VA
攻撃飛行隊 Attack Squadron

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
UFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※MCAAFは海兵航空補助施設(Marine Corps Auxiliary Air Facility)の略。NASは海軍航空基地(Naval Air Station)の略。NAASは海軍航空補助基地(Naval Auxiliary Air Station)の略。NSは海軍基地(Naval Station)の略(ABC順)。Fighter Attack Squadronは1983年にStrike Fighter Squadronに改称された
※1943年7月20日、第18爆撃飛行隊(Bombing Squadron EIGHTEEN: VB-18)として設立。1946年11月15日、第7A攻撃飛行隊(Attack Squadron SEVEN A: VA-7A)に改称。1948年7月27日、第74攻撃飛行隊(Attack Squadron SEVENTY FOUR: VA-74)に改編。1950年2月15日、第75攻撃飛行隊(Attack Squadron SEVENTY FIVE: VA-75)に改称。1997年2月28日に閉隊。VA-75の名称を与えられた2番目の飛行隊。ニックネームはSunday Punchers(1943~1997)

↑Image courtesy of en.wikipedia.org.

所在地 駐留日
NAS Alameda 1943/7/20
NAAS Watsonville 1943/9/26
NAAS Crows Landing 1943/12/10
NAS Hilo 1944/2/29
NAS Kaneohe 1944/6/5
NAS Alameda 1944/12/20
NAS Astoria 1945/1/25
NAS San Diego 1945/4/22
NAS Quonset Point 1945/11/27
NAS Oceana 1957/10
飛行隊が戦闘配備に備えて訓練を行っている間、一時的な陸上勤務
航空機の割り当て 初受領日
SBD-5 1943/7/20
SB2C-1 1944/3/25
SB2C-1C 1944/4/25
SB2C-3 1944/7/10
SB2C-4 1945/2
SB2C-4E 1945/3
SB2W-5 1946/7
SB2C-5 1946/7
F4U-4B 1948/4/15
F4U-4 1948/12
AD-3 1949/6
AD-4 1950/6
AD-4Q 1950/12/5
AD-6/A-1H 1955/7
AD-5 1956/4
A-6A 1963/11/14
A-6B 1967/12/21
KA-6D 1970/12/18
A-6E 1973/8/6
AD-6の呼称は1962年にA-1Hに変更された
航空団 テイル・コード 割り当て日
CVG-18/CVAG-7/CVG-7/CVW-7 L/AG 1943/7/20
COMFAIRNORFOLK 1967/7/1
CVW-11 NH 1967/10/10
COMFAIRNORFOLK 1968/6/28
CVW-3 AC 1968/10/15
1946年11月15日、CVG-18はCVAG-7に改称。1948年9月1日、CVAG-7はCVG-7に改称。1963年12月20日に空母航空群(Carrier Air Group: CVG)が空母航空団(Carrier Air Wings: CVW)に改称された際、CVG-7はCVW-7に改称された。テイル・コードは1957年にLからAGに変更された。この変更の発効日は恐らく1958年度の初め(1957年7月1日)であろう
日付 主な出来事
1944/2/5 飛行隊の指揮官であったハーラン R. ディクソン少佐 LCDR Harlan R. Dicksonが、訓練中の急降下中に高速失速して墜落し、戦死した
1944/10/12 飛行隊隊指揮官マーク・エスリック中佐 Commander Mark Eslickが台湾の基隆港攻撃中に戦死
1944/10/24~26 飛行隊はレイテ島占領作戦の一部であるレイテ沖海戦に参加。10月24日、VB-18のSB2Cはシブヤン海で日本軍の強力な水上部隊に対して出撃した。これらの攻撃は世界で2隻ある巨大戦艦の1つである武蔵の沈没に貢献した。10月25日、飛行隊の飛行機は高速空母任務部隊の一員として、エンガノ岬沖海戦で日本の空母部隊を攻撃した。この交戦で4隻の日本空母が撃沈された。26日、飛行隊の飛行機はサマール沖海戦から撤退する日本水上部隊の攻撃に参加した

