DDG
ミサイル駆逐艦

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です


軽荷排水量 3,277t

DDG-25~DDG-30は3,370t
満載排水量 4,526t

DDG-25~DDG-27は4,618t、DDG-28~DDG-30は4,720t
全長 133.20m

DDG-25~DDG-27は134.30m
14.30m
吃水 4.60m
主缶 バブコック&ウィルコックス式水管缶(重油専焼)4基

DDG-4~DDG-6、DDG-9、DDG-14、DDG-28~DDG-30はフォスターホイーラー式水管缶(重油専焼)4基

DDG-25~DDG-27はフォスターホイーラー式水管缶(重油専焼)2基

DDG-15~DDG-19はコンバッション・エンジニアリング式水管缶(重油専焼)4基
主機 ジェネラル・エレクトリック式オール・ギアード蒸気タービン2基

DDG-4~DDG-6、DDG-9、DDG-14、DDG-23、DDG-24はウェスティングハウス式オール・ギアード蒸気タービン2基
軸数 2軸
出力 100,000馬力(105,000馬力ともいわれる)
速力 32.0kt

DDG-25~DDG-27は30.0kt強
燃料搭載量(計画) 重油900t
航続力(計画) 20ktで4,500浬
兵装 ターターSAM連装発射機1基(DDG-15~DDG-24は単装発射機1基、のちにスタンダードMR SAM/ハープーンSSM発射機に換装)
アスロックSUM8連装発射機1基
54口径127mm単装両用砲2基(1966年に前部砲塔を撤去)
324mm3連装短魚雷発射管2基


DDG-25~DDG-27はスタンダードMR SAM単装発射機1基
アイカアラSUM単装発射機1基
54口径127mm単装両用砲2基
12.7mm単装機銃6基
324mm3連装短魚雷発射管2基

DDG-28~DDG-30はスタンダードSAM/ハープーンSSM単装発射機1基
RAM近接防御SAM21連装発射機2基
アスロックSUM8連装発射機1基
54口径127mm単装両用砲2基
機銃4基~6基
324mm3連装短魚雷発射管2基
爆雷投射機1基
乗員 333名~350名

DDG-25~DDG-27は333名、DDG-28~DDG-30は337名
レーダー LN-66航海レーダー1基(近代化改装後に装備)
SPS-10D対水上捜索レーダー1基(DDG-19、DDG-20、DDG-22は近代化改装後にはSPS-10Fに換装)
SPS-29対空捜索レーダーまたはSPS-37対空捜索レーダー1基(DDG-2~DDG-14は近代化改装後にはSPS-40B/D対空捜索レーダーに換装、それ以降の艦は最初から装備)
SPS-39A三次元対空レーダー1基(近代化改装後にSPS-52B/Cに換装)

