VQ
艦隊航空偵察飛行隊 Fleet Air Reconnaissance Squadron

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※MCAAFは海兵航空補助施設(Marine Corps Auxiliary Air Facility)の略。NASは海軍航空基地(Naval Air Station)の略。NAASは海軍航空補助基地(Naval Auxiliary Air Station)の略。NSは海軍基地(Naval Station)の略(ABC順)。Air Anti-Submarine Squadronは1993年にSea Control Squadronに改称された
※第2艦隊航空偵察飛行隊(Fleet Air Reconnaissance Squadron: VQ-2)は、“バットメン Batmen”、のちに“サンドマン Sandeman”とも呼ばれ、1955年9月1日に設立されたアメリカ海軍の航空偵察飛行隊で、ホイッドビー・アイランド海軍航空基地 NAS Whidbey Island、以前はスペインのロタ海軍基地 NAVSTA Rotaに拠点を置き、1991年まではダグラスEA-3BスカイウォーリアロッキードEP-3E Ariesの両方に搭乗し、2012年まではEP-3Eのみに搭乗していた。飛行隊は2012年5月22日に閉隊した

↑Image courtesy of en.wikipedia.org.

所在地 駐留日
NAS Port Lyautey 1955/9/1
NS Rota 1958
NAS Whidbey Island 2005/9
航空機の割り当て 初受領日
PB4Y-2
P4M-1Q 1954
P2V-5F 1954
A3D-1Q 1956
A3D-2Q 1959
WV-2Q 1959
EP-3E Aries 1971
TA-3B 1972
UP-3A 1972
EP-3E Aries II 1991
A3D-2Qの呼称は1962年にEA-3Bに変更された。WV-2Qの呼称は1962年にEC-121Mに変更された
日付 主な出来事
1950/4 欧州戦域における艦隊航空偵察は、冷戦の開始以来、ポート・リューティ海軍航空基地 NAS Port Lyauteyから改造PB4Y-2プライヴァティアを飛ばしてバルト海、黒海、地中海、北海で任務を遂行する哨戒飛行隊(patrol squadron: VP)内の分遣隊によって実施されていた。これらの任務は、時には鉄のカーテンの向こう側から敵対的な反応を引き起こすこともあった。1950年4月8日、ラトヴィアのリエパーヤ Liepāja沖のバルト海上空で、ソ連のラヴォーチンLa-11戦闘機がリョーテイ Lyauteyを拠点とするPB4Y-2(Bu.No. 59645)を撃墜し、10名の乗員全員が死亡した

↑ラヴォーチンLa-11
1950 1950年の朝鮮戦争開戦直後、VP-26から移管された3機のPB4Y-2航空機と人員により、海軍航空活動(Naval Air Activities: NAA)、ポート・リューティ哨戒部隊(Port Lyautey Patrol Unit: NPU)という専門部隊が設立された。この部隊が海軍にその価値を示すにつれ、海軍作戦部長(Chief of Naval Operations: CNO)と航空局(Bureau of Aeronautics: BuAer)は専用機が必要であることを認識するようになった
