VMA
海兵攻撃飛行隊 Marine Attack Squadron

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※MCAAFは海兵航空補助施設(Marine Corps Auxiliary Air Facility)の略。MCASは海兵航空基地(Marine Corps Air Station)の略。NASは海軍航空基地(Naval Air Station)の略。NAASは海軍航空補助基地(Naval Auxiliary Air Station)の略。NSは海軍基地(Naval Station)の略(ABC順)
※第231海兵攻撃飛行隊(Marine Attack Squadron 231: VMA-231)はアメリカ海兵隊の固定翼攻撃飛行隊で、AV-8BハリアーII(V/STOL)ジェット機で構成されている。“エース・オブ・スペード Ace of Spades”として知られるこの飛行隊は、ノース・カロライナ州チェリー・ポイント海兵航空基地 MCAS Cherry Pointを拠点とし、第14海兵航空群(Marine Aircraft Group 14: MAG-14)と第2海兵航空団(2nd Marine Aircraft Wing: 2nd MAW)の指揮下にある

↑Image courtesy of en.wikipedia.org.

所在地 駐留日
Miami 1919/2
San Diego
MCAS Ewa 1941/1
MCAS Cherry Point
航空機の割り当て 初受領日
VE-7F 1919
O2B-1
F8C-1/3 1928
O3U-6 1934
SOC-3 1937
SB2U 1941/1
SBD-3 1942
F4U 1944
AV-8A 1973
AV-8B
日付 主な出来事
1919/2 VMA-231は1919年2月8日に第1師団第1飛行隊 1st Division, Squadron 1としてフロリダ州マイアミで活動を開始した。1918年に北フランスの北部爆撃群 Northern Bombing Groupから生まれた部隊である。2月末までに、新たに活動を開始した飛行隊は、第2旅団 2nd Brigadeの任務のためにサント・ドミンゴ Santo Domingoのサン・ペドロ・デ・マコリス San Pedro de Macorísに到着し、1924年7月まで勤務した。サント・ドミンゴへの配備中、飛行隊は1922年7月1日に第1海兵観測飛行隊(Marine Observation Squadron One: VO-1M)と命名された
飛行隊の徽章である有名なスペードのエースは、飛行隊のメンバーであったヘイン D. ボイデン少尉 2nd Lieutenant Hayne D. Boyden(当時)によってデザインされた。特徴的なエンブレムには“A”と“S”の文字が入っていた。ボイデンによって考案されたように、エースはスートの最初のカードであり、“A”と“S”は「Air(航空)」と「Squadron(飛行隊)」を表している。このデザインは海兵隊航空で初めて登場した公式の部隊章である
サント・ドミンゴからカリフォルニア州サン・ディエゴに移動した飛行隊は、西海岸で最初の海兵隊飛行隊となり、海兵遠征軍 Marine Expeditionary Forceに随行する航空戦力として指定された。西海岸での中断期間中、当時少佐であり司令官であった故ロス E. ローウェル少将 Major General Ross E. Rowellは急降下爆撃戦術の訓練に集中した。このような戦術は、1927年7月、前年の2月に飛行隊が命じられたニカラグアで、飛行隊にとって非常に貴重なものとなった。1927年7月1日にVO-8Mに再指定された直後、飛行隊は7月16日のオコタルの戦いに参加し、10名の飛行隊員がオコタルの海兵隊守備隊を救援し、組織化された敵に対して記録された最初の急降下爆撃攻撃を実行し、反乱軍を退散させ、守備隊を救った。海兵隊飛行士として初めて殊勲飛行十字章 Distinguished Flying Crossを授与されたのは、オコタルの戦いへの参加により授与されたローウェル少佐 Major Rowellとヘイン D. ボイデン中尉 Lieutenant Hayne D. Boydenであった