Mk. 4武器指向システム(WDS)1基(DDG-9、DDG-12、DDG-15、DDG-19~DDG-22は近代化改装後にはMk. 13Mod. 4武器指向システムに換装)
Mk. 68砲射撃指揮装置(GFCS)1基(SPG-53A/Fレーダーを内蔵、のちにデジタル・コンピュータ・システムを組み込んだタイプをDDG-4~DDG-6、DDG-8~DDG-12、DDG-15、DDG-18が装備、何隻かはMk. 68電子光学センサー・システム(EOSS、赤外線探知装置とレーザー目標指示/測距装置)を装備、DDG-19、DDG-20、DDG-22は近代化改装後にはMk. 86Mod. 8砲射撃指揮装置に換装(SPG-60およびSPQ-9A各1基を内蔵))
Mk. 74ミサイル射撃指揮装置(MFGS)2基(SPG-51C、DDG-19、DDG-20、DDG-22は近代化改装後にはSPG-51Dに換装)
Mk. 111水中発射指揮装置(ASWFCS)1基(DDG-16~DDG-24はMk. 114水中発射指揮装置)
ソナー ソナー:SQS-23Aソナー(キール線上に装備、DDG-20~DDG-24は艦首に装備、のちにSQS-23A性能向上・統合化改善型(PAIR)に変更)
TAKAN SRN-6(近代化改装後にはURN-25に換装)
電子戦装置 WLR-1F迎撃装置(電波探知用、近代化改装後にはレイセオン式SLQ-32(V)2統合電子戦装置に換装)
ULQ-6B迎撃装置(電波妨害用、近代化改装後にはレイセオン式SLQ-32(V)2統合電子戦装置に換装)
SLQ-20一式(近代化改装後に装備)
Mk. 36 SRBOCデコイ・システム(近代化改装後に装備)
※DDG-19、DDG-20、DDG-22は近代化改装後にはターターSAMのMk. 13Mod. 0からMod. 5に換装、発射機そのものの換装はでなく、円筒型のミサイル弾倉のみが改修され、ハープーンSSMが最大6発まで収容できるようになった。搭載ミサイル数は40発で、内、34発はスタンダードMR SAMとなる。54口径127mm単装両用砲をMk. 42Mod. 7からMod. 10に換装。戦術情報処理装置NTDSのUYA-4指示機にSYS-1データ・システムを付加
※本級の改修計画は1976年に始まっていて、1977年2月には早くも海軍のJ. H. ドイル Jr. 中将 Vice Admiral James Henry Doyle, Jr. が1978会計年度に関する議会の聴聞会で、チャールズ F. アダムス級23隻全艦の改修について完全なデータを提示している。その際には改修の方法までもが示されるも実際に改修が行われた時には、規模はかなり縮小されたものとなってしまう。チャールズ F. アダムス級の改修では当初、所要経費を数年間の新建造予算(SCN)から抽出する意図があった点は特記に課するが、新建造予算を充てると改修計画も議会の予算の承認を得なければならなくなる。1978年には1隻あたりの改修費は最大で$113,000,000と推算され、1980会計年度から毎年6隻を改修し、1983会計年度に完了するという計画だった。この改修計画は“DDGアップデート”と最初の先行予算は1978会計年度と1979会計年度の予算枠の中で、それぞれ$94,500,000、$140,600,000ずつ要求された。しかし経費はドラスティックに上昇し、1979年には早くも1艦あたりの改修は$126,000,000~$179,000,000に見積もり直された。そのため、議会からは強い反対を招き、計画の規模は僅か10隻に縮小されてしまった。改修の対象とされたのはDDG-3、DDG-10、DDG-16~DDG-22、DDG-24であった。海軍側は1980会計年度にかけてのSCN予算を適用しようという働きを見せた。しかし、そのころには推定経費は1隻あたり$220,000,000の大台に跳ね上がった。議会はとてもこのような高額の経費は指示せず、とうとう改修計画そのものと、少なくともSCN予算の適用については中止してしまう。そこで海軍としては、本級の第2グループ(DDG-15~DDG-24)の10隻をSCN予算に含まれない艦艇整備予算を使って改修することとした。あわせて改修の程度を軽いものとし、計画の期間も太平洋、大西洋両岸の造船所が次に使用できる時期にまで延長した。この改修によりチャールズ F. アダムス級第2グループ各艦は実用寿命は35年となり、1990年代に入るまで一線に留まれるようになるはずだった。一方、チャールズ F. アダムス級第1グループとなる最初の13隻は艦齢が25年~28年に達したところで退役することになる。ところが、またもや厖大な改修費が問題となり、結局海軍自身が計画全体を縮小し、DDG-19、DDG-20、DDG-22の3隻のみに改修を施すことになった
※兵装、装備、改装変遷はこちら
↑USS Lawrence (DDG-4). Underway near Cape Henry, inbound to Norfolk, Virginia on 3 May 1973 Note the Destroyer Squadron 22 insignia painted on the side of her forward superstructure. Photographed by PH2 Dupuis. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval Historical Center.

↑Buchanan steams underway. (U.S. Navy Photograph 330-CFD-DN-SC-90-07297, National Archives and Records Administration, Still Pictures Branch, College Park, Md.). Image courtesy of Naval History and Heritage Command.

↑Image courtesy of Shipbucket.

↑HMAS Perth (D.38). ex-DDG-25. Image courtesy of Shipbucket.