1952 1952年までに、VPコミュニティはモロッコに配備したP4M-1マーケーターで、19機体という総生産数から生じるメンテナンスの問題から、あまり成功を収めていなかった。ほかのVPコミュニティは、戦地に配備されたロッキードP2VネプチューンをVP標準機として採用していたため、メンテナンスが容易であった。海上哨戒司令官 maritime patrol commanderたちは、ポート・リューティの最前線からマーケーターを排除し、ネプチューンを採用した。ワシントンはそののち、1機を除くすべてのP4M-1をP4M-1Qとして再構成し、NPUとフィリピンのサングリー・ポイント海軍航空基地 NAS Sangley Pointにある姉妹ユニットに設置された海軍通信ユニット Naval Communications Unitに恒久的に配属することを決定した。ソヴィエトの敵対的な行動によって航空機と命を失った航空機乗員は、プラット・アンド・ホイットニーR-4360-20Aワスプ・メジャー・ラジアル・ナセルの後部に搭載された2基のアリソンJ33-A-10Aターボジェット・エンジンの付加された離陸速度と戦闘速度を高く評価した
1953 1953年、P4M-1Qの転換と配備に伴い、NPUは海軍航空部隊大西洋(Naval Air Force Atlantic: AIRLANT)構造の一部として管理上のアイデンティティを必要とし、メリーランド州パタクセント・リヴァー海軍航空基地 NAS Patuxent Riverの空中早期警戒飛行隊TWO(Airborne Early Warning Squadron TWO: VW-2)がVW-2 DET AとしてNPUが組み込まれる司令部となった。VW-2 DET Aの任務は親部隊のVW任務と大きく乖離し始めたため、海軍は艦隊航空偵察任務のための専用飛行隊を設立することを決定した。1954年半ばまでに、4機のP4M-1Qと1機のロッキードP2V-2ネプチューンがポート・リューティに配備された。P2V-2はASW装備から外され、練習機と兵站機として活躍した。部隊はさまざまな基地からヨーロッパ全域で活動した。通常の配備地は、トルコのインシルリク基地 Incirlik AB、イギリスのミルデンホール空軍基地 RAF Mildenhall、西ドイツのヴィースバーデン空軍基地 Wiesbaden AB、西ドイツのシュレスヴィヒランド英空軍基地 RAF Schleswigland、マルタのハル・ファー英空軍基地 RAF Hal Farであった
1955/9 VQ-2は1955年9月1日に第2電子対策飛行隊(Electronic Countermeasures Squadron TWO: ECMRON TWO)として就役し、米国の防衛態勢を改善した。同飛行隊はポート・リューティ海軍航空基地にあったVW-2 DET Aのスペースと格納庫を引き継いだ。1950年代を通じて、VQ-2はキプロス、ドイツ、リビア、トルコ、イギリスを拠点にヨーロッパ全域で任務を遂行した。就役時、モリス L. カリン中佐 Commander Morris L. Kalinは24名の将校と78名の下士官を率いていた。飛行隊は6機のP4M-1Qを任務機として使い続けた。さらに、3機のロッキードP2V-5Fを入手した。P2V-5Fは、標準的な海上偵察からP4Mと同様の電子スィートに現場で再構成された。特筆すべきは、P2V-5Fは、ライトR-3350-32Wサイクロン・ターボ複合ラジアルを搭載した独自のナセルに取り付けられた2つのウェスティングハウスJ34-WE-34ターボジェットから、P4Mと同じダッシュ速度能力を持っていたことである。飛行隊はP2V-3を電子偵察用に設定されていなかったため、パイロットの訓練と兵站に使用した(これは可能な限り飛行隊の標準的な慣行となった)。この4機のネプチューンは1960年までマーケーターとともに活躍した
1956/9 1956年9月、新型でより高速な空母対応のA3D-1Qスカイウォーリアが飛行隊に引き渡された。A3D-1Qは“クジラ The Whale”の愛称で呼ばれ、爆弾倉を閉じ、P4M-1QやP2V-5Fと同様の電子偵察スイートを搭載したA3D-1を再構成したものであった。また、A-3はアメリカ軍で最も高速な非アフターバーナー機の1つであり、マーケーターやネプチューンよりもかなり高い天井を持つため、より広い範囲をカヴァーすることができた。パイロットとナヴィゲーターは空母の資格取得後に司令部に来たが、飛行隊は姉妹飛行隊のVQ-1とは異なり、次の10年まで陸上基地からA-3を運用した。アメリカ本土(continental United States: CONUS)に戻った3機種のハイテンポな運用とデポレヴェルの整備により、1957年6月1日に司令部が編成表(table of organization: TOE)に3機のP4M-1Q、2機のA3D-1Q、2機のP2V-5F、1機のA3D-1、1機のP2V-3を報告していたことは驚くには当たらない
