VT
雷撃飛行隊 Torpedo Squadron

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船等の内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁として又は演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争等で沈没み、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
UFO等超常現象に遭遇した事柄です
※MCAAFは海兵航空補助施設(Marine Corps Auxiliary Air Facility)の略。NASは海軍航空基地(Naval Air Station)の略。NAASは海軍航空補助基地(Naval Auxiliary Air Station)の略。NSは海軍基地(Naval Station)の略(ABC順)
※魚雷飛行隊8(Torpedo Squadron 8: VT-8)は、第二次大戦中のアメリカ海軍の雷撃爆撃機飛行隊である。VT-8は当初、航空母艦ホーネット Hornet(CV-8)の航空群 air groupに配属され、1941年10月の就役直後に同艦に合流した
所在地 駐留日
NAS Norfolk 1943/6/1
航空機の割り当て 初受領日
TBD 1941
TBF-1 1942
TBM-3
日付 主な出来事
1942/6 VT-8の最初の、そして最もよく知られた戦闘任務は、1942年6月4日のミッドウェー海戦であった。旧式のTBDに搭乗したジョン C. ウォルドロン少佐 Lieutenant Commander John C. Waldronの15機は、日本海軍空母への無援護魚雷攻撃中に全て撃墜された。飛行隊は日本の空母に損害を与えることも敵機を破壊することもできなかった。この日ホーネットから飛行したVT-8のメンバーのうち、生存者はジョージ・ゲイ少尉 Ensign George Gayただ一人であった。ゲイは戦闘の翌日に救助された。VT-8はそののち、アメリカ大統領単位勲章 American Presidential Unit Citationを授与された
ミッドウェー海戦の直前、再編成されたVT-8は、TBDの後継機として、より大きく、より速く、より長射程の新型TBF-1を装備した最初の飛行隊となった。ホーネットが太平洋に出撃したとき、ハロルド“スウェード”ラーセン大尉 Lieutenant Harold "Swede" Larsenの指揮下にあった飛行隊の分遣隊は、新しい航空機の最初の出荷を受け取るためにヴァージニア州ノーフォークに残った。ラーセンの分遣隊は、ホーネットがミッドウェー島に向けて出港した翌日に真珠湾に到着した。飛行隊のアヴェンジャーのうち6機は、ラングドン K. フィーバーリング中尉の指揮のもとミッドウェーに飛来し、戦闘に参加した。これらの飛行機はその日、日本艦隊を攻撃した最初の海軍機であった。彼らは戦闘機の援護なしに攻撃し、アヴェンジャーのうち5機が撃墜され、操縦桿と着陸装置が損傷し、後部砲手が死亡した大破した機体で、アルバート K. アーネスト少尉 Ensign Albert K. Earnestとハリー・フェリエ二等航空通信士 Radioman 2nd Class Harry Ferrierだけが生き残った。VT-8の損失はいくつかの原因によるとされている。ホーネットのCAGであったスタンホープ C. リング中佐 Commander Stanhope C. Ringは、急降下爆撃機を援護するため、またワイルドキャットに高度の優位を与えるために、グループの護衛戦闘機を高高度に維持した。この決定は当時ホーネットの指揮官であったマーク・ミッチャー中将 Vice Admiral Marc Mitscherにも支持された。しかし、リングが誤った方位にグループを導いたため、急降下爆撃機が日本艦隊と接触することはなく、ワイルドキャットの配備は最終的には何の結果にもならなかった。ウォルドロンは、VT-8を単独で出発させる前に、無線で編隊を引き継ごうと何度も試みた。ウォルドロンのイニシアチヴとリングの誤った戦術が相まって、VT-8は戦闘機や急降下爆撃機の支援なしに日本軍を攻撃することになった。しかし、戦闘機の護衛付きで攻撃したVT-3を含め、全ての空母艦載魚雷飛行隊がこの戦闘で大きな被害を受けたことは重要である。真珠湾に残っていたVT-8のラーセン分遣隊は、ミッドウェー増援に派遣された航空母艦サラトガ Saratoga(CV-3)に搭載された。彼らはのちにホーネットに移乗し、そこで仲間の死を知った。VT-8はこの分遣隊を核として再編成され、サラトガにふたたび配属された
1942 VT-8はガダルカナル作戦の初期にサラトガから飛来。第二次ソロモン海戦(連合軍側呼称:東部ソロモン海戦 Battle of the Eastern Solomons)では、VT-8は日本海軍航空母艦龍驤の撃沈を支援した。サラトガが日本の潜水艦に魚雷攻撃されると、飛行隊はガダルカナルのヘンダーソン・フィールド Henderson Fieldに配属され、“カクタス空軍 Cactus Air Force”の一員として活躍した。VTR-8は、そこで全機が使用不能になるまで戦い、そののち、他の機体から部品(多くの場合、それ自体が損傷していた)をサルヴェージして1機ずつ使用可能な状態に戻し、単機ユニットとして運用された。VT-8のパイロットと乗員はヘンダーソン・フィールドの地上防衛にも参加し、1942年10月24日から26日にかけての日本軍歩兵の攻撃を撃退した。VT-8の最後の公式任務は1942年11月15日、ガダルカナル島への日本軍最後の主要輸送船団からの損害を受けた輸送船に対して行われた。ガダルカナルを離れ米国に戻ったのち、飛行隊は閉隊した

