装甲艦船・河用装甲艦
Armored Vessels/River Ironclads

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
UFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※cwtはハンドレッドウェイト(hundredweight)の略で、1cwt=45.3592kg
排水量:512t 全長:53.34m 幅:15.60m 吃水:1.82m 主缶:缶5基 主機/軸数:2-cyl. horizontal HP機関/船尾輪 速力:5.5kt 兵装:203mmスムースボア砲3門、42ポンド・マズルローディング・ライフル砲4門、32ポンド・マズルローディング・ライフル砲6門、12ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門(ケアロは建造時には42ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門、1862年4月には42ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門を増強、1862年11月には203mm砲(63cwt)3門、42ポンド砲(80cwt)3門、32ポンド砲(43cwt)6門、30ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門、12ポンド・スムースボア砲1門。カロンデレートは1862年11月には203mm砲(63cwt)4門、42ポンド砲(80cwt)1門、32ポンド砲(42cwt)6門、50ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門、30ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門、12ポンド・スムースボア砲1門、1863年5月には228mmスムースボア砲3門を増強、32ポンド砲(43cwt)5門を撤去、1864年1月には100ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門、50ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門、30ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門、228mmスムースボア砲3門、203mmスムースボア砲(63cwt)4門、1864年12月には203mmスムースボア砲4門を撤去。シンシナティは1862年9月には42ポンド砲2門を30ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門に換装。1865年には100ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門、228mmスムースボア砲3門、30ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門、24ポンド・スムースボア砲6門。ルイヴィルは1862年9月には42ポンド砲2門を30ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門に換装。1862年11月には228mmスムースボア砲3門を増強、203mmスムースボア砲1門を撤去、1864年には100ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門、228mmスムースボア砲4門、30ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門、32ポンド砲(42cwt)6門。マウンド・シティは1863年には30ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門、50ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門を増強、42ポンド砲2門を撤去、1863年6月には228mmスムースボア砲3門、203mm砲(63cwt)3門、177mm砲(84cwt)4門、32ポンド砲(42cwt)3門、30ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門、1864年には100ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門、228mmスムースボア砲4門、203mmスムースボア砲3門、50ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門、32ポンド砲3門、30ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門、1864年には32ポンド砲1門を100ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門に換装。ピッツバーグは1862年9月には30ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門、203mmスムースボア砲3門、42ポンド・マズルローディング・ライフル砲(80cwt)2門、32ポンド砲(42cwt)6門、12ポンド・スムースボア砲1門、1863年5月には32ポンド砲(42cwt)2門を228mmスムースボア砲2門に換装、1863年12月には100ポンド・マズルローディング・ライフル砲1門、228mmスムースボア砲4門、203mmスムースボア砲2門、32ポンド砲(42cwt)4門、30ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門、12ポンド・スムースボア砲1門、1864年9月には32ポンド砲2門を撤去。セント・ルイスは1862年10月には42ポンド砲(80cwt)2門を30ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門に換装、1862年12月には254mmスムースボア砲2門を増強、1863年には254mmスムースボア砲1門、203mm砲(63cwt)2門、228mmスムースボア砲2門、32ポンド砲(42cwt)6門、30ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門) 装甲:砲台63.5mm、操舵室31.75mm 乗員:251名
※シティ級 City Classともいわれる
↑USS Louisville. Halftone reproduction of a photograph taken on the Western Rivers, during the Civil War. Copied from Francis Trevelyn Miller's "The Photographic History of the Civil War", Volume 6, page 150. U.S. Naval Historical Center Photograph.
↑"Gun-Deck of One of the Mississippi Gun-Boats Engaged in the Attack on Fort Henry". Line engraving after a sketch by Alexander Simplot, published in "Harper's Weekly", 1862. It depicts a gun deck scene on board one of the "City" class ironclad gunboats. Of the seven ships of that class, Carondelet, Cincinnati and Saint Louis were present during the attack on Fort Henry, Tennessee, on 6 February 1862. U.S. Naval Historical Center Photograph.

↑USS Cairo. Original artwork and illustration: Donn Thorson. Image courtesy of Naval Analyses.