1958/7 1958年7月15日のレバノン危機では、P4M-1Qと搭乗員がインシリクから南へ移動し、レバノン大統領カミーユ・シャムーン Camille Chamounの要請で米海兵隊と米陸軍がベイルートに展開する間、ベイルートから飛び立った。VQ-2は夏の残りと秋までベイルート空港を拠点に運用され、1958年10月の安定化後の米軍撤退とともに離脱した
1959 スペインと アメリカが1953年9月23日に調印したマドリード協定により、アメリカはスペインに経済・軍事援助を行うことを約束した。アメリカはスペイン領内に航空・海軍基地(ロタ海軍基地 NS Rota、モロン空軍基地 Morón Air Base、トレホン空軍基地 Torrejón Air Base、サラゴサ空軍基地 Zaragoza Air Base)の建設と利用を許可された。1959年までにロタ基地とその飛行場は完成し、米海軍の航空需要を満たした。施設が新しくなったため、海軍はVQ-2をロタに移転させることを決定した。 飛行隊のロタへの移転は1958年の終わりから1959年の最初の日に始まった。飛行隊の隊長、副長、部長(department head: DH)の移動は1959年1月14日までに完了したが、すべての司令部資産をロタに移すにはさらに1年かかることになった。 この進化の過程で、4人乗りのA3D-1Qに代わって7人乗りのA3D-2Qが5機到着した。これらの新しい航空機は、コックピットと爆弾倉の間の隔壁が取り除かれ、爆弾倉が密閉され、以前の倉にさらに3つの座席と機器が追加された。この非武装ヴァージョン(尾部銃は取り除かれていた)は、共同体に能力の向上をもたらした
この10年間でVQ-2は11名の乗員死亡事故と3機の災難に見舞われた
1958年1月6日、ポート・リューティからアゾレス諸島のラジェス空軍基地 Lajes Air Base、バミューダのカインドリー空軍基地 Kindley AFBを経由してヴァージニア州のノーフォーク海軍航空基地 NAS Norfolkに向かうフェリー・フライトの最後に、P4M-1Q(Bu.No. 124373)がアプローチ中にエンジンを失った。同機はノーフォークの22丁目とE.オーシャン・アヴェニューに墜落し、乗員4名が死亡、民間人3名が負傷した
1958年10月16日、インシリクに帰還中のA3D-1Q(Bu.No. 130356)が飛行場近くに墜落。乗員4名全員が死亡した
1960/1 英数字のVQ-2という呼称を維持しながら、ECMRON TWOは1960年1月1日に第2艦隊航空偵察飛行隊(Fleet Air Reconnaissance Squadron TWO: FAIRECONRON TWO)と改名された。姉妹飛行隊のVQ-1も同様に改名された。1960年1月14日、全ての装備と人員をリューティから撤収させ、VQ-2は正式に海軍基地に移駐した。海軍は、老朽化し摩耗したP4M-1QとP2V-5Fの機体の維持費がますます高くなり、これらの機体の代替が必要であることを認識していた。ワシントンは、より大型で高性能な航空機、ロッキードWV-2Qウォーニング・スターを選択した。“ウィリー・ヴィクターズ Willie Victors”はA3D-2Qのように非武装で、26名の乗員を乗せることができた。1960年2月26日、最初の2機のWV-2Qが到着した。1960年の第1四半期の終わり、3月31日までに、VQ-2の航空機在庫は、5機のA3D-2Q、3機のP2V-5F、2機のP4M-1Q、そして2機のWV-2Qであった。