↑FGS Lutjens (D185). ex-Tolman (DDG-28). Image courtesy of Shipbucket.
艦名 NAME 艦種記号 建造所 就役日 退役日 除籍日 備考
チャールズ F. アダムス
12
Charles F. Adams DDG-2 バス鉄工所 1960/9/10 1990/8/1 1992/11/20 ◎1956/8/16 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-952)に改める
◎1957/6/26 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-2)に改める
◎1958/6/16 起工
◎1959/9/8 進水
◎1961/2 ターターSAM試験
◎除籍後、フィラデルフィアにて保管(12345678910
◎2020/6 解体のため、Brownsvilleへ曳航
◎2021/5/19 解体終了
ジョン・キング John King DDG-3 バス鉄工所 1961/2/4 1990/3/30 1993/1/12 ◎1956/8/16 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-953)に改める
◎1957/6/26 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-3)に改める
◎1958/8/25 起工
◎1960/1/30 進水
◎1995/7/25 解体のため売却
◎のちに解体業者が不履行により再取得
◎1999/2/10 解体のため売却
ローレンス Lawrence DDG-4 ニュー・ヨーク・シップビルディング社 1962/1/6 1990/3/30 1990/5/16 ◎1956/8/16 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-954)に改める
◎1957/6/26 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-4)に改める
◎1958/10/27 起工
◎1960/2/27 進水
◎1971/8/30 対艦ミサイル防御システム試験艦となる
◎1994/4/15 解体のため売却
◎1996/10/8 解体業者が不履行により再取得
◎1999/2/10 解体のため売却
ビドル
12
Biddle DDG-5 ニュー・ヨーク・シップビルディング社 1962/5/5 1989/10/31 1990/6/1 ◎1956/8/16 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-955)に改める
◎1957/6/26 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-5)に改める
◎1959/5/18 起工
◎1960/6/4 進水
◎1964/7/28 クロード V. リケッツ Claude V. Rickettsと改名
◎1994/4/15 解体のため売却
◎1996/10/8 解体業者が不履行により再取得
◎2002/3/25 解体のため売却
バーニー Barney DDG-6 ニュー・ヨーク・シップビルディング社 1962/8/11 1990/12/17 1992/11/20 ◎1956/8/16 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-956)に改める
◎1957/6/26 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-6)に改める
◎1959/5/18 起工
◎1960/12/10 進水
◎1994/4/15 解体のため売却
◎のちに解体業者が不履行により再取得
◎1999/2/10 解体のため売却
ヘンリー B. ウィルソン Henry B. Wilson DDG-7 デフォー・シップビルディング社 1960/12/17 1989/10/2 1990/1/26 ◎1956/8/16 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-957)に改める
◎1957/6/26 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-7)に改める
◎1958/2/28 起工
◎1959/4/22 進水
◎1994/6/20 コンソリデーテッド・ミネラルズに売却され発電用艀となる
ラインド・マコーミック Lynde McCormick DDG-8 デフォー・シップビルディング社 1961/6/3 1991/10/1 1992/11/20 ◎1956/8/16 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-958)に改める
◎1957/6/26 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-8)に改める
◎1958/4/4 起工
◎1959/7/28 進水