↑航空母艦龍驤(1941年時)
新しい第8空母航空群(Carrier Air Group 8: CVG-8)の一部として、新しい第8魚雷飛行隊が1943年に設立された。1943年11月にノーフォークで就役したばかりの航空母艦イントレピッド Intrepid(CV-11)に配属された。カリブ海での訓練ののち、VT-8は1944年1月に真珠湾のイントレピッドを離れ、1944年3月に航空母艦バンカー・ヒル Bunker Hill(CV-17)に配属された。VT-8は1944年3月30日と4月1日にパラオ Palau、ヤップ Yap、ウルシー Ulithi、ウォレアイ Woleaiを攻撃。トラック Truk、サタワン Satawan、ポナペ Ponape、ニュー・ギニアのホーランディア Hollandiaは1ヵ月後に攻撃された。CVG-8はそののち、1944年6月12日から8月10日までマリアナ作戦に参加した。VT-8はマリアナ沖海戦(連合軍側呼称:フィリピン海海戦 Battle of the Philippine Sea)とレイテ沖海戦に出撃した。9月には西カロライン諸島が攻撃され、1944年10月と11月には沖縄、ルソン島、台湾が攻撃された。このバンカー・ヒルでの展開により、CVG-8は大統領部隊賞 Presidential Unit Citationを授与された。 1945年6月、VT-8はサラトガと訓練を行ったが、配備はされなかった。VT-8を含むCVG-8は終戦後に閉隊された
VT-8はミッドウェーとガダルカナルで2つの大統領部隊賞を受賞した。また、隊員は戦闘での勇敢さに対して50以上の勲章を獲得している
ハーマン・ウォーク Herman Woukの小説「戦争の黙示録 War and Remembrance」は、彼が“行動するアメリカの魂 the soul of America in action”と呼んだVT-8に敬意を表している。ロバート J. ムラゼック Robert J. Mrazekの著書“A Dawn Like Thunder: The True Story of Torpedo Squadron Eight”は、生き残った隊員へのインタヴュー、同飛行隊の公式戦歴、そして生還できなかった隊員が故郷に書いた手紙の抜粋を通して、VT-8の物語を語っている

↑VT-8's only surviving aircraft: Grumman TBF-1 Avenger (BuNo. 00380), coded "8-T-1," soon after returning to Midway from the morning strike against the Japanese fleet on June 4, 1942 (NH 102559). Image courtesy of Naval History and Heritage Command.

↓の画像のTBD-1とTBF-1がVT-8所属機。ホーネットはCV-7ではなくCV-8

↑Image courtesy of Shipbucket.


Update 23/12/18