P2V-5FとP4M-1Qの機体は、A3D-2QとWV-2Qの機体にすぐに適応したため、すぐに段階的に使用されなくなった。一方、飛行隊は空中電子偵察の事業を継続した。1960年の夏までに、マーケーターとネプチューンは姿を消した。 1962年9月18日、国防総省(Department of Defense: DoD)は1922年の米海軍航空機呼称システムに代わる三軍航空機呼称システムを開始した。この変更により、A3D-2QはEA-3Bとなり、WV-2QはEC-121Mとなった
1961 1961年のベルリン危機に対応して、VQ-2はチェコスロヴァキアと東ドイツとの国境沿いの西ドイツでの任務とバルト海への定期的な任務を飛行した。ケネディ政権とそのNATO同盟国がヨーロッパにおけるソヴィエトの動きに対応するにつれ、緊張は高まり続けた。 キューバ危機ののち、1964年にはキプロス危機が発生し、東地中海における国際的な緊張が高まった。これは、EC-121MとEA-3Bのレヴァントでのプレゼンスの増加につながった。そののち、一連の東地中海危機は、VQ-2がタイムリーな偵察を行うための十分な機会を提供した。より直接的な戦術偵察艦の役割の主な要因は、キプロス危機と同時に、地中海で継続的なプレゼンスを確立した急速に成長し、近代化するソヴィエト海軍であった。これらの危機に対応するため、VQ-2は、太平洋で姉妹飛行隊であるVQ-1が行ったように、地中海を拠点とする空母でEA-3Bの分遣隊を運用し始めた。1965年1月、最初の機体は攻撃航空母艦サラトガ Saratoga(CVA-60)に搭載された。その分遣隊は地中海に展開する空母を支援した。ヴェトナムとフィリピンで活動する一方で、中東と北アフリカでは政治的緊張が高まっていた。1967年6月、武力衝突が勃発し、イスラエルは6日間戦争で敵を破った。この戦争中にイスラエル国防軍の手によって技術調査艦リバティ Liberty(AGTR-5)が失われたことで、艦隊偵察に航空機を使用することの相対的な安全性が再確認された。この事件によって、キプロスでの紛争が収まったにもかかわらず、東地中海での作戦のテンポの高さが維持された。1969年のリビアでのクーデターと、地中海におけるNATO海軍の存在に対抗するためのソ連海軍の存在感の高まりが相まって、司令部はハイテンポで活動を続けた。10年が終わりに近づくにつれ、VQ-2はNATOのさまざまな基地、米第6艦隊の空母、そして東南アジアから、ヨーロッパ全土で活動するようになった
1962/10 1962年10月、キューバ危機が勃発した。海軍には同等の偵察資産がアメリカ本土になかったため、VQ-2は多数のEA-3BとEC-121Mをキー・ウェスト海軍航空基地 NAS Key Westに配備し、キューバ周辺でこれらのサービスを提供した。この主要な超大国の危機が鎮圧されたのち、資産はスペインに戻った。フロリダで発揮された飛行隊の迅速性と柔軟性は、ヨーロッパに戻ったあとも多忙を極め、地中海、バルト海、中央ヨーロッパでの任務を再開した
ヴェトナム戦争中、飛行隊はCINCPACFLTの作戦統制の下、VQ-1のヴェトナムとその周辺での米海軍の作戦支援を増強するために分遣隊を配備した。1965年夏の終わり、VQ-2はフィリピンのキュービ・ポイント海軍航空基地 NAS Cubi PointにDET ALFAを設立した。EA-3BとEC-121Mは、ヴェトナムでの米海軍の戦闘活動を支援するために、日常的に戦域に出撃した。姉妹飛行隊であるVQ-1が1966年に南ヴェトナムのダ・ナン基地 Da Nang Air Baseから飛行するDET BRAVOを設立したのち、VQ-2 EA-3BがVQ-2 DET BRAVOとしてほぼ独占的にそこから運用されるようになった。両方の場所から、VQ-2航空機はホー・チ・ミン・トレイル Ho Chi Minh Trailとトンキン湾を含む地域の継続的な電子偵察能力を提供した。“ヤンキー・ステーション Yankee Station”のCTF 77から北ヴェトナム領空への戦闘作戦が増加するにつれて、VQ-2はVQ-1と共に戦場の攻撃空母にEA-3Bを配備した。VQ-2は1969年にダ・ナンからの運用を停止したが、空母とキュービ・ポイントへの配備は継続した