↑大和型戦艦武蔵(1944年時)
1944/10/24 VB-18に所属していたドナルド L. ウィルソン大尉 Lieutenant Donald L. Wilsonはレイテ沖海戦で日本戦艦に直撃弾を命中させ、海軍十字章 Navy Crossを授与される。第二次大戦後、ウィルソン大尉は飛行隊の指揮官となる
1944/10/25 エンガノ岬沖海戦で日本空母機動部隊に対する攻撃で中隊を指揮し、日本空母に直撃弾を命中させたことで、中隊指揮官のジョージ D. ゲスキエール少佐 Lieutenant Commander George D. Ghesquiereが海軍十字章を授与される
1944/10/26 ベンジャミン G. プレストン大尉 Lieutenant Benjamin G. Prestonは、エンガノ岬沖海戦で急降下爆撃機隊を率いて日本空母機動部隊を攻撃した功績により、3度目の海軍十字章の代わりに金星 Gold Starを授与された。1953年、彼は飛行隊の指揮官となる
1946/9~12 飛行隊はカリブ海での航空母艦レイテ Leyte(CV-32)のシェイクダウン・クルーズと、チリの大統領ガブリエル・ゴンサレス・ヴィデラ President Gabriel González Videlaの就任のための南米親善クルーズに参加した
1949/1/25 地中海でイギリス海軍航空母艦トライアンフ Triumph(R.16)と共同作戦
1952/6/23 第7航空群 Air Group 7およびアメリカ空軍との共同作戦で、それまで攻撃が制限されていた北朝鮮の水力発電施設を攻撃した
1952/7/11 飛行隊はCVG-7、航空母艦レイテ Princeton(CV-37)、アメリカ空軍、海兵隊、オーストラリア空軍、イギリス海軍の航空機とともに北朝鮮の平壌に対する統合攻撃に参加した
1952/12/5 敵部隊の集中攻撃で、飛行隊の指揮官であったH. K. エヴァンス中佐 Commander H. K. Evansは、航空機が対空砲火を受け墜落し、行方不明となった
1961/4 アメリカが支援したキューバ亡命者によるキューバ侵攻作戦“ピッグス湾事件”の際、飛行隊は攻撃航空母艦インディペンデンス Independence(CVA-62)からキューバのグアンタナモ湾南方一帯で作戦行動
1962/10/22~11/22 インディペンデンスに乗艦中、キューバ検疫に参加
1963/11/14 A-6Aが配備された最初の艦隊飛行隊となる
1965/5~12 VA-75はA-6Aイントルーダーを配備し、戦闘環境で運用した最初の飛行隊となる
1965/9/18 敵哨戒艇への夜間爆撃に従事していた同飛行隊の指揮官レナード・ヴォクト中佐 Commander Leonard Vogtが、戦闘任務中に行方不明となる
1968/2/24 1968年2月24日 ジェロルド M. ザカリアス中佐 Commander Jerrold M. Zachariasとマイケル L. ホール少佐 Lieutenant Commander Michael L. Hallは、VA-35とともにハノイ HanoiへのA-6Aによる連携攻撃を計画・実行した功績により、海軍十字章を授与された
1970/9~10 VA-75は攻撃航空母艦サラトガ Saratoga(CVA-60)から地中海東部に派遣され、ヨルダンのパレスチナ人との危機が続く中、シリアによるヨルダン侵攻に対処した
1971/10/7 VA-75はソノブイを投下した最初のA-6飛行隊となった。統合されたA-6Aレーダー・システム A-6A radar systemとA-6B対レーダー・システム A-6B antiradiation systemは、ソノブイの正確な位置決めと放出に利用された。このイヴェントは、攻撃とASWの両方の役割で効果的に動作する空母の能力を決定するためにサラトガによって実施されているCVコンセプトの全体的な評価の一部であった
1972/6~10 “ラインバッカーI作戦 Linebacker I operations”、北ヴェトナムの標的に対する激しい空爆、沿岸海域での機雷作戦に参加
1972/8/6 チャールズ・アーネスト中佐 Commander Charles Earnestとグレイディ・L・ジャクソン少佐 Lieutenant Commander Grady L. Jacksonは、北ヴェトナムの防衛が厳重な地域で、墜落したパイロットの夜間内陸救助を成功させた指揮官として銀星章 Silver Starを授与された
