VXE
南極開発飛行隊 Antarctic Development Squadron

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※MCAAFは海兵航空補助施設(Marine Corps Auxiliary Air Facility)の略。NASは海軍航空基地(Naval Air Station)の略。NAASは海軍航空補助基地(Naval Auxiliary Air Station)の略。NAWSは海軍航空兵器基地(Naval Air Weapons Station)の略。NSは海軍基地(Naval Station)の略(ABC順)
※第6南極開発飛行隊(Antarctic Development Squadron 6: VXE-6、ANTARCTIC DEVRON 6またはANTARCTIC DEVRON 6ともいう)は、ニュー・ジーランドのクライストチャーチ Christchurchと南極のマクマード基地 McMurdo Stationを前方作戦基地とし、カリフォルニア州のポイント・マグー海軍航空基地 NAS Point Muguを拠点とするアメリカ海軍の航空試験評価飛行隊 Air Test and Evaluation Squadronである。1955年1月17日にメリーランド州パクセント・リヴァー海軍航空基地 NAS Patuxent Riverで第6航空開発飛行隊6(Air Test and Evaluation Squadron 6: VX-6)として設立され、飛行隊の任務はアメリカ南極計画の作戦部門である“ディープフリーズ作戦 Operation Deep Freeze”を支援する作戦を実施することであった。飛行隊は1956年2月1日にロード・アイランド州のクオンセット・ポイント海軍航空基地 NAS Quonset Pointに移転した。1969年1月1日に第6南極開発飛行隊(Antarctic Development Squadron 6: VXE-6)に改編。1999年3月31日に閉隊。ニックネームはThe Puckered Penguins

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所在地 駐留日
NAS Patuxent River 1955/1/17
NAS Quonset Point 1956/2/1
NAS Point Mugu 1970年代
日付 主な出来事
1955/1 1955年1月17日にメリーランド州パクセント・リヴァー海軍航空基地 NAS Patuxent Riverで第6航空開発飛行隊6(Air Test and Evaluation Squadron 6: VX-6)として設立され、飛行隊の任務はアメリカ南極計画の作戦部門である“ディープフリーズ作戦 Operation Deep Freeze”を支援する作戦を実施することであった。飛行隊は1956年2月1日にロード・アイランド州のクオンセット・ポイント海軍航空基地 NAS Quonset Pointに移転した。1969年1月1日、飛行隊は第6南極開発飛行隊(Antarctic Development Squadron 6: VXE-6)に改編
1970年代 1970年代にクオンセット・ポイントが閉鎖されたのち、飛行隊はポイント・マグー海軍航空基地 NAS Point Muguに移転した。“XD”(1955年)と“JD”(1957年)のテイル・コードを持つ飛行隊は、その存続期間中、数多くの航空機を飛ばしたが、その多くは先駆的な試みであった。例えば、南極とニュー・ジーランドを結ぶ最初の航空路は、1955年にVX-6の人員と航空機によって確立された。翌年には、VX-6のスキー装備のR4Dが、南極点に着陸した最初の航空機となった。1961年、バード基地 Byrd Stationからクライストチャーチへ、初の真冬の緊急医療避難飛行 medical evacuation flightが実施された。1963年、VX-6のLC-130Fが南極史上最長の飛行を達成。1967年、VX-6のアメリカ海軍LC-130Fがウィリアムズ・フィールド Williams Fieldに着陸し、南極への初の冬季定期飛行を完了。1999年2月にアムンゼン・スコット南極基地 Amundse-Scott South Pole Stationでの南極夏期作戦が終了したのち、飛行隊はカリフォルニア州ポイント・マグー海軍航空基地に戻り、1999年3月31日に閉隊した