この10年間でVQ-2は52名の搭乗員と5機の航空機が7回の災難に見舞われた
正式な移転から2日後の1960年1月16日、P4M-1Q(Bu.No. 124365)はインシリク基地へのアプローチ中に9,000フィート地点の山腹に墜落した。乗員16名全員が死亡した
1962年5月22日、ヴィースバーデン基地に配備されていたWV-2Q(Bu.No. 131390)が訓練飛行でフュルステンフェルトブルック基地 Fürstenfeldbruck Air Baseを離陸した。飛行中、18,000フィート上空で後部貨物ドアが開いた。乗務員は緊急事態を宣言し、ミュンヘンリム空港 Munich-Riem Airportにダイヴァートした。地上の観察者には、WV-2Qはミュンヘン空港の南17kmのマルクト・シュヴァーベン Markt Schwaben上空で尾翼が主翼から分離して爆発したように見えた。主翼と尾翼は町の南西の田畑に数百メートル離れて墜落した。機体は完全に破壊され、海軍22名と陸軍4名の搭乗員全員が死亡した。破片と文書は65km²以上の地域に散乱した
1966年5月28日、DET ALFAのEA-3B(Bu.No. 142257)がヴェトナムに向かう途中で台風に遭遇。機体は氷結し、エンジンが炎上し、スピンして失速した。パイロットは乗員にベイルアウトを命じた。後部コンパートメントにいた4名の乗員はベイルアウトした。クルー・チーフが出発の準備をしているとき、パイロットが再始動し、スピンから回復した。パイロット、ナヴィゲーター、クルー・チーフを乗せた機体はDET ALFAに戻った。他の4人は、1名の遺体と他の3名の所持品のみが回収され、死亡した
1966年11月3日、EA-3B(Bu.No. 146458)は、シシリー沖の地中海中部で攻撃航空母艦インディペンデンス Independence(CVA-62)の夜間着艦に向かう途中、艦尾で海面に激突した。乗員6名全員が海上で行方不明となった
1968年の“プラハの春 Prague Spring”の最中に東ドイツとチェコの国境沿いでの任務から帰還したEA-3Bは、ラムシュタイン空軍基地 Ramstein AFBの着陸パターンに進入していたときにスラットの不具合により機首上げ旋回を行った。機体が失速しそうになったため、パイロットは乗員にベイルアウトの合図を出した。後部コンパートメントにいた4名の乗員は高度1,200フィートでベイルアウトした。クルー・チーフがベイルアウトの準備をしていると、突然スラットが作動し、ラムシュタインでの回収が可能となった。低高度でベイルアウトしたものの、4名の後方乗員は生き残った
1968年6月4日、新任の(やっと1ヶ月を超えた)飛行隊長、T. E. ダウム中佐 CDR T.E. Daumが搭乗していたEA-3B(Bu.No. 142670)が、イタリアのナポリでの会議に向かうフライトでロタを離陸する際に墜落した。“ホエール”は離陸直後にエンジンを失い、ゆっくりと降下して丘の下り斜面で地面に激突、ロタの滑走路から約1マイル東のテンサイ畑に転がり落ちた。乗っていたダウム中佐と彼の部長3人が死亡した。乗長ともう一名の下士官は生き残った。司令部に向かう途中の2名の飛行隊下士官が墜落現場に最初に到着した
1968年夏、ダ・ナンでのロケット攻撃により、EA-3B(Bu.No. 144848)の機首とコックピットが損傷した。1968年12月14日、東京湾の荒天の中、機体はタイ・ダウンから外れ、海上で行方不明となった
