海兵中型ヘリコプター飛行隊 Marine Medium Helicopter Squadron
アイコン | 意味 |
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません | |
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです | |
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です | |
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です | |
インターネットやTVゲームに登場する事柄です | |
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です |
- ※MCAAFは海兵航空補助施設(Marine Corps Auxiliary Air Facility)の略。NASは海軍航空基地(Naval Air Station)の略。NAASは海軍航空補助基地(Naval Auxiliary Air Station)の略。NSは海軍基地(Naval Station)の略(ABC順)
- ※第261海兵中型ティルトローター飛行隊(Marine Medium Tiltrotor Squadron 261: VMM-261)は、MV-22Bオスプリーで構成されるアメリカ海兵隊のティルトローター飛行隊である。“レイジング・ブルズ Raging Bulls”として知られるこの飛行隊は、ノース・カロライナ州ニュー・リヴァー海兵航空基地 MCAS New Riverを拠点とし、通常、第26海兵航空群(Marine Aircraft Group 26: MAG-26)および第2海兵航空団(2nd Marine Aircraft Wing: 2nd MAW)の指揮下にある。海兵隊でMV-22オスプリーに移行した4番目の飛行隊である。水陸両用作戦およびそののちの上陸作戦において、戦闘部隊、物資、装備品の強襲支援を行う。通常、VMM飛行隊は、通常の突撃支援任務や特殊作戦を含むあらゆるレヴェルの海兵航空地上任務部隊(Marine Air-Ground Task Force: MAGTF)任務の航空戦闘部隊(aviation combat element: ACE)の基礎を提供する
所在地 | 駐留日 |
MCAS Cherry Point | 1951/4/5 |
MCAS New River | 1954 |
日付 | 主な出来事 |
1951/4 | 第261海兵ヘリコプター輸送飛行隊(Marine Helicopter Transport Squadron 261: HMR-261)は、1951年4月5日にノース・カロライナ州のチェリー・ポイント海兵航空基地 MCAS Cherry Pointで就役した。それ以来、ヘリコプターのテイル・コードは“EM”となっている。1952年1月20日から2月28日まで、飛行隊は“HELEX I作戦 Operation HELEX I”と“HELEX II作戦 Operation HELEX II”に参加し、護衛航空母艦シボニー Siboney(CVE-112)から運用される艦対地攻撃ヘリコプターの運用を実証した |
1954 | 1954年、飛行隊はチェリー・ポイント海兵航空基地からノース・カロライナ州ニュー・リヴァー海兵航空基地 MCAS New Riverに移転した。1954年10月、HMR-261はHRSヘリコプターを軽航空母艦サイパン Saipan(CVL-48)に乗せ、ハイチに向け出航し、ハリケーン“ヘイゼル Hazel”後の人道支援/災害救援任務を行った。1956年12月、同飛行隊は第261軽海兵ヘリコプター飛行隊(Marine Helicopter Squadron-Light 261: HMR(L)-261)に再指定された。1957年2月、同飛行隊はHRS-1ヘリコプターの後継機としてH-34チョクトーの受領を開始した。1961年、飛行隊は第261海兵中型ヘリコプター飛行隊(Marine Medium Helicopter Squadron 261: HMM-261)と再指定された。飛行隊はそれまでにUH-34Dヘリコプターに搭乗していた。1961年7月から8月にかけて、同飛行隊は南シナ海の強襲揚陸艦セティス・ベイ Thetis Bay(LPH-6)に配備された |