VX-6のルーツは、リチャード・エブリン・バード米海軍少将が行った第4次南極探検“ハイジャンプ作戦 Operation Highjump”(1946~1947年)に遡る。その探検隊は1946年12月に出発し、ロス海 Ross Seaのパック・アイス pack iceを拠点とするPBMと陸上ベースのR4Dダコタ(ダコタはダグラス・エアクラフト社輸送機の頭文字“DACoTA”から、ダグラスC-47スカイトレインを指すためにアメリカ海軍が使用した呼称)を使用して南極大陸の広範囲な航空調査を実施した。1947年2月下旬にハイジャンプ作戦が終了するまでに、チームは約5,500マイル(8,900km)の海岸線と1,500,000平方マイル(3,900,000平方km)の大陸内部の地図を作成した
2月1日、第43任務部隊 Task Force 43は、ジョージ J. デュフェック大佐 Captain George J. Dufekを司令官とし、“ディープフリーズ作戦”というコード・ネームで秋に開始予定の南極作戦を計画するために活動開始された。デュフェックは1959年に終了した第4次“ディープ・フリーズ作戦 Operation Deep Freeze”まで指揮官を務めた。第43任務部隊の任務は、来るべき国際地球物理年(1957~8)への米国の参加を成功させるために必要なすべての後方支援を提供することであった。具体的には、第43任務部隊は、滑走路とアイスポートの建設、および科学者が南極大陸で地球物理学的研究を実施できるようにするための南極大陸基地の設立を担当することを意味していた。11月14日、第43任務部隊 の司令官である昇格したばかりのデュフェック海軍少将 RADM Dufekの旗艦は、南極大陸への往航のために、他の任務部隊の艦船とニュー・ジーランドでランデヴーするためにバージニア州ノーフォーク海軍基地 NS Norfolkから出航した
VX-6はこの時、第43任務部隊(“ディープ・フリーズ作戦”の後方支援部門)の一員として最初の派遣を行った。その最初のシーズン、VX-6は9回の長距離探査飛行を行った。同飛行隊はまた、リトル・アメリカ・ベースキャンプ Little America Base Camp、ハットポイント半島 Hut Point Peninsula(ロス島 Ross Island)の海軍航空作戦施設、最初の南極基地(現在は“オールド・ポール Old Pole”と呼ばれる)の建設に必要な人員と資材を輸送し、大陸の他の4つの基地の設立を支援した。1955年12月20日、2機のロッキードP2V-2ネプチューンと2機のR5Dスカイマスター(R5DはダグラスC-54スカイマスターを指すアメリカ海軍の呼称)がクライストチャーチからマクマード基地 McMurdo Stationへの飛行を行い、南極とニュー・ジーランドを結ぶ初の航空路を確立した。1956年2月に“ディープフリーズI作戦”から帰還した後、VX-6はロード・アイランド州のクオンセット・ポイント海軍航空基地に移転した。最初のクオンセット小屋 Quonset hutsの製造場所である海軍建設大隊センター・デイビスヴィル NCBC Davisvilleもクオンセット・ポイントにあった。NCBCデイビスヴィルは第200海軍建設大隊 Naval Construction Battalion 200の本拠地であり、アメリカ合衆国の南極プログラムで必要とされるあらゆる施設の建設を行うために設立された。その年の9月、レイ E. ホール少佐 LCDR Ray E. Hall[は、後にVX-6の非公式マスコットとなる漫画のキャラクター“Puckered Pete”の最初の絵を描いた
1956 1956年10月31日、“ディープフリーズII作戦 Operation Deep Freeze II”の最中、コンラッド S. シン少佐 LCDR Conrad S. Shinnが操縦するスキー装備のR4Dダコタ“ケ・セラ・セラ Qué Será Será”が南極点に着陸した最初の飛行機となった。その航空機に乗っていた7名のアメリカ海軍の男性(ジョージ J. デュフェック少将、ダグラス・コーディナー大佐 CAPT Douglas L. Cordiner、ウィリアム・ホークス大佐 CAPT William M. Hawkes、コンラッド S. シン少佐、ジョン R. スワデナー大尉 LT John R. Swadener、ジョン P. ストライダー航空機関士二等兵曹 AD2 John P. Strider、ウィリアム A. カンビー Jr. 航空機関士二等兵曹 AT2 William A. Cumbie, Jr. は、1912年1月のロバート・ファルコン・スコットの不運なテラ・ノヴァ探検 Robert Falcon Scott's ill-fated Terra Nova Expeditionを最後に、44年ぶりにこの地点に立った。デュフェック少将は、着陸を試みるためにシン少佐と彼のフライト・クルーを選んだ。さらに、地表では極寒の状況が予想された。着陸隊は南極点にわずか49分間滞在し、その地点に科学観測基地を建設するための資機材の将来の搬入を支援するための航行補助装置を設置した。また1956年には、R4Dダコタが11名の海軍建設大隊 “シービーズ Seabees”の最初のグループと11台の犬ぞりをテントやその他の機材とともに南極点に運び、最初の南極基地の建設を開始した