飛行隊がスペインに前進基地を置くようになった2年目には、ロタにアメリカ軍が駐留するようになり、潜水艦隊 submarine squadronがCONUSに戻ったのと同時に、アテネに駐留していた駆逐艦隊 destroyer squadronが移転してきた。飛行隊から格納庫を挟んだ向かい側にある航空中間整備基地(Aviation Intermediate Maintenance Depot: AIMD)に配属される機会が増えたことで、スペイン人ホスト・ファミリーとの婚姻率が高まり、下士官による“ホームステッド”(キャリアが許す限り1つの場所に留まること)が増加した
1970年代には、飛行隊に配属される女性の数も増加した。この10年間、女性士官と水兵は飛行隊の母港で貴重なサポートを提供した。女性の数が増えるにつれて、司令部は女性下士官兵のために基地内の兵舎のワンフロアを占領した。ホスト国も変化していた。1975年11月、フランコ Francoが死去し、フアン・カルロス1世 Juan Carlos Iが即位した。スペインは民主主義の新時代を迎え、西ヨーロッパの他の国々と関わりを持つようになった
1971/7 VQ-2が1971年7月31日に取得した機体は10年以上前のものであったため、EC-121Mの司令部でのキャリアは第二の人生のリースであった。これらの20年以上の航空機は飛行隊に課せられた偵察の要求を満たすことができなかった。1971年7月31日、飛行隊はEP-3E Ariesの最初の納入を受けた。これらのEP-3はP-3AP-3Bの機体から改造されたものであった。この比較的新しい機体は、哨戒飛行隊(VP)のP-3との共通性、部品の入手可能性、飛行時間の短さにより、飛行隊に信頼性の高いプラットフォームを提供した。最後のEP-3Eがロタに到着するまで5年かかった。1974年末までに、VQ-2がEC-121Mの運用を停止するのに十分な数のアリエスがロタに到着した
1972/5 1972年5月、VQ-2はTA-3BUP-3Aも受領し、乗員の訓練とロジスティクスに使用した。これらの航空機は、ロタから定期的にローカル・フライト、陸上および水上のさまざまな分遣隊への空輸や部品輸送で飛行した。特筆すべきは、1974年以降、インシリクの分遣隊がアテネに移転したことである。ギリシャがイギリス人の旅行者に人気があったため、同飛行隊は船員とイギリス人、またホスト国の国民との婚姻が増加した
この10年間は、ニクソン政権のデタント政策によりソヴィエトとの緊張が緩和され、冷戦が続いた。このため北大西洋、バルト海、ドイツでの作戦の頻度は減少したが、この10年間は地中海での国際危機が頻発した。中でも特筆すべきは、1969年のリビアでのクーデター、1970年のヨルダン危機、1973年のヨム・キプール戦争、1974年のキプロス危機、そしてレバノンでの度重なる再燃であった。米国の第6艦隊 US Sixth FleetとNATOの同盟国は、これらすべての危機に対して洋上でのプレゼンスを維持した。デタント(緊張緩和)にもかかわらず、ソヴィエトはリビア、シリア(アラブ抑止軍の大部分としてレバノンに軍隊を介入させた)、エジプトといった顧客国家に大量の軍備を提供するプログラムを実施していた。同時に、ソヴィエト海軍は地中海での存在感を高め続けた。ヨム・キプール戦争後、エジプトはソヴィエトから離脱したが、レバノンや北アフリカでの軍備増強により、中・東地中海はVQ-2がソヴィエト海軍部隊や陸上での活動を監視するホット・スポットとなった。その結果、ヴェトナム戦争後の米軍の全体的な縮小にもかかわらず、ハイテンポな作戦が10年間続いた
東地中海とレバントでは、レバノンからイスラエルへのパレスチナ人テロ攻撃により、アラブ/イスラエル関係のストレスが高まった。攻撃が続く中、飛行隊はレバント沿岸のパトロールを強化した。事態はイスラエルのレバノン侵攻へと発展した。イスラエルがリタニ川から撤退したのち、敗れたPLOはヒズボラに取って代わられ、レバノンにおけるイスラエルの主要な敵対勢力となった。ヒズボラはイランと、まだレバノンに軍隊を駐留させていたシリアから大きな支援を受けた
