| 日付 |
主な出来事 |
| 1932 |
第6海兵爆撃飛行隊(Marine Bombing Squadron 6: VB-6M)は、1932年にカリフォルニア州サン・ディエゴで編成された。そののちまもなく1933年に非アクティヴ化されたが、1935年1月に再アクティヴ化された。飛行隊は、1937年7月1日に第1海兵爆撃飛行隊(Marine
Bombing Squadron 1: VMB-1)に再名称された。飛行隊は、1941年7月1日にふたたび第132海兵偵察爆撃飛行隊(Marine
Scout Bombing Squadron 132: VMSB-132)に再名称された。第二次大戦が勃発すると、A. D. クーリー少佐 Major A. D. Cooleyの指揮の下、飛行隊と19機のダグラスSBD-1ドーントレス偵察爆撃機は、第11海兵航空群 Marine Aircraft Group 11の一部としてヴァージニア州クアンティコ海兵航空基地 MCAS Quanticoに駐留していた |
| 1942/10 |
VMSB-132は1942年10月13日、ルルライン Lurlineに搭乗しサン・ディエゴからアメリカ合衆国を出航した。出発時の飛行隊は士官27名、下士官245名、そして海軍所属の隊員数名で構成されていた。彼らは10月28日にニュー・カレドニアのNouméaに上陸した。10月30日、ルイス・ロバートショー少佐
Major Louis Robertshawの指揮下にあるVMSB-132は、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場に上陸した。到着後、彼らは“カクタス空軍
Cactus Air Force”に加わり、1942年12月にVMSB-233に交代するまでガダルカナル島の戦いで活躍した。飛行隊のパイロットと銃手は1942年12月24日に島を出発し、大晦日に休暇のためオーストラリアのシドニーに到着した。休息、再編成、再訓練ののち、彼らはエスピリトゥ・サント
Espiritu Santoへ移動し、1943年1月に地上部隊と合流した。この間、彼らは第13航空軍 13th Air Forceの攻撃司令部に所属し、近隣の敵基地や船舶への攻撃、そして当時としては近接支援とされていた最前線部隊への支援を担った。1943年6月にガダルカナル島に戻り、1943年10月26日に米国に帰還するまで、そこから任務を遂行した |
| 1944初夏 |
1944年初夏、飛行隊は再編され、第41海兵基地防衛航空群 Marine Base Defense Air Group 41の一部としてエル・トロ海兵航空基地
MCAS El Toroで訓練を受けた。1944年10月14日、飛行隊はふたたび改称され、今度は第132海兵雷撃爆撃飛行隊(Marine Torpedo
Bombing Squadron 132: VMTB-132)となった。同年11月にはグラマン社製のTBFアヴェンジャーを初受領した。飛行隊は1944年12月15日から1945年1月16日まで、カリフォルニア州モハーヴェ海兵航空基地 MCAS Mojaveで訓練を行った。訓練は1945年5月21日に護衛航空母艦ケープ・グローセスター Cape Gloucester(CVE-109)に乗艦するまで継続された。1945年6月29日にレイテ島に到着し、同年7月から8月にかけて東シナ海で活動した |
| 1945/8 |
終戦後、飛行隊はハワイ州エワ海兵航空基地 MCAS Ewaへ移動し、1945年11月9日に閉隊した |
受賞歴
大統領部隊表彰 Presidential Unit Citation-ガダルカナル島/ツラギ島(1942年8月7日~12月9日) |
著名な元メンバー
 ジョセフ・ザイラー Jr. 少佐 Major Joseph Sailer, Jr. は1942年11月10日から15日までのガダルカナル島の戦いでの功績により海軍十字章
Navy Crossを授与された
フランク・クリステン少尉 Second Lieutenant Frank Christenは、アメリカ海兵隊の哨戒爆撃機パイロットで、ガダルカナル島の戦いの最中、1942年12月16日、ソロモン諸島ニュー・ジョージア島ムンダ Munda沖で日本軍駆逐艦に対する夜間攻撃に参加した。2300時ごろ、クリステン少尉は駆逐艦に最初の突入を行い、照明弾で照らした。クリステン少尉の分隊長、ジャクソン・シンプソン中尉 Lt. Jackson Simpsonが続いて駆逐艦に接近し、直撃弾を与えた。その直後、クリステン少尉は独自の突入を行い、急降下に入ったところが最後に目撃された。これが、クリステン少尉のSBDが夜に消えた最後となった。フランク・クリステン少尉と尾部銃手のグレン・シャタック一等兵 PFC Glenn Shattuckは、そののちまもなく戦闘中行方不明 (missing in action: MIA) となったと報告されている。1943年5月に満州で捕獲された日本の報告書の翻訳によると、クリステン少尉のSBDは撃墜され、尾部銃手は衝突時に死亡したものの、クリステン少尉は墜落を生き延び、海上で約24時間を過ごしたのち、救命筏で近くの島にたどり着き、1942年12月18日に日本兵に捕らえられた。クリステン少尉はそののち、尋問のためにラバウルに連行され、捕虜(prisoner of war: POW)とされた。フランクは捕虜生活中に死亡し、1943年12月17日に陸軍省によって死亡宣告を受けた。 クリステン少尉は死後、殊勲飛行十字章(Distinguished Flying Cross: DFC)とパープル・ハート章 Purple Heartを授与され、大尉に昇進した |