1958 1958年1月、VX-6のUC-1オッターはマーブルポイント Marble Pointで南極初の土の上に車輪を着けた着陸を行った。 1959年10月1日、デヴィッド M. タイリー海軍少将 RADM David M. Tyree(1959年4月14日から1962年11月26日まで米海軍南極支援部隊司令官 Commander, U.S. Naval Support Force AntarcticaはVX-6のJ. A. ヘニング少佐 LCDR J. A. Henningが操縦するR5Dスカイマスターでクライストチャーチからマクマード・ステーション海軍航空施設 NAF McMurdo Stationに到着した。このシーズンの初飛行は、“ディープ・フリーズV作戦 Operation Deep Freeze V”の運用開始を意味した
1961 1961年4月9日から10日にかけて、重病のソヴィエト人科学者レオニード・クペロフ Leonid Kuperovをバード基地 Byrd Stationから救出するため、初の真冬の医療避難飛行が実施された。クオンセット・ポイント Quonset Pointから2機のVX-6 C-130BLハーキュリーズがクライストチャーチへ飛んだ。1機(ロイド E. ニューカマー中佐 CDR Lloyd E. Newcomerが操縦)はバード基地に向かいクペロフを救出し、もう1機はクライストチャーチで待機した。この救出ミッションの総飛行距離は13,000マイル弱に及んだ
1963 1963年2月22日、VX-6のLC-130Fハーキュリーズが南極史上最長の飛行を行い、人類未踏の領域をカヴァーした。同機(ウィリアム H. エヴェレット中佐 CDR William H. Everettが操縦)、ジェームズ R. リーディ少将 RADM James R. Reedy( 1962年11月~1965年4月、米海軍南極地域支援部隊司令官を乗せた)は、マクマード基地から南極点を越えてシャクルトン山脈まで3,470マイル(5,580km)を飛行し、そののち、南東方向にアクセス不能な極点まで飛行してマクマード基地に帰還した。また1963年2月、VX-6はロッキードLC-130ハーキュリーズによる初のバルク燃料 bulk fuelの輸送を完了した
1964 1964年6月26日、VX-6のロバート V. メイヤー大尉 LT Robert V. Mayerが指揮するLC-130Fハーキュリーズは、落下事故で重傷を負ったB. L. マクマレン兵曹 petty officer B. L. McMullenの緊急避難のため、クライストチャーチから南極までの往復飛行を完了した。1964年9月30日、VX-6のLC-130ハーキュリーズ3機が、それぞれメルボルン、クライストチャーチ、プンタ・アレナス Punta Arenasを離陸。この3機は南極へ飛行し、マクマード基地から11km離れたウィリアムズ・フィールド Williams Fieldに着陸した。オーストラリアから南極への史上初のフライトとなったメルボルンからのフライトは、越冬隊に50ポンドの郵便袋を投函するため南極上空を通過し、そののちバード基地に着陸してからマクマード基地に向かった。また1964年には、VX-6は南アフリカのケープタウンからマクマード基地への初飛行、ソヴィエトのヴォストーク基地 Vostok Stationへの米軍機による初飛行、南極大陸の地図作成に多用されたトリメトロゴン空中写真 trimetrogon aerial photographyの初実証を行った
1966 1966年6月7日、VX-6のマリオン・モリス中佐 CDR Marion Morrisが操縦するC-130ハーキュリーズが、落下事故で重傷を負ったロバート L. メイフィールド UT-2 Robert L. Mayfieldを避難させるため、マクマード基地への飛行を終えてクライストチャーチに帰還した。これは冬季夜間における南極からの3度目の緊急航空避難であった
