小型救難雑船(自走、非自走)
アイコン | 意味 |
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません | |
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです | |
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です | |
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です | |
インターネットやTVゲームに登場する事柄です | |
UFOなど超常現象に遭遇した事柄です |
- ※艦種記号は、当初は(Y)LLCだったが後にYLLCと変更される
- ※データは戦車揚陸艇LCT(6)型の項を参照
↑YLLC-5 under way, date and location unknown. US Navy photo. Image courtesy of NavSource.
艦種記号 | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
YLLC-1 | メア・アイランド海軍工廠 | ◎後に艦種を小型救難雑船(YLLC-1)に改める ◎スービック湾にてHarbor Clearance Unit 1に配属 ◎1970/10/29 運用終了、南ヴェトナムのCat Lo Naval Support Activityにて南ヴェトナムに貸与され艦種記号をHQ-560に改める |
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(Y)LLC-2 | メア・アイランド海軍工廠 | 1971/7/15 | ◎1967/2 スービック湾にて艦種を小型救難雑船((Y)LLC-2)に改める ◎スービック湾にてHarbor Clearance Unit 1に配属 ◎1967 ヴェトナムにて艦種を小型雑船(LLC-2)に改める ◎1967 小型救難雑船(YLLC-2)に改める ◎1967/6/1 ヴェトナム戦争中、戦域に割り当てられる(Vietnamese Counteroffensive - Phase III、~1968/1/29) 1967/10/9 Dong Tamにて共産軍の82㎜迫撃砲により損傷(1、2)、後に修理(~1967/10/15) ◎1968/1/30 ヴェトナム戦争中、戦域に割り当てられる(Tet Counteroffensive、~1968/4/1) ◎1968/4/2 ヴェトナム戦争中、戦域に割り当てられる(Vietnamese Counteroffensive - Phase IV、~1968/6/30) ◎1968/7/1 ヴェトナム戦争中、戦域に割り当てられる(Vietnamese Counteroffensive - Phase V、~1968/11/1) ◎1968/11/2 ヴェトナム戦争中、戦域に割り当てられる(Vietnamese Counteroffensive - Phase VI、~1969/2/22) ◎1969/2/23 ヴェトナム戦争中、戦域に割り当てられる(Tet/69 Counteroffensive、~1969/6/8) ◎1969/5/5 ノーフォークにてHarbor Clearance Unit 2に配属 ◎1969/6/9 ヴェトナム戦争中、戦域に割り当てられる(Vietnam Summer-Fall 1969、~1969/10/31) ◎1969/11/1 ヴェトナム戦争中、戦域に割り当てられる(Vietnam Winter-Spring 1970、~1970/4/30) ◎1970/4 運用終了、陸軍に移管 ◎1970/5/1 ヴェトナム戦争中、戦域に割り当てられる(Sanctuary Counteroffensive、~1970/6/30) ◎1970/7/1 ヴェトナム戦争中、戦域に割り当てられる(Vietnamese Counteroffensive - Phase VII、~1971/6/30) ◎1971/7/1 ヴェトナム戦争中、戦域に割り当てられる(Consolidation I、~1971/9/30) |
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YLLC-3 | |||||
YLLC-4 | Bison Shipbuilding Corp. | ◎後に艦種を小型救難雑船(YLLC-4)に改める ◎スービック湾にてHarbor Clearance Unit 1に配属 1968/11/15 Ben Tre近郊にて共産軍の工兵の攻撃により沈没 |
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YLLC-5 | Bison Shipbuilding Corp. | 1971/7/15 | ◎1967/9/1 艦種を小型救難雑船(YLLC-5)に改める ◎スービック湾にてHarbor Clearance Unit 1に配属 ◎1970/10/29 南ヴェトナムのCat Lo Naval Support Activityにて運用終了 ◎1971/4 南ヴェトナムに貸与され艦種記号をHQ-561に改める |