1972/10/10 ジョン A. ピエノ少佐 Lieutenant Commander John A. Pienoとジョン R. フラー中尉 Lieutenant Junior Grade John R. Fullerは、夕暮れ時、北ヴェトナムのバイ・トン飛行場 airfield of Bai Thongへの2機の攻撃機の爆撃手兼ナヴィゲーターとしての行動により、銀星章を授与された
1972/11/28 飛行隊の指揮官であったチャールズ・アーネスト中佐が、“ヤンキー・ステーション Yankee Station”での作戦中、サラトガからのカタパルト発艦後の航空機事故で死亡
1972/12/19~29 北ヴェトナムの20度線上空での重爆撃の再開である“ラインバッカーII作戦 Linebacker II operations”に参加。この作戦はハノイとハイフォン Haiphongの沿岸部を集中攻撃した
1970/11/21 飛行隊の航空機が戦闘空中哨戒機を飛ばす一方、陸軍と空軍の捜索救助チームがアメリカ人捕虜を解放するため、ハノイ Hanoiの西20マイルにあるソン・タイ捕虜収容所 Son Tay POW compoundを襲撃。残念なことに、捕虜収容所はすでに北ヴェトナムによって避難されていた
1972/12 飛行隊は“ラインバッカーII作戦 Linebacker II Operations”に参加し、主にハノイとハイフォン Haiphong周辺の目標に対する激しい空爆を行った
1975/1/18 キプロスのニコシア Nicosiaのアメリカ大使館に対する暴力的なデモののち、VA-75はキプロス沖のサラトガから運航された
1976/4 レバノンでの緊張が高まる中、サラトガとその航空団はクレタ島の南で作戦を行い、同国からアメリカ人を避難させる必要が生じた場合の支援に備えた
1980/1/8 飛行隊の指揮官であるA. J. リンチ中佐, Commander A. J. Lynchとチャールズ J. モロー大尉 Lieutenant Charles J. Morrowは、夜間着陸中に駐機中の航空機数機に衝突し、海に激突して行方不明となった
1982/6 イスラエルがレバノンに侵攻し、汎用航空母艦ジョン F. ケネディ John F. Kennedy(CV-67)はレバノン沖での作戦を命じられた。VA-75は空母から出撃し、レバノンのベイルートから米国人を避難させる必要が生じた場合の航空支援に備えた
1987/7 イラン・イラク戦争でペルシャ湾の商船やタンカーが攻撃されるようになったため、米国はクウェートの石油タンカーを護衛するようになった。“アーネスト・ウィル作戦 Operation Earnest Will”の間、VFA-25はホルムズ海峡 Straits of Hormuzを通過するリフラッグ・タンカー reflagged tankersを航空援護した
1983/12/4 ケネディが多国籍平和維持軍を支援するためレバノン沖で作戦行動中、12月3日、空母のF-14偵察機数機がシリアの地対空ミサイルおよび対空陣地から敵の攻撃を受けた。CVW-3の部隊と汎用航空母艦インディペンデンス(CV-62)の航空機が、レバノンのハンマーナ付近のシリアの対空陣地に対して報復攻撃を行った。同飛行隊の指揮官であるジェームズ R. グラヴァー中佐 CDR James R. Gloverは、VA-75のA-6E3機を率いて攻撃に参加し、対空陣地を破壊することに成功した。VA-75はまた、2機のKA-6Dタンカー機もこの作戦に提供した
1984/2/6 VA-75は、ベイルート国際空港の米海兵隊(多国籍平和維持軍の一部)からの要請を受け、ケネディから警戒機を発進させ、彼らの陣地に対する攻撃を制圧した。飛行隊のA-6Eは敵の陣地にレーザー誘導爆弾を投下し、攻撃を効果的に終了させた
1987/2 アメリカ人人質をめぐるレバノンの緊張が高まる中、ケネディはレバノン沖での作戦を命じられた。VA-75は空母から退避する可能性に備えて作戦飛行を行った
1989/1 リビア北東端沖での定期訓練中、F-14トムキャット2機がリビアのMiG-23戦闘機2機に接近され、平和的な迎撃を繰り返した後、F-14がリビア機を撃墜。VA-75のKA-6Dタンカーは、撃墜に関与した2機のF-14に給油支援を行った
1989/8 訓練中、飛行隊のA-6E SWIP機がサイドワインダー(AIM-9H)空対空ミサイルを初めて発射し、ミサイルを直撃させた
1990/9~10
1990/12~1991/1
飛行隊はイラクによるサウジ・アラビア侵攻の脅威に対抗するため、またイラクのクウェートからの撤退を強制するための経済封鎖の一環として、アメリカ軍と連合軍を増強した“砂漠の盾作戦 Operation Desert Shield”に参加した


Update 23/12/29