1967 1967年6月18日、クライストチャーチから飛来したVX-6のアメリカ海軍LC-130Fがウィリアムズ・フィールドに着陸し、南極への初の冬季定期飛行が成功した。1967年12月2日、LC-117Dスカイトルーパーがハレット基地 Hallett Stationからマクマード基地に着陸。これは南極大陸での最後のC-117飛行であり、ダグラスC-47スカイトレイン機体によるVX-6への11年間のサーヴィスの終わりを告げるものであった
1969 1969年1月1日、VX-6は第6南極開発飛行隊(Antarctic Development Squadron 6: VXE-6)と改称された。1969年8月31日、VXE-6の2機のLC-130ハーキュリーズが、“ディープ・フリーズ70作戦 Operation Deep Freeze 70”の開始6週間前にマクマード基地に到着した。搭乗者の中には、合衆国海軍南極地域支援軍(U.S. Naval Support Force Antarctica: NSFA)司令官デビッド F. ウェルチ少将 Rear Admiral David F. Welchと7名の科学者がいた
1974 1974年、パッカード・ピート飛行隊 Puckered Pete squadronは無事故の時代の終わりを迎えた。就役20周年を2日後に控えた1974年1月15日、VXE-6はBu.No. 148319を失った。“319”は離陸時にJATOボトルが爆発し、機体の右翼が破壊されたため、氷上に強制着陸した。1974年1月15日、Bu.No. 159129が“319”の乗員乗客救出のために飛来。離陸時、マクマード基地から600マイルの地点で離陸しようとしてノーズスキーが倒れた。両機は1979年に回収されるまで、南極のランドマーク Antarctica landmarksとなっていた
1975 1975年、フレッド C. ホルト中佐 CDR Fred C. Holt(1935年12月7日~2020年10月26日、ジョージア州コロンバス)がヴァーノン・ピータース中佐 CDR Vernon Petersから飛行隊の指揮を引き継いだ。指揮官交代式にはジム・ストックデイル少将 RADM Jim Stockdaleが出席した。ホルト中佐の妻スーは、“ストックデイル提督は、COC(change of command)の前夜にホルト邸に泊まったとき、私のベッドを譲ってくれた唯一の人です”と述べた。ホルト中佐は“飛行隊の仲間たちとの仕事を楽しみ、氷上での任務は21年間の海軍生活で経験した最高の遠征のひとつだった”と語った
1978 “1978年ディープ・フリーズ作戦 Operation Deep Freeze 1978”の際、VXE-6はIl-14クレート Crate輸送機の墜落現場から重症を負った5名のソヴィエト人をコスモナウト海 Cosmonauts Seaのアラシェエフ湾 shore of Alasheyev南岸のモロジオジナヤ基地 Molodyozhnaya Stationに避難させた。この旅は、マクマード基地からの往復1,825マイルであった
1979/11 1979年11月28日、ニュー・ジーランド航空 Air New Zealandの901便 Flight 901(TE 901)はエレバス山 Mount Erebusに墜落し、乗員乗客257名全員が死亡した。その3時間後、VXE-6は捜索救助活動(“オーヴァーデュー作戦 Operation Overdue”と呼ばれる)を開始し、マクマード基地からLC-130Rハーキュリーズ(XD-01、Bu.No. 160741、c/n 4731)とUH-1N2機を派遣し、TE 901の最後に確認された位置(マクマード基地の真北約38マイル)付近を捜索した。これらの航空機は、30分後の午後4時16分に、マクマード基地から発進した6機の航空機に合流した。墜落から20時間後の午前9時頃、捜索隊を乗せたヘリコプターが山の中腹に着陸することができた。捜索隊は、残骸がニュー・ジーランド航空901便のものであり、生存者がいないことを確認した。2009年6月、15名の米国市民が、遺体回収、犠牲者確認、およびオーヴァーデュー作戦の墜落調査段階における活動、およびTE 901便墜落事故の結果に対して、ニュー・ジーランド特別功労勲章(エレバス)を授与された。