1962/4 | 1962年4月までに、飛行隊は沖縄の海兵隊普天間基地を拠点とする第16海兵航空群(Marine Aircraft Group 26: MAG-16)に配属された。飛行隊はフィリピンでの演習に参加していたが、強襲揚陸艦プリンストン Princeton(LPH-5)で運用されているHMM-362とヘリコプターを交換する命令を受けた。4月15日、HMM-362は南ヴェトナムのメコン・デルタにあるSóc Trăng飛行場に上陸し、最初の“シュフライ作戦飛行隊 Operation Shufly squadron”となり、飛行隊は特別上陸部隊(Special Landing Force: SLF)ヘリコプター飛行隊となった |
1962/5 | 1962年5月15日、5月初旬のルアン・ナムタの戦い Battle of Luang Namthaでヴェトナム人民軍とパテート・ラオ軍がラオス王立軍を破ったことを受け、タイ北部への共産主義者の侵攻が間近に迫っているように見え、ケネディ政権は攻撃を抑止するためにタイに米軍の戦闘部隊を派遣するよう命じた。5月18日、SLFはバンコクに上陸し、そののちウドーン王立タイ空軍基地 Udorn Royal Thai Air Force Baseに移動した。6月25日、飛行隊はウドーンでHMM-162と交代した |
1962/10 | 1962年10月、HMM-261は強襲揚陸艦ボクサー Boxer(LPH-4)に乗艦し、そののちセティス・ベイに乗艦してキューバ封鎖を支援した。ニュー・リヴァー海兵航空施設に戻ったHMM-261は、公民権運動期間中の1963年春に自由行進を支援するためにアメリカ南部に派遣された。ニュー・リヴァー海兵航空施設のMAG-26に戻ったHMM-261は、そののちの西太平洋へのカラー移駐のために待機する準備をした |
1963/6 | 1963年6月8日、飛行隊は南ヴェトナムのダ・ナン基地 Da Nang Air Baseで“シュフライ作戦飛行隊”として任務を開始した。7月中旬、飛行隊はダ・ナンから南西に37マイル(60km)の地点で致命的でない事故により最初の航空機損失を被った。9月16日、別のUH-34Dがフエから西に25マイル(40km)の地点で致命的でない事故で破壊された。10月2日、飛行隊はHMM-361に引き継がれ、5,288戦闘飛行時間と11,406出撃を達成した |
1964 | 1964年、飛行隊は西太平洋の即応上陸部隊 Ready Landing Forceの一部として強襲揚陸艦イオー・ジマ Iwo Jima(LPH-2)に配備され、フィリピン諸島と台湾での訓練に参加し、そののちニュー・リヴァー海兵航空施設に飛行隊カラーを戻すまで沖縄の普天間海兵航空基地 MCAS Futenmaに陸上配備された。1965年6月21日、飛行隊はHMM-163に代わってダ・ナン基地に飛来し、第16海兵航空群に配属された。8月末、MAG-16はダ・ナンの東に新しく完成したマーブル・マウンテン航空施設 Marble Mountain Air Facilityに移動した。10月10日、飛行隊は強襲揚陸艦ヴァリ・フォージ Valley Forge(LPH-8)のSLFヘリコプター飛行隊として配属された。11月30日、SLFは“ダガー・スラスト作戦 Operation Dagger Thrust”を実施した。12月、飛行隊は海兵隊とヴェトナム共和国陸軍(Army of the Republic of Vietnam: ARVN)部隊を輸送する“ハーヴェスト・ムーン作戦 Operation Harvest Moon”を支援した |
1966/1 | 1966年1月5日、飛行隊はSLF任務から上陸、3月初旬には“ユタ作戦 Operation Utah”を支援、5月26日に飛行隊は南ヴェトナムを離れた。1965~1966年の遠征中、HMM-261は11,859戦闘時間飛行し、2,315名の負傷者をMEDEVAC搬送し、38,090戦闘出撃、47,522名の兵員を戦場に送り、32,610発の弾薬を使用した |
1966 | 1966年、飛行隊はふたたびニュー・リヴァーに戻った。1960年代後半、飛行隊は最初のCH-46シー・ナイト・ヘリコプターを受け入れた。同飛行隊はそののち、同じヘリコプターの更新型であるCH-46Eを飛行させた。1970年代を通して、飛行隊は大西洋、地中海、カリブ海地域でのさまざまな訓練に参加した。この時期、飛行隊のニックネームは“レイジング・ブルズ Raging Bulls”となった |