◎1994/6/20 コンソリデーテッド・ミネラルズに売却され発電用艀となる
◎1999/3/23 再取得
◎2001/2/24 カリフォルニア沖にて標的として沈没
タワーズ Towers DDG-9 トッド・パシフィック造船所 1961/6/6 1990/10/1 1992/5/27 ◎1956/8/16 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-959)に改める
◎1957/6/26 艦種をミサイル駆逐艦(DDG-9)に改める
◎1958/4/1 起工
◎1959/4/23 進水
◎2002/10/9 太平洋にて標的として沈没
サンプソン Sampson DDG-10 バス鉄工所 1961/6/24 1991/6/24 1992/11/20 ◎1959/3/2 起工
◎1960/9/9 進水
◎1962~1963 ターターSAM試験
◎1995/7/25 解体のため売却
セラーズ Sellers DDG-11 バス鉄工所 1961/10/28 1989/10/31 1992/11/20 ◎1959/8/3 起工
◎1960/9/9 進水
◎1995/7/25 解体のため売却
◎のちに再取得
◎2004/8 フィラデルフィアにてMetro Machineにより解体中
ロビソン Robison DDG-12 デフォー・シップビルディング社 1961/12/9 1991/10/1 1992/11/20 ◎1959/4/23 起工
◎1960/4/27 進水
◎ボストン海軍工廠にて就役
◎1994/6/20 コンソリデーテッド・ミネラルズに売却され発電用艀となる
ホーエル Hoel DDG-13 デフォー・シップビルディング社 1962/6/16 1990/10/1 1992/11/20 ◎1959/6/1 起工
◎1960/8/4 進水
◎1972/9 ヒップ・ポケットII型ESMの試験艦となる
◎1994/6/20 コンソリデーテッド・ミネラルズに売却され発電用艀となる
ブキャナン
12
Buchanan DDG-14 トッド・パシフィック造船所 1962/2/7 1991/10/1 1992/11/20 ◎1959/4/23 起工
◎1960/5/11 進水
1972/4/16 トンキン湾にて北ヴェトナム軍の陸上砲台の砲撃により損傷
◎2000/6/13 リムパック2000演習に、標的として使用(同艦にヘルファイア・ミサイル3発、ハープーン・ミサイル3発、GBU-24 LGBを命中させるもそれでも浮いたままだった。翌日に同艦に200ポンドのC-4爆薬で沈没処分させる12345
バークリー Berkeley DDG-15 ニュー・ヨーク・シップビルディング社 1962/12/15 1992/10/1 1992/10/1 ◎1960/6/1 起工
◎1961/7/29 進水
◎1992/10/1 ギリシャに貸与されThemistocles(D 221)と改名
◎2002/2/18 退役
◎2004/2/19 解体のため売却
ジョセフ・ストラウス Joseph Strauss DDG-16 ニュー・ヨーク・シップビルディング社 1963/4/20 1990/2/1 1995/1/11 ◎1960/12/27 起工
◎1961/12/9 進水
◎1963/3/29 引き渡される
◎フィラデルフィア海軍造船所にて就役
◎1991/10/1(1992/10/1?) ギリシャに貸与されFormion(D 222)と改名
◎2002/7/29 退役
◎2002 除籍
◎2004/2/19 解体のため売却
◎Vietnam Aug 1964, Oct 1964-Jul 1965, Sep-Nov 1965, Feb-Jun 1966, Feb-May 1967, Aug 1968-Jan 1969, Apr-Jun 1970, Feb-Aug 1972, Libya Feb-Apr 1988.
☆DDG-16の撃沈スコア(以下の艦船)
・1988/4/18 イラン海軍フリゲイトSahand(F 74、ペルシャ湾にて撃沈(2機のA-6Eと共同で))
カニンガム Conyngham DDG-17 ニュー・ヨーク・シップビルディング社 1963/6/13 1990/10/30 1991/5/30 ◎1961/5/1 起工
◎1962/5/19 進水
1990/5/8 ヴァージニア沖にて火災により損傷
◎1994/4/15 解体のため売却
セムズ Semmes DDG-18 エイヴォンデール・シップビルディング社 1962/12/10 1991/9/12 1995/1/11 ◎1960/8/18 起工
◎1961/5/20 進水
◎1992/9/13 ギリシャに貸与にされKimon(D 218)と改名
◎2004/6/17 退役、CreteのSouda Bayにて保管
タトノール
12
Tattnall DDG-19 エイヴォンデール・シップビルディング社 1963/4/13 1991/1/18 1993/1/12 ◎1960/11/14 起工
◎1961/8/26 進水
◎チャールストン海軍造船所にて就役
◎1981/8/31 フィラデルフィア海軍造船所にて近代化改装(~1982/11/28、1番煙突の右舷側の4発収容出来るアスロックSUM予備弾庫を撤去(恐らく安定性向上のため))