- ※ハーバー・クリアランス・ユニット1 Harbor Clearance Unit 1は、1966年2月、“河川や制限水域でのサルヴェージ修理、潜水、救助サーヴィス、西太平洋での港湾や河川の清掃活動を行う”という任務で、アメリカ海軍の部隊として就役した。この任務の意図するところは、ヴェトナム戦争を直接支援するために、迅速に展開可能な潜水および救助チームを提供することであったと主張する者もいた。実際の意図が何であれ、このコンセプトは非常に効果的であることが証明され、ヴェトナム戦争終了間際に司令部はハワイ・真珠湾での継続的なサルヴェージ業務に移された。この部隊の役割は、海洋救助の全領域におよんでいる。HCU-1の分遣隊は、韓国からグアム、日本、フィリピンまで、アメリカ、南ヴェトナム、韓国、オーストラリア、ニュー・ジーランドの各軍隊を支援。サイゴン港 harbors of Saigonからメコン・デルタ Mekong Delta下流の河川、海岸線からカンボジア・ラオス国境付近の高地、非武装地帯からヴェトナム最南端のシー・フロートまで、南ヴェトナムの隅々をカヴァーしたのである。メコン川とその支流の濁流から、ヴェトナムで利用されているほぼ全ての種類の船舶を救助した。航空機、橋梁、トラック、戦車、トラクター、フォークリフト、フェリー、サンパン、蒸気船等の回収、修理、解体もサルヴェージと呼ばれる。第二次大戦中、チュニジアのビゼルト Bizerte、イタリアのナポリ Naples、フランスのシェルブール Cherbourg、フィリピンのマニラ Manilaやスービック湾の港湾の障害物を除去するために結成されたのが、ハーバー・クリアランス・ユニットの原型である。1966年2月1日にスービック湾に5名の士官と65名の下士官兵からなるハーバー・クリアランス・ユニット1(HCU-1)が設立された。部隊は第3群長 Commander Service Group 3の作戦管理下にあり、ヴェトナム分遣隊はヴェトナム海軍司令官 Commander, Naval Forces Vietnamの作戦管理下に置かれた。部隊就役の24日後、南ヴェトナムのチュー・ライ Chu Lai近郊にて商船シー・レイヴン Sea Ravenの引き揚げが行われた。この作戦は成功した。それから半年後、南ヴェトナムのロン・タウ川 Long Tau RiverにてVC2-S-AP2型貨物船バトン・ルージュ・ヴィクトリー Baton Rouge Victory(MCハル846)を引き揚げた。バトン・ルージュ・ヴィクトリーはサイゴン Saigon航路で沈没した最初のアメリカ船であった。大規模な作業が行われた。テンダー tender、スービックのスタッフ、そして全てのサポート要員が現場に招集された。小型救難雑船(自走、非自走)1隻を除く全ての司令部が参加した。バトン・ルージュ・ヴィクトリーとその$500,000以上の積荷は引き揚げられた。$50,000以上する世界最大のサルヴェージ・パッチは、HCU-1のスタッフがデザインし、貼り付けた。このパッチは、フィリピンのスービック・ベイ海軍造船所の船舶修理施設で製造された。1967年1月から2月にかけての2回目の主要な引き揚げ作業は、世界最大の浚渫船の1つである170フィート(51.81m)のジャマイカ・ベイ Jamaica Bayで、ドン・タム・ベース・キャンプ Đồng Tâm Base Campでの作業であった。この仕事は3つの浚渫船の最初の仕事であり、すべて似たようなサイズと構成で、すべてドン・タムで沈められ、1kmも離れていないものであった。サルヴェージ作業のほとんどは、国内に配備されたチームや船による単独作業で、細分化された作業となっている。また、大規模な作業は、多くの船や人員、資材を動員する必要があり、頻度は低い。大小にかかわらず、引き揚げと撤収作業は部隊の仕事であり、ヴェトナムへの取り組みに不可欠なものであった。HCU-1は創設以来、このような引き揚げ・撤収作業を行ってきた。11隻の座礁した大型船舶の引き揚げ4隻の大型沈没船の引き上げ水路を塞ぐ大型沈没船6隻の解体・撤去29隻の艀を揚収水路を確保するために取り壊された4隻の艀曳船6隻の浮揚水路を確保するために解体された曳船3隻22機の航空機の残骸を回収スウィフト、PBR、河用ボートの各ボート51隻を引き揚げ、沈没から救助12基の解体された橋梁を河川から撤去沈没した浚渫船5隻を引き揚げ水路を塞いでいた沈没浚渫船2隻を撤去戦車2両、水陸両用車4両、陸軍トラック8両を引き揚げ沈没した係留ブイ8基の引き揚げと修理コンクリート製ポンツーン・フェリー乗り場5カ所の浮揚ammi pontoonを利用した移動支援基地2カ所を定位置に係留ごみ収集車2台を損害から救うフォークリフト2台損害から救う6件の大火災を消火。HCU-1はヴェトナム人ダイヴァーを多数育成し、ヴェトナム化計画の中でアメリカ海軍のサルヴェージ資産を多数ヴェトナムに引き渡した。1971年7月1日、ハワイ真珠湾のビショップ・ポイント Bishop Point(ヒッカム空軍基地内)に移設された。そののち、救難雑船母船(非自走)YRST-1は本部隊に続き、1971年7月7日にスービック湾から艦隊航洋曳船チョワノック Chowanoc(ATF-100)に曳航され、真珠湾へ向かった。1971年7月30日にアルファ・ドック Alpha Docksに係留された後、1971年10月6日に真珠湾海軍造船所に移動し、改修が行われた。海軍/マカイ・レンジCY71ダイヴ・プロジェクト Makai Range CY 71 Dive Projectを支援するためのテイラー潜水システム Taylor Diving Systemの設置などの改造が行われた。 ハーバー・クリアランス・ユニット 1(HCU-1)は1982年1月にモバイル・ダイヴィング&サルヴェージ・ユニット1 Mobile Diving and Salvage Unit 1(MDSU-1)と改名された。人員は大幅に削減され、司令部はハワイ真珠湾のService Squadron 5の管理下にあるユニットとして移管された。また、250名以上の人員からなる6つの予備分遣隊を獲得した。MDSU-1潜水チームは20数年後、戦時中とは全く異なる目的で、より北の地へ戻ってきた。ヴェトナムは、沿岸の航空機沈没地点で戦死したアメリカ軍兵士の遺骨を調査・回収することをアメリカ政府に許可した。1995年10月、スキューバ・ダイヴィング調査隊が証拠収集のためにヴェトナムに派遣された。その結果、1名の身元が確認され、他の幾つかの身元は排除された。MDSU-1は1996年3月と4月にナン・アン Nang An省沖の幾つかの場所で回収作業を行った。ヴェトナム戦争での功績により、同隊は大統領部隊表彰 Presidential Unit Citation、海軍部隊表彰 Navy Unit Commendation、海軍功労部隊表彰 Navy Meritorious Unit Commendationを受章
Update 23/06/17