1928 1928年にサン・ディエゴに戻った飛行隊は、第一次大戦時代のO2B-1を新しいカーチスF8C-1とF8C-3に交換した。F8C/OCを受領した直後、飛行隊はVO-10Mとともに1929年の映画会社コロンビア・ピクチャーズの映画「空の王者 Flight」の撮影に参加した。1930年代初頭に海兵航空が再編・統合されるにつれ、いくつかの長い歴史を持つ飛行隊が消滅し、1933年7月1日にVO-8Mは活動を停止した。姉妹飛行隊を襲った運命とは異なり、VO-8Mは1934年11月15日、VS-14MとVS-15Mを閉隊させ、これら2つの空母飛行隊の航空機と人員を使用してVO-8Mを再編成することが決定され、再活性化された。ヴォートO3U-6コルセアを装備した同飛行隊はサン・ディエゴを拠点に活動を続け、航空母艦ラングリー Langley(CV-1)レンジャー Ranger(CV-4)サラトガ Saratoga(CV-3)を拠点に毎年開催されるフリート・プロブレムズ Fleet Problemsに参加した。1936年、同飛行隊はナショナル・エア・レース National Air Racesのマリン・エヴィエーション Marine Aviation代表に選ばれ、1937年7月1日に第2海兵偵察飛行隊(Marine Scouting Squadron Two: VMS-2)と改称された時もO3U-6を飛行していた。その年の後半、飛行隊はコルセアをカーチスSOC-3シーガルに交換し、そののち4年間運用することになった
1941/1 第2海兵航空群(Marine Air Group Two)の他の部隊とともに、飛行隊は1941年1月にハワイのエワ海兵航空基地 MCAS Ewaに配備され、新型のヴォートSB2Uヴィンディケーターを受領した2番目の飛行隊となり、最終的に1941年に27機を受領した。新しい航空機とともに新しい呼称が与えられ、1941年7月1日、飛行隊は第231海兵偵察爆撃飛行隊231(Marine Scout-Bombing Squadron 231: VMSB-231)と再指定された。戦争の予兆が高まる中、クラレンス J. チャペル少佐 Major Clarence J. Chappellの指揮の下、飛行隊は1941年12月の第1週に航空母艦レキシントン Lexington(CV-2)に乗艦し、真珠湾攻撃の知らせが空母に届いたときにはミッドウェー環礁に向かっていた
1941/12 真珠湾攻撃の際、飛行隊はレキシントンに乗艦していたが、後方の部隊はエワ海兵航空基地に残っていた予備のSB2U-3を7機失った。飛行隊は1941年12月10日にエワ海兵航空基地に戻ったが、その1週間後にふたたびミッドウェーに向かった。燃料タンクを増設し、PBYカタリナ飛行艇を護衛につけた飛行隊は、単発機による当時最長の水上飛行を行い、一機も乗員を失うことなくミッドウェーに到着した。飛行隊は日常的なパトロールを行い、予想される日本軍の攻撃を待った。1942年3月1日、まだミッドウェーにいたとき、VMSB-241が創設され、飛行隊は2つに分割され、2つの飛行隊は同じ機体で並んで運用された。そののち間もなく、VMSB-231は正式にエワに戻されたが、その人員の大部分とすべての航空機はミッドウェーに残った
1942/7 MCASエワで再編成された飛行隊は、ダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機を受領し、第23海兵航空群(Marine Aircraft Group 23: MAG-23)に編入された。ゆっくりと新しいSBD-3ドーントレスとパイロットを受け取り、飛行隊は1942年7月に海外任務への配備を通告された。VMF-224とともに、同飛行隊はMAG-23の後方部隊を構成し、1942年8月の最終週に貨物航空機運搬艦キティ・ホーク Kitty Hawk(AKV-1)に搭載され、南太平洋に輸送された。エファテ島 Efateに到着した飛行隊はそこで一夜を過ごし、飛行隊の航空機は航空機搭載護衛艦ロング・アイランド Long Island(AVG-1)にクレーン輸送された。翌日、SBDはロング・アイランドからカタパルト輸送され、 Espiritu Santoへ向かった。さらに一晩待機したのち、飛行隊は1942年8月30日にガダルカナルのヘンダーソン・フィールド Henderson Fieldに飛行し、フィールドで毎日行われる日本軍の空襲の直前に到着し、上陸作戦を行った2番目の海兵隊急降下爆撃機飛行隊となった。レオ・スミス少佐 Major Leo Smith、ルーベン・アイデン大尉 Captain Ruben Idenとエルマー・グリデン大尉 Captain Elmer Gliddenはガダルカナル Guadalcanal滞在中に飛行隊を指揮した。アイデン大尉は指揮官就任の翌日、1942年9月20日に戦死した。ガダルカナルでは、1942年8月30日から10月3日の間に、飛行隊の12機のSBDのうち11機が失われるか、運用不能となった。この間、グレン・ローフェル中尉 Lieutenant Glen Loeffelは、1942年10月4日に日本の重巡洋艦古鷹を単独で攻撃し、多大な損害を与え、最終的に1942年10月11日に沈没させた功績により、英雄として海軍十字章 Navy Crossを授与された。VMF-231は1942年8月30日から11月2日まで“カクタス空軍 Cactus Air Force”の一員としてガダルカナルで活動した。そののち、カリフォルニア州サン・ディエゴ海軍航空基地 NAS San Diegoに輸送され、1942年11月19日に到着し、さらに北上して1943年1月にカリフォルニア州エル・トロ海兵航空基地 MCAS El Toroに移動した

