VMSB
海兵偵察爆撃飛行隊 Marine Scout Bombing Squadron

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※MCAAFは海兵航空補助施設(Marine Corps Auxiliary Air Facility)の略。MCASは海兵航空基地(Marine Corps Air Station)の略。NASは海軍航空基地(Naval Air Station)の略。NAASは海軍航空補助基地(Naval Auxiliary Air Station)の略。NSは海軍基地(Naval Station)の略(ABC順)
※第132海兵戦闘飛行隊(Marine Fighting Squadron 132: VMF-132)は、アメリカ海兵隊の戦闘飛行隊であった。“クライング・レッド・アス The Crying Red Asses”としても知られるこの飛行隊は、第二次大戦中、“カクタス空軍 Cactus Air Force”の一員としてガダルカナル島の戦いで急降下爆撃機部隊として従軍し、そののちはソロモン諸島中部で戦闘を繰り広げた。終戦直後に閉隊したが、海兵隊航空予備隊 Marine Air Reserveとして再編され、ニュー・ヨーク州ブルックリンのフロイド・ベネット飛行場 Floyd Bennett Fieldを拠点として活動した。1958年以降、ふたたび閉隊した
所在地 駐留日
San Diego
MCAS Quantico
航空機の割り当て 初受領日
SBD
TBF
日付 主な出来事
1932 第6海兵爆撃飛行隊(Marine Bombing Squadron 6: VB-6M)は、1932年にカリフォルニア州サン・ディエゴで編成された。そののちまもなく1933年に非アクティヴ化されたが、1935年1月に再アクティヴ化された。飛行隊は、1937年7月1日に第1海兵爆撃飛行隊(Marine Bombing Squadron 1: VMB-1)に再名称された。飛行隊は、1941年7月1日にふたたび第132海兵偵察爆撃飛行隊(Marine Scout Bombing Squadron 132: VMSB-132)に再名称された。第二次大戦が勃発すると、A. D. クーリー少佐 Major A. D. Cooleyの指揮の下、飛行隊と19機のダグラスSBD-1ドーントレス偵察爆撃機は、第11海兵航空群 Marine Aircraft Group 11の一部としてヴァージニア州クアンティコ海兵航空基地 MCAS Quanticoに駐留していた
1942/10 VMSB-132は1942年10月13日、ルルライン Lurlineに搭乗しサン・ディエゴからアメリカ合衆国を出航した。出発時の飛行隊は士官27名、下士官245名、そして海軍所属の隊員数名で構成されていた。彼らは10月28日にニュー・カレドニアのNouméaに上陸した。10月30日、ルイス・ロバートショー少佐 Major Louis Robertshawの指揮下にあるVMSB-132は、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場に上陸した。到着後、彼らは“カクタス空軍 Cactus Air Force”に加わり、1942年12月にVMSB-233に交代するまでガダルカナル島の戦いで活躍した。飛行隊のパイロットと銃手は1942年12月24日に島を出発し、大晦日に休暇のためオーストラリアのシドニーに到着した。休息、再編成、再訓練ののち、彼らはエスピリトゥ・サント Espiritu Santoへ移動し、1943年1月に地上部隊と合流した。この間、彼らは第13航空軍 13th Air Forceの攻撃司令部に所属し、近隣の敵基地や船舶への攻撃、そして当時としては近接支援とされていた最前線部隊への支援を担った。1943年6月にガダルカナル島に戻り、1943年10月26日に米国に帰還するまで、そこから任務を遂行した
1944初夏 1944年初夏、飛行隊は再編され、第41海兵基地防衛航空群 Marine Base Defense Air Group 41の一部としてエル・トロ海兵航空基地 MCAS El Toroで訓練を受けた。1944年10月14日、飛行隊はふたたび改称され、今度は第132海兵雷撃爆撃飛行隊(Marine Torpedo Bombing Squadron 132: VMTB-132)となった。同年11月にはグラマン社製のTBFアヴェンジャーを初受領した。飛行隊は1944年12月15日から1945年1月16日まで、カリフォルニア州モハーヴェ海兵航空基地 MCAS Mojaveで訓練を行った。訓練は1945年5月21日に護衛航空母艦ケープ・グローセスター Cape Gloucester(CVE-109)に乗艦するまで継続された。1945年6月29日にレイテ島に到着し、同年7月から8月にかけて東シナ海で活動した
1945/8 終戦後、飛行隊はハワイ州エワ海兵航空基地 MCAS Ewaへ移動し、1945年11月9日に閉隊した
受賞歴
大統領部隊表彰 Presidential Unit Citation-ガダルカナル島/ツラギ島(1942年8月7日~12月9日)
著名な元メンバー
ジョセフ・ザイラー Jr. 少佐 Major Joseph Sailer, Jr. は1942年11月10日から15日までのガダルカナル島の戦いでの功績により海軍十字章 Navy Crossを授与された
フランク・クリステン少尉 Second Lieutenant Frank Christenは、アメリカ海兵隊の哨戒爆撃機パイロットで、ガダルカナル島の戦いの最中、1942年12月16日、ソロモン諸島ニュー・ジョージア島ムンダ Munda沖で日本軍駆逐艦に対する夜間攻撃に参加した。2300時ごろ、クリステン少尉は駆逐艦に最初の突入を行い、照明弾で照らした。クリステン少尉の分隊長、ジャクソン・シンプソン中尉 Lt. Jackson Simpsonが続いて駆逐艦に接近し、直撃弾を与えた。その直後、クリステン少尉は独自の突入を行い、急降下に入ったところが最後に目撃された。これが、クリステン少尉のSBDが夜に消えた最後となった。フランク・クリステン少尉と尾部銃手のグレン・シャタック一等兵 PFC Glenn Shattuckは、そののちまもなく戦闘中行方不明 (missing in action: MIA) となったと報告されている。1943年5月に満州で捕獲された日本の報告書の翻訳によると、クリステン少尉のSBDは撃墜され、尾部銃手は衝突時に死亡したものの、クリステン少尉は墜落を生き延び、海上で約24時間を過ごしたのち、救命筏で近くの島にたどり着き、1942年12月18日に日本兵に捕らえられた。クリステン少尉はそののち、尋問のためにラバウルに連行され、捕虜(prisoner of war: POW)とされた。フランクは捕虜生活中に死亡し、1943年12月17日に陸軍省によって死亡宣告を受けた。クリステン少尉は死後、殊勲飛行十字章(Distinguished Flying Cross: DFC)とパープル・ハート章 Purple Heartを授与され、大尉に昇進した

↑Douglas SBD-1 Dauntless of VMSB-132 in flight, in 1941. Image courtesy of en.wikipedia.org.


Update 25/12/13