◎1985/1/24 SPS-52C三次元対空レーダーをメンテナンス
◎1995 解体のため売却
◎1997 再取得
◎1999/2/12 解体のため、ブランズヴィルのInternational Shipbreakersにて売却
ゴールズボロ Goldsborough DDG-20 ピュージェット・サウンド・ブリッジ&ドライドック社 1963/11/9 1993/4/29 1993/4/29 ◎1961/1/3 起工
◎1961/12/15 進水
◎ピュージェット・サウンド海軍造船所にて就役
1972/12/19 トンキン湾南部にて北ヴェトナム軍の陸上砲台の砲撃により損傷
◎1983/4(1983/11?) 真珠湾海軍造船所にて近代化改装(~1984/7)
◎1993/9/17 オーストラリアに売却され部品供給艦となる
コクレーン Cochrane DDG-21 ピュージェット・サウンド・ブリッジ&ドライドック社 1964/3/21 1990/10/1 1992/11/20 ◎1961/7/31 起工
◎1962/7/18 進水
◎除籍後、解体のため、ブランズヴィルのInternational Shipbreakersに売却
ベンジャミン・ストッダート Benjamin Stoddert DDG-22 ピュージェット・サウンド・ブリッジ&ドライドック社 1964/9/12 1991/12/20 1992/11/20 ◎1962/6/11 起工
◎1963/1/8 進水
◎1984/4 真珠湾海軍造船所にて近代化改装(~1985/8)
2001/2/3 解体のためブラウンズヴィルへ曳航途中に太平洋にて沈没
リチャード E. バード
12
Richard E. Byrd DDG-23 トッド・パシフィック造船所 1964/3/7 1990/4/27 1992/10/1 ◎1961/4/12 起工
◎1962/2/6 進水
◎1992/10/1 ギリシャに売却され部品供給艦となる
◎2003/6/19 標的として沈没
ウォッデル
12
Waddell DDG-24 トッド・パシフィック造船所 1964/8/28 1992/10/1 1995/1/11 ◎1962/2/6 起工
◎1963/2/26 進水
◎1964/8/21 引き渡される
◎1964年10月から1965年5月にかけての試験を経て、新型ミサイル駆逐艦は7月まで西海岸沖で試運転を実施したのち、8月26日から9月3日にかけて“対空・電子戦演習ホット・ストーヴ Exercise Hot Stove”に参加した。この間、攻撃航空母艦タイコンデロガ Ticonderoga(CVA-14)の航空機護衛任務中に、ワデルは南カリフォルニア沖で不時着したC. H. ピーターズ中佐 Cmdr. C. H. Petersの機体を救助した
◎1965年9月28日、ウォッデルはティコンデロガおよび駆逐艦3隻とともに行動し、第132駆逐戦隊司令官 Commander, Destroyer Squadron (DesRon) 132の旗艦として母港カリフォルニア州ロング・ビーチを出航。初の西太平洋(Western Pacific: WestPac)任務へ向かった。ハワイ真珠湾に寄港後、フィリピン方面へ進路を取った
◎航行中の1965年10月31日、米任務部隊は日本商船Tokei Maruで爆発事故が発生したとの無線連絡を受信した。救助のため派遣されたウォッデルは現場へ急行し、艦医を乗せたモーター救難ボートを降ろした。救助隊がTokei Maruに乗り込むと、乗組員3名が既に死亡し、別の1名が重度の火傷を負っているのが確認された。ウォッデルは負傷者の命を救う医療処置を施し、日本船が港に到着するまで十分な医薬品をTokei Maruに残したのち、同行艦隊に復帰した
◎スービック湾到着からわずか1日後、ウォッデルは1965年11月2日にヴェトナム沿岸へ向けて出航し、トンキン湾の“ヤンキー・ステーション Yankee Station”W-5への初配備に向かった。同艦は14日まで第77.0.2任務ユニット Task Unit (TU) 77.0.2とともに定位置に留まったのち、短期間の現地作戦のためスービック湾へ帰還。そののちふたたび戦闘海域へ出航し、11月29日から12月29日にかけて北部捜索救助(search and rescue: SAR)ステーションの任務に就いた
1965年12月7日、ウォッデルは高速戦闘支援艦サクラメント(AOE-1)の左舷側で航行中補給を実施しながら並走した。一方、駆逐艦ブリンクリー・バス Brinkley Bass(DD-887)は高速戦闘支援艦の右舷側で補給中だった。作業中、ブリンクリー・バスから転落者発生の報告があり、ウォッデルは緊急離脱を実行し、引き返してその男性を救助した。この捜索救助任務を終えた駆逐艦は佐世保経由で沖縄Buckner Bayに向かい、琉球海域でミサイル射撃訓練を実施後、香港に寄港した。1966年1月31日、北部捜索救助区域 northern SAR areaへの二度目の展開に向け、ダナンに向けて出航した
◎1966年2月3日1410時、ウォッデルは付近でパイロット機が撃墜された可能性があると通報を受けた。調査に向かう途中、左舷に“水上行動 surface action”を確認し、1501時に沿岸砲撃を開始した。14分後に共産勢力の砲撃が応酬。ウォッデルは直ちに砲門を共産勢力の砲台に向けた。1545時、共産勢力の砲陣地への砲撃を継続中、射程を捉えた敵砲火がウォッデルを挟撃した。急激な機動により駆逐艦は無傷で撤退に成功し、戦闘を無傷で脱した
