陸軍輸送船
| アイコン | 意味 |
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| 不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です |
- ※United States Army Transport(合衆国陸軍輸送船)の略
- 総トン数:3,261t 全長:97.81m 幅:14.02m 吃水:6.09m 主機/軸数:9気筒ターボチャージャー付きディーゼル2基 速力:20.0kt 乗員:乗客408名
↑Don Isidro 24 December 1941 (Australian War Memorial, Naval Historical Collection). Image courtesy of en.wikipedia.org.
| 艦名 | NAME | 建造所 | 就役日 | 退役日 | 除籍日 | 備考 |
| ドン・イシドロ | Don Isidro | Friedrich Krupp Germaniawerft A.G. | ◎1942/5/1 1939年建造のDe La Rama Steamship Companyのフィリピン海域における島間旅客輸送に就航 ◎1939年9月5日、Kielからマニラへの処女航海でスエズ運河を出た直後、ポートサイドで事件に巻き込まれた。英国当局は、訓練と技術支援のために同乗していたドイツ人技師2名を船から降ろした。これはルーズヴェルト大統領 President Rooseveltが中立宣言を行った翌日に“違法かつ米国の中立権侵害”として米国の外交的抗議を招いた。英国の説明は国務省を満足させるものではなかったが、“今後同様の事例が許されないという前提”で決着したと見なされた ◎そののち26か月間、ドン・イシドロは、より小型で若干古いドン・エステバン Don Estebanとともに、島間旅客輸送を担う豪華客船として注目された。しかし1941年12月7日(ハワイ時間)、日本軍による真珠湾攻撃が発生。わずか数時間後の12月8日(フィリピン時間)にはフィリピンにも戦火がおよんだ ◎1941年12月23日と26日にそれぞれマニラが撤退され、開放都市と宣言されるまでのドン・イシドロの動向はともかく、同船はWar Shipping Administrationの管轄下に入り、1942年1月11日にフリーマントルで米陸軍チャーターに割り当てられ、1942年1月22日にはBrisbaneで食糧と弾薬を積載していた。1942年1月22日、防衛部隊がAbucay-Mauban防衛線からバターン半島最終防衛線への撤退を命じられた際、同船は食糧と弾薬を積載中だった。1942年1月27日午後1時45分、同船は“特別任務”としてBrisbaneを出航し、“コレヒドール島行き”と称してバターンに残留する部隊への補給を目指した ◎Brisbaneにおける同船の位置は偶然ではなかった。マレー障壁構想がまだ有効だったため、物資や船舶はBrisbaneからオランダ領東インドへ送られており、フィリピン侵攻にともないオーストラリアへ迂回した多数の船舶にとって同港は最初の寄港地となっていた。特に弾薬を含む重要な物資は既に現地に存在するか、包囲されたフィリピン軍に最も近いジャワ島へ向かう途中であり、小型で高速な封鎖突破船が現地で容易に入手可能と見込まれていた。海軍の試作水上機XPBS-1でさえ、サン・ディエゴから緊急発注された魚雷起爆装置と重要な航空機部品を積んでオーストラリア経由でジャワへ送られていた。さらに1月30日に真珠湾を出航した際には、パトリック・ハーリー少将 Major General Patrick Hurleyが現金入りの鞄を携え、現地調達用の重要物資購入資金として追加で派遣されていた。ペンサコーラ護送船団 Pensacola ConvoyとC3-A P&C型貨客船プレジデント・ポーク President Polk(MCハル110)は、まずBrisbaneへ迂回したのち、フィリピン駐留部隊向けの物資・軍需品を積んでジャワへ向かった。