1971年、VF-111はCVW-15に参加し、F-4Bに移行した。そののち、同飛行隊はファントムIIのF-4Nヴァージョンに移行したが、これをF-4Jに切り替える予定であった |
1975 |
1975年、VF-51とVF-111はともに6機のF-4Jを受け取ったが、次の配備に関する運用上の配慮から、2つの部隊は“N”モデルに戻した。1976年後半から1977年前半にかけて、VF-111は太平洋艦隊の飛行隊としては珍しく大西洋と地中海にデプロイメントし、CVW-19が汎用航空母艦フランクリン D. ルーズヴェルト Coral Sea(CV-42)の最後のクルーズに参加した。1977年4月、ミラマー海軍航空基地に戻った飛行隊は、F-14Aへの移行を開始。1978年10月までに、VF-111はブロック100モデルのF-14Aに完全移行した |
1979/5 |
VF-111はそののち、1979年5月から1980年2月まで、汎用航空母艦キティ・ホーク(CV-63)のCVW-15とともに派遣された。この派遣は、1979年11月のイラン・テヘランのアメリカ大使館占拠のため、当初予定の1979年12月初旬の終了日から延びた。この間、同飛行隊はキティ・ホークからイラン沿岸の南インド洋で活動し、原子力汎用航空母艦ニミッツ Nimitz(CVN-68)とCVW-8の飛行隊に救援された |
1980 |
1980年の最初の2ヶ月間の“延長”デプロイメントに加え、VF-111は1981年4月から10月までキティ・ホークで最終デプロイメントした。1983年10月、VF-111はCVW-15とともに原子力汎用航空母艦カール・ヴィンソン Carl Vinson(CVN-70)の処女航海を終え、本拠地であるミラマー海軍航空基地に帰還した |
1988 |
VF-111の1988年の派遣は6月に始まり、12月に終了した。北/西太平洋、アラビア海、インド洋での作戦を含み、ペルシャ湾でのタンカー護衛を支援し、ベーリング海の通過を含み、4回の派遣で4回目の通過となった。1990年の配備に備え、VF-111は1989年9月から11月にかけてカール・ヴィンソンでPACEX
89に参加した。この演習では、第二次大戦後最大の海軍演習の一環として、ベーリング海、太平洋、日本海で“サンダウナーズ”が活動した |
1990 |
“サンダウナーズ”は次に1990年2月から7月まで配備された。VF-111は、演習ミサイル発射の成功により1990年ブーラブーラ賞 1990 Boola Boola awardと、西海岸で最も優れた戦術航空偵察飛行隊に贈られる1990年戦術航空偵察ポッドシステム(TARPS)ダービー 1990 Tactical Air Reconnaissance Pod System (TARPS) derbyを受賞 |
1991 |
1991年10月15日、VF-111はキティ・ホークに戻り、フィラデルフィア海軍造船所 Philadelphia Naval Shipyardでの包括的な複数年サーヴィス寿命延長プログラム(Service
Life Extension Program: SLEP)ののち、ヴァージニア州のノーフォーク海軍航空基地 NAS Norfolkから南米の“角を回って”カリフォルニア州のノース・アイランド海軍航空基地
NAS North Islandまで2ヶ月のクルーズを行った。ヴェネズエラ、アルゼンチン、チリとの多国間演習は、様々な空対空や攻撃シナリオで実施された。1991年12月、“サンダウナーズ”はミラマー海軍航空基地に帰還した |
1993 |
1993年、VF-111は太平洋、インド洋、ペルシャ湾に展開し、“リストア・ホープ作戦 Operation Restore Hope”と“サザン・ウォッチ作戦
Operation Southern Watch”を支援するために飛行した。1994年、VF-111は再び太平洋に派遣された。この展開ののち、冷戦後の海軍のF-14コミュニティーの戦力削減の一環として、1995年3月31日に飛行隊は閉隊され、その航空機は他のF-14飛行隊に割り当てられた |
2006/11 |
2006年11月、第13混成戦闘飛行隊(Fighter Composite Squadron 13: VFC-13)キー・ウェスト分遣隊 Detachment
Key Westは第111混成戦闘飛行隊(Fighter Composite Squadron 111: VFC-111)として設立され、“サンダウナー”の伝統は引き継がれたが、部隊の系統は引き継がれない |
1985年、VF-111はミラマー海軍航空基地を拠点とするいくつかの飛行隊の一つとして、映画会社パラマウントの映画「トップ・ガン Top Gun」の撮影に参加した。VF-111とVF-51の機体は、映画のために架空の飛行隊のマークに塗り替えられたものもあった。撮影のため、F-14は腹部フェニックス・パレットや翼下パイロンに取り付けられたポッドにカメラを搭載し、地上カメラも使用された。また、クラレンス・ギリヤード Jr. Clarence Gilyard, Jr. が演じる架空のRIOのLTJG Marcus "Sundown" Williamsは、コールサイン“サンダウン Sundown”を使い、フライトスーツにVF-111スタイルのヘルメットと飛行隊のパッチをつけている |