勲章を授与されたのはリーディ・バフォード少佐 LCDR Reedy Buford、ウィリアム・アンドレ・コルトリン中佐 CDR William Andre Coltrin、ポール・リチャード・ダイクマン中佐 CDR Paul Richard Dykeman、ウィリアム F. フェレル少佐 LCDR William F. Ferrell、ジョン K. グッドラム少佐 LCDR John K. Goodrum、チャールズ“チャック”ヒッチコック航空カメラマン PHAN Charles (Chuck) Hitchcock、リチャード L. ホートン二等カメラマン PH2 Richard L. Horton、ジョージ・ミクソン少尉 ENS George Mixon、ヴィクター・ルイス・ペッシェ大佐 CAPT Victor Louis Pesce、チョイス・プリウィット上級兵曹長 CWO Choyce Prewitt、ブライアン・ジョン・ヴォーダーストラッセ二等航空整備兵曹 AD2 Brian Jon Vorderstrasse
1988 1988年には、南アフリカ国立南極探検隊(South African National Antarctic Expedition: SANAE)のヴェスレスカルベット・ヌナタック基地 Vesleskarvet nunatakへの医療搬送が行われ、1回の南極フライトにおける時間と距離の記録を更新した。1988年シーズンのもう1つのハイライトは、デュモン・ダルヴィル基地 Dumont d'Urville Station付近で1971年に墜落して以来、氷と雪に埋もれていたLC-130ハーキュリーズの回収であった。この航空機は完全に修復され、1999年に解散するまでVXE-6で運用された。
1990 1990年、VXE-6は8,000名近い乗客と600万ポンド以上の貨物を輸送し、その中にはヴォストーク基地への5回の補給飛行も含まれていた。 同年、VXE-6はベアードモア氷河 Beardmore Glacier付近でLC-130ハーキュリーズのブルー・アイスへの初の車輪着陸も達成した。1991年10月25日、初の女性乗員全員がLC-130ハーキュリーズでアムンゼン・スコット南極点 Amundsen-Scott South Pole Stationを“開放 open up”した
1993 1993年、VXE-6は約9400,000ポンドの貨物と燃料の輸送を含む多くの記録を更新した
1996/2 1996年2月3日、飛行隊の40回目の南極への年次派遣中に、飛行隊は南極で最後のヘリコプター任務を実施した。VXE-6のヘリコプター部門は1996年4月に正式に閉隊した
1997 1997年、南極プログラムに対する合衆国国防総省 United States Department of Defenseの長距離兵站支援を、アメリカ海軍からアメリカ空軍、特にニュー・ヨーク州空軍(New York Air National Guard: NYANG)へと移行させることを目的とした3年間のプログラムが開始された。1998年には、2005年に完成した新南極基地の建設開始に必要な資材が納入された
1997 1997年以降、“ディープ・フリーズ作戦”の長距離後方支援の責任は、VXE-6飛行隊からニュー・ヨーク州空軍(NYANG)の第109空輸航空団 109th Airlift Wingに移った。この移行は、作戦への悪影響を避け、米海軍部隊からNYANGへの知識の完全な移転を確実にするため、3年間にわたって計画された。1996年/1997年のシーズン中、VXE-6は6機を運用し、NYANGの機体で補強した。VXE-6は1997/1998シーズンに5機を運用し、飛行時間はVXE-6とNYANGでほぼ均等に分けられた
1998 アメリカ空軍は、1998/1999年シーズンの初めに、空軍州兵の第109空輸航空団を経由して、正式にアメリカ南極プログラムを支援する全米科学財団 National Science Foundationの主要な国防総省パートナーとしての責任を引き継いだ。分遣隊はNSFA組織に取って代わった。13分遣隊の下の主な組織は、NYANGの第109空輸航空団、海軍のVXE-6飛行隊、および航空技術サーヴィス Aviation Technical Servicesであった。1998/1999シーズン、NYANGの6機のLC-130は、VXE-6飛行隊の3機のLC-130のみによって増強された
1999 “1999年ディープ・フリーズ作戦 Operation Deep Freeze 1999”は、VXE-6にとって米国南極計画を支援する最後の展開シーズンとなった。1999年2月24日、アムンゼン・スコット南極基地の夏期運用終了にともない、VXE-6の最後の3機のLC-130Rハーキュリーズがカリフォルニア州ポイント・マグー海軍航空基地 NAS Point Muguに帰還した。この飛行隊は195,000名以上の旅客を輸送し、240,000,000ポンド以上の乾燥貨物と10,000,000ガロン近くの燃料を南極大陸の多くの場所に輸送した