翌日、任務海域で航行中補給によりサクラメントから燃料を受け取ったのち、ウォッデルはブリンクリー・バスと衝突した。被った損傷により、同艦は修理のためフィリピンへ帰還を余儀なくされた
◎1966年2月下旬、ヴェトナム海域に戻ったウォッデルは、第70.8.9任務ユニット TU 70.8.9の一員として、2月27日から3月11日まで第3軍団作戦区域 III Corps operating areaで砲撃支援を実施した。そののち、スービック湾、グアム、ミッドウェー、真珠湾を経由して母港ロング・ビーチへ帰還し、4月8日に到着した。構造修理を実施したドック入り期間を経て、ウォッデルはカリフォルニア沖で各種艦隊演習および単独演習に参加した。1966年クリスマスから2日後、同艦はふたたび西太平洋デプロイメントに向けて出航した
◎1967年初め、ウォッデルはふたたびヴェトナム沿岸で活発な活動に従事した。同年3月2日から5月21日にかけて、同艦は“与えられた全任務において卓越した準備態勢と効果を発揮”し、南ヴェトナム沖での砲撃支援、沿岸における北ヴェトナム軍補給路の遮断、北ヴェトナム内の選定目標への砲撃などを遂行した。ある時、沿岸からの敵砲火を受けたウォッデルは反撃し、敵の沿岸砲台に最大限の損害を与えつつ、自艦は無傷で脱出した。ヴェトナム海域における2度目の西太平洋デプロイメント中、この駆逐艦は約2,000発の砲弾を発射し、“トンキン湾で最も忙しい艦”との評判を得て帰還した
◎ウォッデルは1967年5月29日にロング・ビーチ港に入港し、南カリフォルニア沖で短期間活動した。同年8月4日にロング・ビーチ海軍造船所に入り、1967年末から1968年2月にかけて大規模なオーヴァーホールを実施した
◎その夏、彼女は西太平洋に復帰した--途中、真珠湾とミッドウェーで補給補給を実施し--1968年8月1日、新たな母港である日本の横須賀に到着した。秋にかけて、北ヴェトナムと南ヴェトナム沖の“砲撃ライン”で3回の任務を遂行し、さらに攻撃航空母艦コーラル・シー Coral Sea(CVA-43)レンジャー Ranger(CVA-61)を中心とした攻撃空母打撃群 carrier strike groupの航空機護衛任務も1回担当した
◎9月22日、重巡洋艦セント・ポール St. Paul(CA-73)と共同で非武装地帯(demilitarized zone : DMZ)沖で活動中、ウォッデルは捜索救助(SAR)作戦に参加した。0145時、攻撃爆撃機が艦の近くで墜落した。乗員2名は既に損傷したジェット機から脱出し、海上にパラシュート降下していた。ウォッデルはクア・ヴェット川 Cua Vet River河口まで5,000ヤードに接近し、航法士兼爆撃手を救助。セント・ポールは操縦士を救助した
◎1968年12月下旬に横須賀でオーヴァーホールを終えたウォッデルは、1969年1月7日に出航し、“砲撃ライン gun line”へ向かった。1月17日から30日にかけて、同艦は第1軍管区 I Corps areaにおいて陸軍第101空挺師団 Army's 101st Airborne Divisionへの砲撃支援任務を2回、南ヴェトナム軍(Republic of Vietnam: ARVN)第7師団 7th Divisionおよび第9師団 9th Divisionへの支援任務を1回実施した。Buckner Bay経由で横須賀へ短期間寄港したのち、ウォッデルは1969年2月下旬に“砲撃ライン”へ急行し、3月1日に砲撃支援任務を再開した。第2軍団管区 II Corps areaにおいて、同艦は南任務部隊と共に12回の支援任務を実施。そののちさらに79回の砲撃支援任務を遂行し、内訳はオーストラリア軍部隊向け12回、ARVN部隊向け11回、そして米陸軍第101空挺師団 U.S. Army 101st AirborneとARVN連隊が参加した“シェリダン作戦 Operation Sheridan”支援15回であった
◎1969年4月の第1週、北朝鮮による日本海での海軍EC-121コンステレーション早期警戒偵察機の撃墜は、極東地域の緊張を大幅に高めた。ウォッデルは“砲撃ライン”を22ktで離脱し、バックナー湾で給油後、対馬海峡に到着し、攻撃航空母艦タイコンデロガとレンジャーの護衛に当たった。同艦は日本海で活動し、危機が収束するまで待機したのち、4月28日午後に横須賀へ向けて出航した
◎“砲撃ライン”に戻ったウォッデルは、メコン・デルタ地域への配属前に、“ジャヴェリン作戦 Operation Javelin”支援のため、シャム湾Phu Quoc Island沖から解放戦線のキャンプや浸透拠点へ砲撃を実施した。同地では南ヴェトナム軍(ARVN)2個師団を支援し、解放戦線の施設、掩蔽壕、休息地、補給路に対し19回の砲撃を実施した
◎そののち“ヤンキー・ステーション”に戻り、1969年6月には原子力攻撃航空母艦エンタープライズ Enterprise(CVAN-65)の護衛を担当。同空母が攻撃作戦を展開する間、7月中旬には非武装地帯(DMZ)付近海域に戻り砲撃支援任務に従事した