1979 1979年、イラン革命により、ペルシャ湾とインド洋におけるアメリカのプレゼンスが高まった。これを受けて、海軍は少なくとも1つの空母戦闘群をペルシャ湾周辺に維持した。テヘランの大使館で人質が拘束されたことで緊張はさらに高まり、VQ-2はVQ-1と並んでインド洋の空母とディエゴ・ガルシア分遣隊 Diego Garcia detachmentに配備された
この10年間は前任機よりも致死率は低かったが、VQ-2は12名の搭乗員の死亡事故と3機の災難に見舞われた
1970年2月26日、EA-3B(Bu.No. 144851)は、地中海で攻撃航空母艦フランクリン D. ルーズヴェルト Franklin D. Roosevelt(CVA-42)から運用中に失われた。カタパルト・システムがストロークの途中で故障し、“コールド・キャット”としても知られ、その結果、“ホエール”は艦首から“ドリブル”し、空母に“轢かれた”。この事故で乗員4名が死亡した
1974年3月8日、EA-3B(Bu.No. 142257)が地中海で攻撃航空母艦アメリカ America(CVA-66)から運用中に失われた。テイルフックがワイヤーに引っかかり、アレスティング・ギアのケーブルが切れた。標準手順通りにスロットルをアイドルに戻し始めていたパイロットは、機体をアングルから離脱させ、左舷沖の海中に沈めるのに十分な対気速度を回復させるために、スロットルを前進させた。これで飛行機は船に“轢かれる”のを免れた。アメリカ機ガード・ヘリコプターが乗員全員を回収した。機体は浮き続け、航行に支障をきたすと判断されたため、艦はA-7Aの1機にこれを撃沈させた
1974年7月9日、飛行隊はVIP輸送機として設定されたA-3、TA-3B(Bu.No. 144863)がイタリア、ナポリのカポディチーノ Capodichinoでアプローチ中に墜落し、またもやA-3を失った。この事故で8人の乗員全員が死亡した
1970年代の残りの期間中、司令部は航空機の損失を被らなかった。
1980年代 1980年代、VQ-2はEP-3EとEA-3Bをハイテンポで飛ばし続けた。同飛行隊はアテネに常設分遣隊を維持していたが、厚木分遣隊に恒久的なオフィサーインチャージ(Officer-in-Charge: OIC)を置いていた姉妹飛行隊のVQ-1とは異なり、VQ-2はそのOICを飛行隊員と交代させていた。この10年間、飛行隊はミルデンホール、シュレスヴィヒ Schleswig、ケフラヴィーク Keflavik、マクリハニッシュ Machrihanish、シゴネラ Sigonellaに分遣隊を常駐させた。同飛行隊はまた、1987年10月に海軍がA-3の安全な定時空母運用が不可能と判断するまで、第6艦隊の全空母に分遣隊を配備していた。女性は飛行隊の作戦でますます大きく重要な役割を果たし続けた。10年が進むにつれ、女性は日常的に陸上分遣隊に配備されるようになった。もう一つの画期的な出来事は、10年の終わりに、戦闘支援機での女性の飛行許可がEP-3Eにまで拡大されたことであった。女性パイロット、NFO、搭乗員は1989年春に到着し、配備を開始した
10年の初め、司令部は地中海、バルト海、インド洋、ペルシャ湾をカヴァーする分遣隊を持っていた。そののち数年間、飛行隊は平時の作戦において最もダイナミックで生産的な時期を過ごすことになる。ポーランドで連帯労働組合が発足したことに対するソヴィエトの反発が緊張を生み、ソヴィエトのアフガニスタン侵攻と相まってデタントは事実上終結した。その結果、バルト海への任務が増加した。デタントが終わり、VQ-2はソヴィエト海軍の活動レヴェルの向上と近代化を見た。また、デタントの終了により、西半球ではソヴィエトとキューバの活動が活発化した。親ソヴィエトの新サンディニスタ政権 Sandinista regimeとの関係が悪化し、分遣隊はキー・ウェストだけでなくパナマからも撤退した。人質事件の解決とイラン・イラク戦争の勃発により、イランの対米追従は弱まり、ディエゴ・ガルシアの派遣は終了したが、東海岸の空母が太平洋艦隊 Pacific Fleetのインド洋空母の派遣を打ち切ったことで、司令部は依然として同地域に駐留することになった。イランからのテロの脅威は、この地域全体で続いた