飛行隊はその存続期間中、さまざまな航空機を運用した。固定翼機にはグラマンUF-1Lアルバトロス、デ・ハヴィランド・カナダUC-1オッター、ダグラスC-47スカイトレイン(R4DダコタとLC-47モデル)、ダグラスC-54スカイマスター(R5DとC-54モデル)、ロッキードP-2ネプチューン(P2V-2とP2V-7モデル)、ロッキードR7Vコンステレーション、ロッキードLC-130ハーキュリーズ(LC-130FとLC-130Rモデル)などがあった。ヘリコプターはシコルスキーH-19チカソー(HO4S-3モデル)シコルスキーLH-34シーホース(HUS-1AとHUS-1Lモデル)、ベルUH-1Nツイン・ヒューイを含んでいた。スキー装備のLC-130ハーキュリーズは長い航続距離と重い搭載能力を持ち、1961年以来南極で使用され、今日まで他の部隊でその重要な役割を続けており、VXE-6は1969年から1999年までこのタイプを運用していた。1971年に導入された双発のUH-1Nヒューイ・ヘリコプターは、マクマード基地 McMurdo Stationの半径150マイル以内のアクセス不可能な場所への現地チームと貨物の迅速な輸送を可能にした。3機のVXE-6 LC-130Rモデル(R1 Bu.No. 159129とR2 Bu.No. 160740と160741)はLC-130Hに改造され、NY ANG第109空輸航空団で飛行を続けている
同飛行隊に所属していた水兵・海兵隊員20名と民間人4名が、“ディープ・フリーズ作戦”の支援として南極大陸で航空事故により死亡した
1956年10月18日、P2V-2ネプチューンがホワイトアウト状態のマクマード基地 McMurdo Stationで着陸中に墜落し、デイヴィッド W. キャリー David W. Carey、レイバーン A. ハドマン Rayburn A. Hudman、マリオン O. マーズ Marion O. Marze、チャールズ S. ミラー Charles S. Millerが死亡した
1957年7月12日、HO4S-3が真冬のマクマード基地付近で墜落し、ネルソン R. コール Nelson R. Coleが死亡した
1959年1月4日、UC-1オッターがマーブルポイント Marble Pointで離陸時に墜落し、ハーヴェイ E. ガードナー Harvey E. Gardnerとローレンス J. ファレル Lawrence J. Farrellが死亡した
1961年11月9日、P2V-7がウィルクス・ステーション Wilkes Stationからの離陸時に墜落し、ウィリアム D. カウンツ William D. Counts、ロミュアルド P. コンプトン Romuald P. Compton、ウィリアム W. チャステイン William W. Chastain、ジェームズ L. グレイ James L. Gray、搭乗していた地質学者エドワード C. ティール博士 Dr. Edward C. Thielが死亡した
1966年2月2日、LC-47Jが離陸中にロス棚氷に墜落し、ロナルド・ローゼンタール Ronald Rosenthal、ハロルド M. モリス Harold M. Morris、ウィリアム D. フォーデル William D. Fordell、リチャード S. シモンズ Richard S. Simmons、ウェイン M. シャタック Wayne M. Shattuck、チャールズ C. ケリー Charles C. Kelleyが死亡した
1969年11月19日、マクレナ山 Mount McLennan付近でヘリコプターが墜落し、NZARPの映画監督ジェレミー・サイクス Jeremy SykesとUSARPの地質学者トーマス E. バーグ Thomas E. Bergの民間人2人が死亡した
1987年12月9日、マクマード基地から1200km離れたサイトD-59(カルフール Carrefour)に着陸中のLC-130R(Bu.No. 159131, c/n 4522)が墜落した。この墜落事故でブルース・ベイリー少佐 LCDR Bruce BaileyとAK2ドナルド M. ビーティ二等航空倉庫管理兵曹 AK2 Donald M. Beattyが死亡した。皮肉なことに、このミッションは1971年2月に同じ場所に墜落した“シティ・オブ・クライストチャーチ City of Christchurch”の航空機を回収しようとするものであった