◎1970年、ウォッデルの母港はふたたび変更され、今度はカリフォルニア州サン・ディエゴとなった。次の西太平洋デプロイメント中、同駆逐艦は地上部隊支援の任務を精力的に継続するとともに、“ヤンキー・ステーション”において航空機護衛艦および哨戒駆逐艦として待機任務に就いた。加えて、同艦は時折監視任務も遂行し、米任務部隊の近くで活動するソヴィエト軍艦艇を監視した。これらは、彼ら自身によるあまり巧妙とは言えない情報収集任務であった。そうした任務の一つは、ソヴィエト軍がフィリピン海で“オケアン作戦 Operation Okean”を実施した際に発生した
◎1970年夏の終わりに西海岸へ帰還した同艦は、南カリフォルニア沖で活動し、その年の終わりから1971年にかけて航行訓練や航空機護衛任務に参加した。1971年夏にかけてカリフォルニア州Seal Beach、サン・ディエゴ、サン・クレメンテ島沖で長期の復習訓練を実施したのち、11月12日に南ヴェトナム・ダナンへ向けて出航した
◎画像解説:1971年春、ハンターズ・ポイント海軍造船所の乾ドックにて(1234
◎ウォッデルは1971年12月12日、DMZ(非武装地帯)付近で“砲撃ライン”に復帰し、同地帯南部における砲撃支援作戦を再開した。同時に遮断任務および夜間妨害任務も遂行した。12月30日にダナンへ帰港後、同艦は1971年最終日に再出航し、インド洋における第74任務部隊 TF 74の作戦に参加した
◎インドとパキスタンの敵対行為が慌ただしい動きを引き起こし、必要が生じた場合に備え、当該地域に取り残されたアメリカ人を救出するための緊急計画が策定された。しかし危機はすぐに収束し、ウォッデルは1972年1月15日にスービック湾へ帰還した。その2日後、同艦はエチオピアのMassawaで開催される帝国エチオピア海軍記念式典 Imperial Ethiopian Navy Dayにアメリカ代表として参加するよう選ばれた。急ぎの準備を終えたウォッデルはフィリピン海域を離れ、わずか2週間で2度目となるインド洋へ進出した
◎1972年1月28日にスリ・ランカのコロンボで短時間の寄港を行ったのち、ウォッデルは2月4日にMassawaに到着。乗組員が整然と舷側に整列する中、規定の21発礼砲を発射した。寄港中、ウォッデルの運動部は来航中のソヴィエト、フランス、英国、スーダン、エチオピア各艦のチームと競技を繰り広げた。短期滞在のハイライトはハイレ・セラシエ皇帝 Emperor Haile Selassieの来艦であり、もう一つは皇帝がウォッデルの精密訓練チーム(実はMassawaへ向かう航海中に結成・訓練されたばかりだった!)の再演を要請した卒業式典であった。 ウォッデルの戦線離脱は短期間に終わり、1972年4月1日には再び“砲撃ライン”に復帰した。任務終了予定日は14日だったが、共産勢力の地上活動激化により5月まで留まることとなった
◎ウォッデルの戦線離脱は短期間に終わり、1972年4月1日にふたたび“砲撃ライン”へ復帰した。当初の任務期間は14日までと予定されていたが、共産軍の地上活動が活発化したため、5月まで留まることとなった
◎1972年4月3日から9日にかけて、ウォッデルは毎日、沿岸の共産軍砲台からの対砲兵射撃に遭遇した。艦砲射撃はこれに対し、複数の対砲兵陣地を破壊したと評価された。この期間の大半の任務はクア・ヴィエット海軍基地 Cua Viet naval base周辺およびクア・ヴィエット川 Cua Viet River北側のクアンチ省 Quang Tri provinceで展開された。射程が極めて短く、ウォッデルが自艦の砲弾着弾を確認できる状況も生じた
◎1972年4月8日午後遅く、ウォッデルは“最優先”目標を攻撃したが、激しい対砲兵射撃で応酬された。岸辺での二次爆発はウォッデルの砲弾が命中したことを示したが、敵は執拗に射撃を続け、駆逐艦の船首至近に砲弾を命中させた。水面爆発で艦のアスロック発射装置が損傷し、破片が駆逐艦の甲板に散乱した
◎1972年4月9日と10日、同艦は多数の任務を遂行したため、航行中の弾薬補給を2回必要とした。11日から21日にかけても、そのペースは衰えなかった。ある時、ウォッデルはベン・ハイ川 Ben Hai Riverを渡って解放戦線と北ヴェトナム軍兵士を輸送しているのを発見した複数のサンパンを撃沈した。さらに、同艦の砲は対空陣地と沿岸砲台を砲撃した
◎4月の戦闘で消耗した主砲をスービック湾で交換後、ウォッデルはヴェトナム海域に戻り、“ラインバッカー作戦 Operation Linebacker”に参加中の第77.1.2任務ユニット TU 77.1.2に合流した。2週間にわたり、ウォッデルは夜間連続砲撃を実施し、これまでで最も激しい敵の反撃に遭遇することもあった。敵砲台を沈黙させる一方、共産軍砲弾の至近弾による破片被害も受けた。そののち、非武装地帯沖に移り、6月26日まで南ヴェトナム軍作戦を支援。西太平洋デプロイメントの最終2週間は、珊瑚海における航空機護衛任務“ヤンキー・ステーション”に従事した
◎横須賀経由で米国へ帰還後、同艦は大規模なドック入り期間を経た。1972年の年末にかけて、彼女は極東への新たな展開準備に追われたが、これはこれまでの任務とは異なるものだった。この時点で、米陸海空軍はヴェトナムにおける戦闘任務から完全に撤退していた。そのため、1973年2月にトンキン湾で訓練任務を実施したのち、日本の別府と佐世保を訪問したのみであった