ポークは1942年1月12日、55機のP-40E戦闘機と4機のC-53輸送機(パイロット55名含む)、20,000,000発の.30口径弾、 447,000発の.50口径弾、30,000発の3インチ対空砲弾、5,000発の75mm砲弾に加え、5貨車分の魚雷、615,000ポンド以上の食糧、パイロットと乗組員を除く178名の将兵を輸送していた。ドン・イシドロが同じ目的地に向けて積み込みを終え出航しようとしていたまさにその時、同船はジャワ島へ向かっていた ◎シスネロス船長 Captain Cisnerosは、貨物船Coast Farmer(元1023型貨物船リヴァーサイド・ブリッジ Riverside Bridge(USSBハル837))が同じ任務のためにブリスベンを出発する準備をしていたにもかかわらず、エンジン修理、燃料と水の補給のために、オーストラリアの南を回り、西海岸のフリーマントルに向かった。SF作家L. ロン・ハバード L. Ron Hubbardは当時、米海軍大尉として、オーストラリア南部を“3000マイルも遠回り”してドン・イシドロを航行させたことで懲罰処分を受けた。1942年2月9日に同地に到着すると、日本軍がテンガ飛行場 Tengah airfieldを占領し、シンガポール島にも追加上陸し、スマトラ島への進軍を開始したため、計画全体が崩壊しつつあった。シンガポールの情勢が悪化し、日本軍がボルネオとセレベスを制圧する中、2月10日に米海軍代表と会談した結果、計画は変更された。ドン・イシドロは同日遅く、スンダ海峡を通ってインド洋へ向かう英国護衛船団に合流した。同船は13日に護送船団から分離し、ジャワ島南方を通過、ティモール海を経てトレス海峡を抜け、ニュー・ギニア東方のダンピア海峡を突破。ビスマルク海と太平洋を経由してフィリピンへ向かう航路を試みた ◎同船がその試みを行っている最中、日本軍は2月14日にスマトラ島への上陸を開始し、シンガポールは15日に降伏した。スマトラ島からジャワ島への部隊撤退は完了し、バリ島は占領され、ジャワ島は17日に孤立した。ドン・イシドロの運命に関して特筆すべきは、重巡洋艦ヒューストン Houston(CA-30)に護衛された連合軍輸送船団がティモール島へ向かう途中、18日にダーウィンへ引き返したことである ◎トレス海峡への航行は順調に進んでいたが、17日に未知の駆逐艦と貨物船が逆方向に向かうのを発見。さらに2月18日、ドン・イシドロは日本の爆撃機から2度の攻撃を受けた(損傷なし)。この攻撃が決定的となり、艦長は味方港であるダーウィンへ向かう決断を下した。 ◎ダーウィン攻撃から空母へ帰還中の日本機は、当時ティモール護送船団の艦船が所在していた海域で、空母蒼龍と飛龍から給油・再武装した9機の急降下爆撃機を伴い、同艦への最終攻撃のため250kg(550ポンド)の爆弾を搭載して帰還中のドン・イシドロを発見した ↑航空母艦蒼龍 ↑航空母艦飛龍 ◎ドン・イシドロはメルヴィル島沖で座礁し、放棄された。乗組員67名のうち11名が死亡し、多数が負傷した ◎防衛分遣隊の隊員8名が負傷し、中には重傷者もいた。分遣隊の指揮官であるケイン少尉 Second Lieutenant Kaneはダーウィンの病院で壊疽のため死亡した。 ◎ドン・イシドロは、バターン島とコリゲドール島への補給作戦が概ね失敗に終わった際、オーストラリアまたはオランダ領東インドから日本軍によるフィリピン封鎖を突破しようと試みたことが知られている8隻の陸軍船艇のうちの1隻である。島内には小規模な封鎖突破船が存在し、そのうち数隻は包囲地域への突破に成功した。島外からの突破作戦で成功したのはわずか3隻で、そのうち1隻はドン・イシドロの姉妹船であるDe La RamaのDona Natiである。ほかの2隻は、2月17日にミンダナオ島北部のアナカンに到着したCoast Farmerと、3月にセブ市に到着した中国船Anhuiである。海軍は潜水艦による物資の輸送と避難に成功した ◎ドン・イシドロの残骸は、1976年連邦歴史難破船法 Commonwealth Historic Shipwrecks Act 1976によって保護されている。 |
Update 25/11/24