1013
1013型貨物船

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です


載貨重量:8,800t 総トン数:5,600t 排水量:12,225t 全長:124.89m(124.89mともいわれる) 幅:16.51m 吃水:7.28m 主機/軸数:カーチス式蒸気タービンもしくはtriple-expansion reciprocating蒸気機関1基/1軸 速力:11.0kt〜12.0kt 乗員:70名〜90名(WWI時)、30名(商船時)
※第一次大戦中に合衆国船舶院 United States Shipping BoardのEmergency Fleet Corporation(EFT)によって量産が承認された鋼鉄船体 貨物船の設計である。EFTによって承認された初期の設計の多くと同様に、1013型はEFT自体が考案したものではなく、ワシントン州シアトルのSkinner & Eddy Corporationによって開発された既存の貨物船設計に基づいていた。これらの船舶には石油燃料のものもあれば、石炭燃料のものもありました。これらはアメリカ西海岸のさまざまな造船所で建造された。ほとんどの船舶は“West”(場合によっては“Western”)で始まる名前が付けられており、西海岸産であることを示していた
船名 NAME 造船所
記号
合衆国
船舶院
記号
建造所 引き渡された日 備考
ウェスト・ノーノ West Nohno 25 1080 ノースウェスト・スチール社 1919/5 ◎1919/2/12 進水
◎1919/5 United States Shipping Boardに移管
◎のちに艦種を識別番号船(ID-4029)に改めるも就役せず(同船は持ち主の手にとどまったまま)
◎1922初め American West African Lineが運行
◎のちに予備船隊に編入(〜1939末)
◎1941/5 American Export Linesが運行
◎1941/11末 HobokenのTietjen & Lang Drydockにて改装(76mm砲と152mm砲を設置)
1942/1/10 アイスランドにて疾風により重巡洋艦ウィチタ Wichita(CA-45)と衝突し損傷
◎1944/6/8 ノルマンディにてGooseberry harbourの一部として沈没処分
ウェスト・ミンシ West Minsi 38 2373 ノースウェスト・スチール社 1919/12 ◎1919 起工
◎のちに建造中断
◎1919/11 Green Star Lineに売却されCentaurusと改名(オフィシャル・ナンバー219283)
◎1919/11/17 進水
Centaurusの初航海は、1919年12月下旬にオレゴン州アストリアを出航し、ペルーのカラオを目指した。航海中、乗組員の一人がパスポートの無効を懸念して精神衰弱に陥った。医療処置を施す代わりに、この乗組員は手錠をかけられ、乗組員名簿から外され、密航者として再登録された。そして、1920年1月17日にCentaurusがカラオを出航した際に、埠頭に置いていった。この乗組員は精神病院に収容され、同年後半に亡くなった
1920年1月18日、ポートランドの新聞「ザ・サンデー・オレゴニアン The Sunday Oregonian」46ページに、次のような記事が掲載された。 Green Star、大西洋航路就航 ボルティモア発着の4隻の汽船をポートランドで購入-東洋航路就航を約束 - Standifer Plant Expectedで建造中の船舶、太平洋航路就航予定「ポートランドで鋼鉄製汽船4隻を購入し、さらに5隻の建造を発注したGreen Star Steamship companyの今後の事業展開に関する憶測は、先週、ボルティモア本社からの正式発表によって終結した。同社はボルティモアに、海運事業の拠点となる大規模な建物を購入した。同社が購入した最後の汽船Circlnusは、水曜日にメルボルンとオーストラリアのアデレード行きの木材を満載してアストリアを出航した。積荷を担当した港湾荷役業者のブラウン&マッケイブ氏によると、積荷は4,086,103フィートに上ったという。グリーン・スター・スチームシップ社が購入した他の3隻の汽船は、Corvusで、バラスト状態でチリのアリカに向かい、ヨーロッパ向けの硝酸塩を積載した。Centaurusはここで木材の一部を積み込み、サン・フランシスコへ向かい西海岸向けの一般貨物を積み込んだ。Clauseusはここからバラスト船としてサン・フランシスコへ向かい、ハンブルク行きの豆を積み込んだ
◎1920年後半、CentaurusはGreen Star Steamship companyと提携し、船舶購入において財務面で関わりのあったNafra Companyに売却された。Centaurusは1923年までこの会社で運航し、そののちPlanet Steamship Companyに売却された。1929年12月、CentaurusとPlanet Steamship Companyが所有するほかの4隻の貨物船(Circinius、Corvus、Clauseus、Eurana)はCalmar Steamship Companyに売却された