1982 | 1982年、飛行隊はレバノンのベイルートに展開。1983年10月、飛行隊は強襲揚陸艦グアム Guam(LPH-9)でベイルートに向かってノーフォーク海軍基地 NB Norfolkを出発したところだったが、コードネーム“アージェント・フューリー作戦 Operation Urgent Fury”のグレナダ侵攻のためにカリブ海に迂回するようにとの連絡を受けた。そこで同飛行隊は、海兵隊の最初の上陸作戦と、そののちの統合任務部隊全体の作戦に、作戦3日目に陸軍のヘリコプターが到着するまで、唯一のヘリコプターを提供した。デルタ・フォース Delta Forceは初期攻撃の一部として陸軍のヘリコプターで到着していたが、初日以降、陸軍のヘリコプターは戦闘被害のためすべて使用不能となった。陸軍部隊に近接航空支援を行っていたとき、AH-1Tコブラ2機が撃墜され、中隊パイロット3名が死亡した。そののち、第75レンジャー連隊第2大隊 2nd Battalion, 75th Ranger Regimentのレンジャーを投入中、医学部のグラン・アンス・キャンパス Medical School's Grand Anse Campusで数百名のアメリカ人学生の救出に成功した際、CH-46の1機が修理不能な損傷を受けた。この作戦ののち、飛行隊は海兵隊兵舎の爆撃に耐えた第24海兵両用ユニット 24th Marine Amphibious Unitを救援するため、ベイルートに向かう任務を再開した。ベイルート沖に駐留中、同飛行隊は上陸していた第22海兵両用ユニット 22nd Marine Amphibious Unit、米第6艦隊 U.S. 6th Fleet、国務省 Department of Stateを支援するため、さまざまな任務を遂行した(さまざまな会議への外交官の送迎、800名以上の米国民とレバノン国民の安全な避難など) |
1990 | 1990年、飛行隊はリベリアでのアメリカ市民の避難と保護からなる“シャープ・エッジ作戦 Operation Sharp Edge”に参加した。1991年1月、ニュー・リヴァーでの迅速なターンアラウンドの後、飛行隊は“砂漠の盾作戦 Operation Desert Shield”と“砂漠の嵐作戦 Operation Desert Storm”のためにサウジ・アラビアに展開した。地上戦が本格化する中、同飛行隊は第2海兵師団 2nd Marine Divisionを支援するため、多数のドクターヘリや突撃支援任務を飛行した。飛行隊は1991年5月13日にニュー・リヴァーに帰還した |
1997 | 1997年4月15日、飛行隊はザイールでの非戦闘員避難作戦(NEO)に備え、4機のCH-46と2機のUH-1Nの分遣隊を残してドック型輸送揚陸艦ポンス Ponce(LPD-15)に乗り込んだ。HMM-261(REIN) Det. Aを含む22nd MEUフォワードは、22nd MEUのコミットメントをカヴァーするために地中海に入った。展開中、22nd MEU本隊は2つの主要作戦に参加した: コンゴのブラザヴィル Brazzavilleで行われた“ガーディアン奪還作戦 Operation Guardian Retrieval”と、シエラ・レオネのフリータウン Freetownで行われた“ノーブル・オベリスク作戦 Operation Noble Obelisk”である。一方、HMM-261(REIN) Det. Aはアルバニアのティラナ Tiranaで“シルヴァー・ウェイク作戦 Operation Silver Wake”に参加した。1年後の1998年10月、飛行隊はプエルト・リコのハリケーン救援の要請を受けた |
2002/7 | 2002年7月、MEUは“不朽の自由作戦”(Operation Enduring Freedom: OEF)を支援する作戦を実施するよう要請された。パキスタン沖に出たMEUは、アフガニスタンでの阻止作戦の計画を続けた。同時にAV-8がMEU初の偵察飛行をパキスタン上空で行った。パキスタンに先遣隊が派遣され、ホスト国の関係機関と連絡を取った |
2003 | 2003年には“イラクの自由作戦II Operation Iraqi Freedom II”の展開前計画が開始された。ペルシャ湾に到着すると、飛行隊は第1海兵遠征軍 1st Marine Expeditionary Forceの作戦地域に飛び、アル・アサド基地 Al Asad Airbaseの第3海兵航空団 3rd Marine Aircraft Wingに編入された。イラク滞在中、HMM-261は“イラクの自由作戦II”を支援するさまざまな作戦に全面的に従事した。同飛行隊は昼夜を問わず、死傷者救助、指揮統制(command and control: C&C)待機、一般支援、再補給、部隊移動、VIPリフト、航空機と人員の戦術的回収(tactical recovery of aircraft and personnel: TRAP)/即応部隊(Quick Reaction Force: QRF)といった形で直接支援任務を遂行し続けた。2004年9月、飛行隊はニュー・リヴァー海兵航空基地に戻り、そこで第29海兵航空群 Marine Aircraft Group 29に編入された。展開中、HMM-261は2,000以上の航空支援要請(Aviation Support Requests: ASRs)を成功裏に完了し、8,358名の乗客と815,274ポンドの貨物を輸送し、3,058.2時間飛行し、1,941回の出撃を実行し、戦闘による死傷者や航空機の損失はゼロであった |