1982/6 1982年6月、レバノンからの度重なるテロ攻撃ののち、イスラエルはふたたびレバノン侵攻を開始した。イスラエル空軍はまた、シリアの空軍と防空システムを攻撃するため、ベカー Bekaa地区で航空作戦を開始した。IDFがベイルートに到達したため、外交的解決によりPLOをチュニジアに追い出すことで紛争は終結した
1986/4 VQ-2は1986年4月12日から17日にかけての“エルドラド・キャニオン作戦 Operation El Dorado Canyon”におけるベイルート避難とリビア周辺での活動への参加により、海軍遠征章 Navy Expeditionary Medalを授与された
1987/1 1987年1月25日、EA-3Bが原子力汎用航空母艦ニミッツ Nimitz(CVN-68)に墜落し、乗員7名全員が死亡した
1990夏 1990年夏、同飛行隊は“シャープ・エッジ作戦 Operation Sharp Edge”で戦火に見舞われたリベリアから2,000人の非戦闘員を避難させる際に電子偵察を行った
1990/8 1990年8月から1991年4月まで、VQ-2は“砂漠の盾作戦 Operation Desert Shield”/“砂漠の嵐作戦 Operation Desert Storm”、“プロヴェン・フォース作戦 Operation Proven Force”、“プロヴァイド・コンフォート作戦 Operation Provide Comfort”で戦闘偵察を行った
1991/6 1991年6月29日、最初のEP-3E Aries IIがロタに到着し、1991年9月20日、飛行隊は同年EA-3Bスカイウォーリアを退役させた
1992 1992年7月から、VQ-2は旧ユーゴスラヴィアのNATO軍と国連軍に戦闘偵察と情報を提供する“デナイ・フライト作戦 Operation Deny Flight”、“プロヴァイド・プロミス作戦 Operation Provide Promise”、“シャープ・ガード作戦 Operation Sharp Guard”、“ジョイント・エンデヴァー作戦 Operation Joint Endeavor”、“ディサイシヴ・エンデヴァー作戦 Operation Decisive Endeavor”、“デリバレート・ガード作戦 Operation Deliberate Guard”で支援任務を飛行した
1997 1997年現在、VQ-2は4機のEP-3E Aries IIと2機のP-3Cオライオンをロタの本拠地とクレタ島のソウダ湾海軍支援施設 Naval Support Activity Souda Bayの2機分遣隊で運用している
1997/3 1997年3月、VQ-2は“シルヴァー・ウェイク作戦 Operation Silver Wake”の間、ネズミ講の破綻による騒動ののち、アルバニアから非戦闘員を避難させる際に電子偵察を提供した
2005/9 2005年9月1日、VQ-2はスペインのロタ海軍基地 NS Rotaからホイッドビー・アイランド海軍航空基地 NAS Whidbey Islandに移転。VQ-2の6機の航空機と450名の水兵の米国への移転は、海軍の欧州における部隊の継続的な変革に沿ったものであり、コスト削減と世界中の部隊構造全体の冗長性の解消に貢献した。この移転は、すでにホイッドビー・アイランド海軍航空基地を拠点としていたVQ-1と同飛行隊を同居させ、これらの海軍独自の飛行隊の人員配置慣行、航空機整備慣行、搭乗員訓練を統合することで効率化を実現した
2012/5 2012年5月22日、飛行隊は57年の歴史に幕を閉じ、閉隊した。最後の飛行隊長はマーク・ストックフィッシュ中佐 Commander Mark Stockfishであった


Update 24/04/27