◎そののち、ウォッデルは“エンド・スイープ作戦 Operation End Sweep”の一部を監督した。これは北ヴェトナム沿岸海域および主要港湾沖に敷設された機雷原の掃海作戦である。同艦は1973年3月19日から4月13日にかけて初の“エンド・スイープ”任務を遂行し、6月27日から30日にかけてふたたび同作戦に参加した。これらの展開の合間には、ウォッデルはコーラル・シーと攻撃航空母艦コンステレーション Constellation(CVA-64)の護衛任務に従事し、香港、スービック湾、マレーシアのペナン、シンガポールに寄港した
◎1973年8月2日に西海岸へ帰還したウォッデルは、同年4月23日にふたたび東方へ向けて出航するまで、南カリフォルニア沖での演習および地域作戦に従事した。通常の寄港地(真珠湾、グアム、ミッドウェー)を経由し、5月16日にフィリピンに到着、スービック湾を拠点に地域作戦を実施した
◎そののち、同艦はオーストラリア海軍部隊とともにオーストラリアのショールウォーター湾 Shoalwater Bay近海で“カンガルー演習I Exercise Kangaroo I”に参加した。スービック湾および台湾・高雄を拠点とした現地作戦ののち、ウォッデルは1974年9月28日に西海岸に向けて出航し、10月18日にサン・ディエゴ港に入港した。 サン・ディエゴに1975年1月22日まで停泊したのち、艦隊航洋曳船タワサ Tawasa(ATF-92)によりロング・ビーチ海軍造船所へ曳航され、1月24日から12月3日にかけて大規模なオーヴァーホールを受けた
◎1992/10/1 退役日と同日に安全保障支援計画 Security Assistance Programを通じてギリシャに引き渡されNearchos(D 219)と改名(12
◎2003/7/18 退役、CreteのSouda Bayにて保管
◎2006/5/26 ギリシャ海軍による兵器試験SINKEXにて標的として沈没(123
◎Collieded with Destroyer Brinkley Bass in Gulf of Tonkin, 5 Feb 1966. Vietnam Nov 1965-Mar 1966, Mar-Apr 1967, Aug 1968-Aug 1969, Oct-Nov 1969, Feb-Mar, May-Jun 1970, Dec 1971-Jun 1972, Feb-Mar 1973, Korea Apr, Sep 1969, Jun-Jul 1970, Iran/Indian Ocean Dec 1978-Jan 1979, Mar-Apr 1979, Persian Gulf Apr-Jun 1987, Libya Nov-Dec 1988.
1969年に映画会社20世紀フォックスの映画「トラトラトラ! Tora! Tora! Tora!」の撮影中、ヴェトナムへ向かう途中前日真珠湾に到着したウォッデルの後甲板で当直勤務中だった将校は、水面近くを低空飛行する敵対的な雷撃爆撃機26機らしき物体を発見すると、総員戦闘配置を宣言した。彼のマイクによる通告には“これは訓練ではない! This is not a drill!”という一節が含まれていた。ジェット機や巡航ミサイルとの戦闘訓練を終えたばかりの同艦は、ミサイルをレール上に展開し、実戦配備の54口径5インチ砲2基を全方向に向け、港内の全員を恐怖に陥れた。幸いにも、大惨事を回避する間一髪で、艦は航空機を撃墜しないよう必死に信号で指示を受けた
DDG-25 デフォー・シップビルディング社 ◎1965/7/17 オーストラリア海軍にて就役、Perth(D.38)と命名
◎1974 近代化改装
◎1999/10/15 退役
◎除籍後、アルバニー沖にて沈没処分
DDG-26 デフォー・シップビルディング社 ◎1965/12/18 オーストラリア海軍にて就役、Hobart(D.39)と命名
◎1978 近代化改装
◎2000/5/12 退役
DDG-27 デフォー・シップビルディング社 ◎1967/12/16 オーストラリア海軍にて就役、Brisbane(D.41)と命名
◎1974 ロング・ビーチにて近代化改装(~1978)
◎1987/2 近代化改装
◎2001/10/19 退役
◎2001/10/19 クイーンズランド島海岸にて沈没処分
トールマン Tolman DDG-28 バス鉄工所 ◎1969/3/22 西ドイツ海軍にて就役、Lutjens(D 185)と改名
◎1984 近代化改装(~1986)
◎2003/12/18 退役
退役後、ハンブルクにて記念艦となる
ヘンリー A. ウィリー Henry A. Wiley DDG-29 バス鉄工所 ◎1969/9/20 西ドイツ海軍にて就役、Moelders(D 186)と改名
◎1982 近代化改装(~1984)
◎2003/5/28 退役
退役後、記念艦となる
シア Shea DDG-30 バス鉄工所 ◎1970/5/2 西ドイツ海軍にて就役、Rommel(D 187)と改名
◎1983 近代化改装(~1985)
◎1999/9/30 退役、保管
◎2004 解体のため、トルコの業者に売却


Update 25/09/14