1929年12月13日、カリフォルニア州オークランドの新聞「Oakland Tribune」は次のように報じた。Isthmian LinesのHouse Flag(1910年から1974年まで)。“Calmar、船舶を購入”ニュー・ヨーク発の発表によると、“Calmar LineはPlanet Steamship companyから貨物船5隻を購入した。この購入により、Calmarの沿岸航路の船隊は11隻に増える。新造船は880t級である。 対象となる船舶は、Circinius、Corvus、Clauseus、Centaurus、Euranaで、いずれもこの海岸ではよく知られている。これらの船舶は、Isthmian LinesのHouse Flagを掲げて、長年にわたり地元の港に寄港している”
◎1941/11/18 Portmarはほかの7隻の船(Iowan、Mauna Loa、West Camargo、Steel Voyager、Jane Christenson、F. J. Luckenbach、Malama)が、フィリピンへの軍事物資輸送のために米国陸軍省 United States Department of Warによってチャーターされた
◎同船は1941年11月20日に米国政府に事実上引き渡されたが、これは陸軍への割り当てとともにすべての外洋商船がWar Shipping Administrationに引き渡される前兆であった。チャーターの詳細が機密事項とされていたにもかかわらず、8隻全ての船の名前が2日後に「ロサンゼルス・タイムズ Los Angeles Times」紙に掲載された)
◎日本軍のフィリピン侵攻により、オーストラリアに留め置かれた。Portmarは、迂回したペンサコーラ護送船団 Pensacola Convoyが先に到着したのち、燃料と車両を輸送する船の一隻としてオーストラリアに到着していた。Portmarは1941年11月26日、ペンサコーラ船団の部隊のために車両319台、ガソリン5,939バレル、弾薬、爆弾、機関銃、その他の物資を積んで単独でサン・フランシスコを出航したが、ハワイ南方で転航し、まずスヴァ、次いでシドニーへ向かい、1941年12月31日に到着した
◎Portmarは当初、フィリピンにおける日本軍の封鎖突破を試みる艦艇の一つに選ばれたが、日本軍の急速な進撃とラバウル、Kavieng、そして北部のその他の戦略拠点の占領により、ダーウィンへ呼び戻された。海事委員会はPortmarを含むほかの大型船舶が米国に返還されることを期待していたが、戦域における船舶の切実な需要により、現地での保管が必要となった
◎1942年2月15日午前2時前、Portmarはティモール防衛軍の増援部隊を運ぶ船団の一員としてダーウィンを出航した。船団には陸軍輸送船メイグス Meigs、マウナ・ロア Mauna Loa、ツラギ Tulagiも含まれ、護衛には重巡洋艦ヒューストン Houston(CA-30)駆逐艦ピアリー Peary(DD-226)、オーストラリア海軍スループWarrego、Swan。Portmarはツラギとともにアメリカ陸軍第148野戦砲兵隊 U.S. Army 148th Field Artilleryの部隊を乗せ、ほかの船にはオーストラリア軍の兵士が乗船していた。午前11時までに、これらの船は日本軍の飛行艇に発見され、数時間追跡されたのち、午後4時ごろに爆弾を投下したが、効果は最小限であった。翌日、午前9時15分ごろ、別の飛行艇が船団の追跡を開始し、2時間後には45機の日本軍機による攻撃を受けた。マヌア・ロアは軽微な損傷と数名の死傷者を出したが、Portmarは1時間にわたる攻撃で無傷であった。さらなる攻撃の可能性と、ティモール侵攻が差し迫っているとの見方から、午後4時15分に船団の回頭命令が出され、2月18日正午までに全艦がダーウィンに戻った
翌日、Portmarはまだダーウィン港に停泊中だったが、日本軍の空母艦載機部隊が同市を攻撃した。これはオーストラリアが初めて攻撃を受けた事例であった。攻撃中にPortmarは大きな損傷を受け、沈没を防ぐため係留地から曳航され座礁した。乗組員1名が死亡し、負傷者数名はのちにオーストラリア海軍検査船Southern Crossによって救助された
◎Portmarはアメリカ陸軍港湾大隊の部隊によって引き揚げられて修理され、シドニーへ曳航されて修理された
◎同船は1942年11月17日に陸軍省によってBrisbaneにて購入され、陸軍輸送船としてアメリカ陸軍の常設の地方船隊 U.S. Army's permanent local fleetに編入された


Update 25/11/29