↑一等巡洋艦古鷹
1944/2 飛行隊はふたたび太平洋戦線に配備され、1944年2月4日にマーシャル諸島の日本軍守備隊を迂回して爆撃する作戦を開始した。1944年10月、VMBF-231に改称され、F4Uコルセア戦闘機に受領された。2ヵ月後の1944年12月30日にはVMSB-231の名称に戻り、1945年8月に日本が降伏するまでマーシャル諸島に留まった。第二次大戦中、飛行隊は空対空戦闘で7機の日本軍機を撃墜したことで知られている
1946/3 第二次大戦後、飛行隊は護衛航空母艦ヴェラ・ガルフ Vella Gulf(CVE-111)乗艦中の1946年3月に閉隊した。飛行隊の資産はVMF(CVS)-214に吸収された。飛行隊は1948年9月にVMF-231としてアメリカ海兵隊予備役としてオハイオ州アクロンとミシガン州グロスイル・タウンシップで再活性化され、1962年8月31日にふたたび閉隊するまで活動した
1973/5 VMA-231は1973年5月15日に再活性化され、海兵隊で最も古い飛行隊は海兵隊で最も新しい飛行隊となり、海兵隊で最も新しい航空機であるホーカー・シドレーAV-8Aハリアーに搭乗した。AV-8Aは高性能、高速ジェット機であり、ほかに類を見ない垂直・短距離離着陸(vertical and short take off and landing: VSTOL)が可能であった
1976/10 1976年10月4日、VMA-231は第19空母航空団(Carrier Air Wing 19)とともに汎用航空母艦フランクリン D. ルーズヴェルト Franklin D. Roosevelt(CV-42)に搭載され、地中海に展開した。VMA-231はスペイン、イタリア、シチリア、ケニア、エジプトを訪問した。このクルーズのハイライトは、強襲揚陸艦グアム Guam(LPH-9)でのスエズ運河の通過と、12機のAV-8Aによるケニアの独立記念日の祝典へのVMA-231の参加であった。VMA-231は1977年4月20日に第2海兵航空団に復帰し、飛行隊は無事にノース・カロライナ州チェリー・ポイント海兵航空基地 MCAS Cherry Pointに帰還した。また1977年、VMA-231は年間最優秀V/STOL飛行隊 V/STOL Squadron of the Yearに選ばれ、この賞の最初の受賞者となった
1990/6 1990年6月、VMA-231は戦後初めて飛行隊として西太平洋に派遣された。訓練は日本の岩国と沖縄、フィリピン諸島と韓国で続けられた。特筆すべきは、同飛行隊が7月のルソン島北部地震を乗り切ったことである。“砂漠の盾作戦 Operation Desert Shield”を支援するため東南アジアに向かう命令を受け、部隊の配備は延長された。“エース・オブ・スペード Ace of Spades”は14日間で18,000海里を飛行し、第13海兵航空群(Marine Aircraft Group 13: MAG-13)(前方 forward)に合流した。この旅程中、飛行隊は12月に904飛行時間を記録し、これは艦隊ハリアー飛行隊 fleet Harrier squadronsの記録となった
1991/1 1991年1月17日の朝、“砂漠の嵐作戦 Operation Desert Storm”が開始され、VMA-231はサウジ・アラビア国境の町カフジ Khafjiを無差別に砲撃していたイラクの砲台を沈黙させる戦闘任務に就いていた。1991年2月9日、大尉に昇進したばかりのパイロット、ラッセル A. C. サンボーン Russell A. C. Sanbornの機体は、戦闘任務中にイラク占領下のクウェート砂漠上空で地対空ミサイルによって撃墜された。制御不能のジェット機が砂地に向かって反転しながら突進する中、彼は無事に脱出したが、すぐにイラク軍に捕らえられた。26日間、彼は狭くじめじめした不衛生な独房に収容され、1991年3月6日に他の15名のアメリカ人とともに送還されるまで、捕虜によって拷問を受けた。空戦が激化し、重要な地上作戦が始まった1991年2月、第231海兵攻撃飛行隊 Marine Attack Squadron 231は966.2時間を記録した。この月間総飛行時間は米国海兵隊のハリアー記録である。同飛行隊は紛争中、合計987回の戦闘出撃、1,195.8時間を飛行した。合計で1,660発のMk. 82、62発のMk. 83、969発のMk. 20ロックアイ、78発のMk. 77焼夷爆弾、22,709発の25mm弾薬が使用された。総計1,692,000ポンドの弾薬が敵の陣地や設備に対して投下された