1992年10月13日、UH-1Nヒューイ・ヘリコプター (Bu.No. 158249, c/n 31420)がロイズ岬 Cape Royds付近のホワイトアウト状態で墜落し、ベンジャミン・ミコウ一等航空構造整備兵曹 AMS1 Benjamin MicouとNZARPに勤務していた民間人2名(ガース・ヴァーコー Garth Varcoeとテリー・ニューポート Terry Newport)が死亡した
◎前述の死亡事故に加えて、それほど深刻でない事故もいくつかあった
1970年10月8日、ロッキードC-121Jコンステレーション (Bu.No. 131644、c/n 4145、機体名“ペガサス Pegasus”)がクライストチャーチを出発し、ウィリアムズ・フィールドに向かった。“ディープ・フリーズ作戦”の1970-1971シーズン最初のフライトで、12名の乗員と68名の乗客が搭乗した。ウィリアムズ・フィールドの天候は飛行中にホワイトアウト状態にまで悪化し、猛吹雪で視界はゼロになった。飛行場上空を6回低空で通過したのち、最大風速40マイルの90゚横風の中で着陸を試みた。2回目の着陸を試みた際、右舷の主脚の足回りが雪堤に衝突し、分離した。右舷の主翼が折れ、機体は雪の中を滑り、尾翼に損傷を与えた。乗員5名に軽傷があったのみであった。機体のハルクはまだそこにある
1971年2月1日、LC-130F (Bu.No. 148321、c/n 3567)が野外離陸中にJATOボトルが外れ、ヴィクトリア・ランド Victoria Landに墜落した。これによりノーズ・ランディング・ギアが崩壊した。その2週間後、1971年2月15日、別のLC-130F (Bu.No. 148318、c/n 3562、“シティ・オブ・クライストチャーチ”と命名)がマクマード基地で離陸のための操縦中に暴風雨の中、タキシングで防雪堤を乗り越えた。主翼は地面に激突し、機体は救いようがないほど燃えた。これが米海軍初のハーキュリーズの事故であった。1973年1月28日、LC-130R (Bu.No. 155917、c/n 4305)がホワイトアウト状態の中、遅いゴーアラウンドののち、アムンゼンスコット南極基地 Amundsen-Scott South Pole Stationに不時着した
オリジナルのLC-130Rは1973年にアムンゼンスコット南極基地に着陸中に墜落した
1974/75年シーズン、ドームC Dome Cでのオープン・フィールド離陸中、LC-130FのJATOボトルが外れ、主翼と片方のプロペラを損傷し、離陸が中止された。主翼内で火災が発生し、主翼はさらに損傷した。LC-130Rが科学者と搭乗員の救出を試みた。JATOの使用を嫌ったLC-130Rのノーズ・ギアは、離陸中に荒れた氷と雪の中で崩壊し、救出の試みは中止を余儀なくされた。3機目のLC-130がようやく関係者全員の救出に成功した。全米科学財団と米海軍は、次のシーズンに墜落した2機を回収する計画を立てた。これには、1機目の主翼と2機目の機首着陸装置の交換が含まれた。修理の準備はオフシーズンの間に行われた。気温が十分に上がってから、1975年11月に回収作業が始まった。全ての資材をドームCの現場まで運ぶには、多くのフライトが必要だった。LC-130Fがマクマードに戻るために離陸したとき、別のJATOボトルが外れ、ふたたびプロペラを損傷した。こうしてドームCは、損傷を受けた3機のLC-130の本拠地となった。最後のLC-130の損傷はほかと比べて比較的軽微であったため、最初に修理された。修理チーム、整備チーム、搭乗員の並々ならぬ努力により、3機とも修理され、ドームCから回収された
1993年12月31日、LC-130がジオロジスト山脈 Geologists Rangeのイスベル山 Mount Isbell近くのルーシー氷河 Lucy Glacierに墜落した。この航空機は、バード氷河 Byrd Glacierとニムロッド氷河 Nimrod Glacierの間の山地で6週間地質調査をしていたウィスコンシン大学ミルウォーキー校 University of Wisconsin-Milwaukeeのフィールド・パーティーを回収するところだった。墜落事故は、オープン・フィールドでの離陸中、柔らかい雪の中でプロペラが雪に激突し、胴体に突っ込んだ。損傷したエンジンの燃料に引火し、機体は横回転しながら氷河を約200メートル滑走して停止した。機体は現地でオーヴァーホールされ、3週間後にマクマード基地に戻った

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Update 24/05/04