2005/11 | 2005年11月8日、HMM-261(REIN)は22nd MEUの一部として現在の展開を開始するため、強襲揚陸艦(汎用)ナッソー Nassau(LHA-4)に荷揚げを行った。同飛行隊はイラク西部のアル・アサド空軍基地を拠点とし、“イラクの自由作戦 Operation Iraqi Freedom”を支援する3度目の遠征を行った。同飛行隊は2006年3月下旬にイラクでの最新の遠征を終え、1,845回の出撃と3,000時間を超える戦闘飛行時間を達成し、ドクターヘリと近接航空支援を提供した |
2007後半 | 2007年後半、飛行隊は22nd MEUの航空戦闘部隊として活動した。2007年9月25日から10月11日まで、同飛行隊に所属するAV-8Bはアフガニスタン上空で70の戦闘任務を遂行し、“不朽の自由作戦”を支援するため、航空偵察、近接航空支援、輸送船団護衛を行った。2007年11月15日のサイクロン“シドル Sidr”の影響後、ベンガル湾のバングラデシュ沖で強襲揚陸艦(多目的)キアサージ Kearsarge(LHD-3)から運航していた同飛行隊のヘリコプターは、サイクロンの被害を受けた人々に人道支援を提供した |
2008/4 | 2008年4月10日、飛行隊は42年間CH-46シー・ナイトを飛行させたのち、MV-22オスプリーに移行した |
2009/11 | VMM-261は2009年11月、“不朽の自由作戦”を支援するためアフガニスタンに展開した。これはMV-22オスプリーのアフガニスタンへの初展開となり、12月初旬には“コブラの怒り作戦 Operation Cobra's Anger”を支援するために兵員と物資を輸送し、飛行隊は初の大規模な戦闘作戦を支援した |
2014 | 2014年、VMM-261は“イラクの自由作戦”以来初の海兵隊死傷者救助飛行隊 Marine Corps casualty evacuation squadronとしてアフガニスタンに展開した。コール・サイン“エルヴィス Elvis”の下、VMM-261はヘルマンド州 Helmand provinceとヘラート州 Herat provinceで海兵隊特殊作戦司令部(Marine Special Operations Command: MARSOC)と国際治安支援部隊(International Security Assistance Force: ISAF)を直接支援する戦闘活動を行った。VMM-261は12名の海軍病院兵と1名の海軍飛行外科医で補充された。この部隊は、V-22オスプリーが米軍のUH-60ブラック・ホーク(“ダストオフ Dustoff”)や英軍のCH-47チヌークよりも作戦速度と距離で優れていることから、強化型(E-CasEvac)と見なされた。VMM-261は、運用範囲の拡大により、役割2の医療施設から80海里を超えたISAFの負傷者への医療対応責任を割り当てられた |
2012/4 | 2012年4月11日、中隊のMV-22が強襲揚陸艦(多目的)キアサージ Kearsarge(LHD-3)から離陸後、合同訓練中にモロッコのアガディール Agadir近郊で墜落した。海兵隊員2名が死亡、2名が重傷を負い、機体は失われた。海兵隊の調査はのちに、墜落は機械的あるいは安全上の問題ではなく、パイロットのミスによるものと判断した |
↑Squadron UH-34s refuel at Da Nang Air Base, July 1965. Image courtesy of en.wikipedia.org.
↑"Elvis 01" a CH-46E (Bu.No. 157654) of HMM-261 awaits the loading of Army Rangers on Grenada during Operation Urgent Fury, October 1983. Image courtesy of en.wikipedia.org.
Update 24/05/12