1988 1991年9月、6機の分遣隊がHMH-362とともに強襲揚陸艦(汎用)サイパン Saipan(LHA-2)に派遣され、第22海兵遠征ユニット 22nd Marine Expeditionary Unitの一員としてペルシャ湾で活動した
1992/11 1992年11月、飛行隊の一部と14機のジェット機を日本の岩国海兵航空基地 MCAS Iwakuniに派遣し、6機のジェット機をノース・カロライナ州のチェリー・ポイント海兵航空基地に残して、サイパン艦上の第26海兵遠征ユニット 26th Marine Expeditionary Unitを支援するため、飛行隊は2地点デプロイメントに乗り出した
1995/2 1995年2月から1996年8月まで、VMA-231は強襲揚陸艦(多目的)キアサージ Kearsarge(LHD-3)に乗艦している第24海兵遠征ユニット 24th Marine Expeditionary Unitとともに、墜落した米空軍パイロットのスコット・オグレディ大尉 Captain Scott O'Gradyの救出に参加し、また強襲揚陸艦(多目的)ワスプ Wasp(LHD-1)に乗艦している26th MEUとともに、“デナイ・フライト作戦 Operation Deny Flight”に参加した
1999/4 1999年4月、同飛行隊は26th MEUとともにキアサージ艦に配備された。ユーゴスラヴィア連邦共和国の標的を爆撃する“アライド・フォース作戦 Operation Allied Force”など、多くの作戦に参加した。また、“ジョイント・ガーディアン作戦 Operation Joint Guardian”、“シャイニング・ホープ作戦 Operation Shining Hope”、“アヴィッド・レスポンス作戦 Operation Avid Response”にも参加した
2003/4 2003年4月、飛行隊の分遣隊は24th MEUの一員としてイラク侵攻に参加した。2007年春、飛行隊は“イラクの自由作戦 Operation Iraqi Freedom”を支援するため、ふたたびアル・アサド基地 Al Asad Airbaseに展開した。この間、VMA-231は合計5,158飛行時間を超える1,738回の戦闘出撃を行った
2009/11 2009年11月、飛行隊は“不朽の自由作戦”(Operation Enduring Freedom: OEF)を支援するためにアフガニスタンに展開した。第14海兵航空群 Marine Aircraft Group 14に属し、カンダハル国際空港 Kandahar International Airportを拠点に第2海兵遠征旅団(2nd Marine Expeditionary Brigade: 2nd MEB)を支援する近接航空支援任務を飛行していた。2010年初夏に帰国した
2026 VMA-231は2026年にF-35Bへの移行を開始する予定である

↑ATLANTIC OCEAN (Dec. 6, 2022) - Capt. Robert Weede, an AV-8B Harrier II pilot assigned to Marine Attack Squadron (VMA) 231, receives the signal for takeoff from Aviation Boatswain's Mate (Handling) 3rd Class Donahven Beaver on the flight deck aboard the amphibious assault ship USS Kearsarge (LHD-3), Dec. 6, 2022. VMA-231 trained with U.S. Sailors to strengthen interoperability and conduct carrier qualifications prior to their upcoming deployment with the 26th Marine Expeditionary Unit. VMA-231 is a subordinate unit of 2nd Marine Aircraft Wing, the aviation combat element of II Marine Expeditionary Force. (U.S. Marine Corps photo by Cpl. Christian Cortez)


Update 24/02/18