↑Image courtesy of Shipbucket.
艦名 NAME 建造所 就役日 退役日 除籍日 備考
ケアロ
123
Cairo James B. Eads 1862/1/25 ◎1861 起工
◎1861/10 進水
◎合衆国陸軍艦として就役。ジェームズ M. プリシェット合衆国海軍大尉 LT. James M. Prichett, USNが指揮を執る
◎陸軍の西部砲艦艦隊 Army's Western Gunboat Fleetと行動をともにし、A. H. フォート海軍大尉 Flag Officer A. H. Foote, USNが指揮官としてミシシッピ川とオハイオ川を航行した
◎1862/10/1 海軍に移管
◎ケアロはClarksville、ナッシュヴィル、Fort Pillow、メンフィスにて活躍
1862/12/12 Haines Bluff攻撃準備のためYazoo Riverにて機雷除去中、魚雷(機雷?)により沈没(12
◎1965 引き揚げられる(12
1966 VicksburgのVicksburg National Military Parkにて展示(12345678910(クリック先の画像はジョージ R. ヨスト一等ボーイ George R. Yost 1st Class Boy。ジョージ・ヨストはケアロに乗船したとき、まだ14歳だったが、北軍河用装甲艦の日々の活動を日記に残す先見の明があった。ヨストの日誌はケアロの沈没を生き延び、他の人々が艦内の生活を理解するのに役立っている)、11
◎Western Gunboat Flotilla. Occupation of Clarksville, Tenn., 19 Feb 1862. Bombardment of Fort Pillow, Tenn., 13 Apr 1862. Engagement with enemy vessels and batteries at Fort Pillow, 10 May 1862 (1, 2). Battle of Memphis, 6 Jun 1862. Expedition up Yazoo River, 21 Nov-11 Dec 1862.
第一次世大戦以前、アメリカ海軍は18歳未満の男性の乗艦を認めており、公式には“ボーイ” boysと呼ばれていた。1828年、艦船は14歳から18歳までの男子を、艦船が搭載する2門の砲につき1名の割合で乗せることを許可された(すなわち、44門の砲を持つフリゲイトは、乗組員に最大22名の男子を乗せることができた)。1833年に発行された海軍規則第464条 Article 464 of Naval Regulationsには、“募集将校は、親または保護者の同意なしに、13歳未満の少年、および21歳未満の者を入隊させてはならない”と記されている。1875年4月8日、海軍長官ジョージ M. ロベソン Secretary of the Navy George M. Robesonによって発布された“合衆国海軍への少年の入隊に関する通達”は、親の同意があれば、15歳から18歳(つまり18歳の誕生日を過ぎていない)までの少年を21歳の誕生日まで入隊させることを規定していた。入隊させる少年はそれぞれ、“頑健な体格で、聡明で、完全に健全かつ健康な体質であり、身体的欠陥や奇形がなく、発作を起こさない”者でなければならない。また、身長5フィート1インチ以上、胸囲30インチ以上でなければならなかった。少年たちは二等兵として入隊し、月給$10.50と配給1食が支給された。少年たちは両親に割り当てをすることは許されず、“ポケット・マネー”として月に$1だけ引き出すことが許された。この慣行は公式には“少数入隊”と呼ばれ、入隊最低年齢が引き上げられた以外は、1960年代まで有効であった。少年たちの訓練は、当時ニュー・ヨーク海軍工廠に配備されていたスクリュー推進フリゲイト・ミネソタ Minnesotaで行われることになっていた。ミネソタ艦上で能力を証明した少年たちは、一等ボーイ First Class Boyに昇格することができた。少年たちは18歳の誕生日を迎えると、海に出る船に移される。1880年代、スティーヴン B. ルース大佐(のちの少将) Captain (later Rear Admiral) Stephen B. Luceは、米海軍に徒弟訓練制度を設け、15歳の男子を両親の許可を得て入隊させ、艦隊に配属される前に訓練船で徒弟生活をさせた。最初の6ヵ月間は固定された訓練船で、徒弟たちは基本的な読み書き、砲術、シーマンシップ、船上整備などの基本技術を学んだ。次の段階はクルーズ訓練船への配属で、実習生は冬と夏のクルーズを終えてから船団に配属されることになっていた。見習い訓練プログラムの背景にあるルースの理論は、すでに訓練を受け、艦上生活に適応した若い水兵を海軍に提供することだった。これは、健常者であれば誰でも採用し、実地で学ばせる従来の採用方法とは対照的であった。従来の方法の問題点は、新しい“新米船員”(すなわち経験の浅い水兵)の多くが海軍の生活に適応できなかったり、時には犯罪者になったりすることだった。ルースが期待した徒弟制度は、海軍の形成期に優秀な水兵を作る機会を与え、長期的には、より訓練された規律正しい水兵を入隊させるというものであった。徒弟制度は、1911年に五大湖海軍基地に新兵訓練センターが設立されたことで終了した。第一次大戦前の数年間、海軍は急速に拡張し、できるだけ早く大量の新しい水兵を必要とした。その結果、徒弟制度が廃止され、8週間の“新兵訓練所”が設立され、民間人がより短期間で水兵に生まれ変わることになった。1909年、海軍の規定が変更され、入隊最低年齢が親の許可があれば17歳、なければ18歳に引き上げられた。18歳未満で入隊した新兵は21歳になるまで勤務し、その時点で除隊するか、希望すれば4年間再入隊することができた
カロンデレート
12
Carondelet James B. Eads 1862/1/15 1865/6/20 ◎1861 起工
◎1861/10/22 進水
1862/2/14 Fort Donelsonにてアメリカ連合国軍の砲撃により損傷
1862/7/15 Vicksburgにてアメリカ連合国海軍砲郭装甲艦アーカンソー Arkansasの砲撃により損傷
◎1862/10/1 海軍に移管
◎1865/11/29 Mound Cityにて売却
◎のちに船体はGallipolisにてwharfboatとなり、主機は曳船Quakerに使用
シンシナティ
12
Cincinnati James B. Eads 1862/1/16 1865/8/4 ◎1861 起工
◎1861 進水
◎Mound Cityにて竣工
1862/5/10 Fort Pillowにてアメリカ連合国海軍艦船の攻撃により沈没、のちに引き揚げられ改装
◎1862/10/1 海軍に移管
1863/5/27 Vicksburgにてアメリカ連合国軍の砲撃により沈没
◎1863/8 引き揚げられ改装
◎1866/3/28 ニュー・オーリンズにて売却
1866 Cache Riverの係留所にて沈没
ルイヴィル
12
Louisville James B. Eads 1862/1/16 1865/7/21 ◎1861 起工
◎1861 進水
1862/2/14 Fort Donelsonにてアメリカ連合国軍の砲撃により損傷
◎1862/10/1 海軍に移管
◎1865/11/29 Mound Cityにて売却
マウンド・シティ Mound City James B. Eads 1862/1/16 ◎1861 起工
◎1861 進水
1862/5/11 Fort Pillowにてアメリカ連合国海軍外輪衝角艦ジェネラル・アール・ヴァン・ドーン General Earl Van Dornの衝角攻撃により損傷、座礁、のちにMound Cityにて修理
1862/6/17  St. Charlesにてアメリカ連合国軍の砲撃により損傷、のちに修理
◎1862/10/1 海軍に移管
1863/5/27 Vicksburgにてアメリカ連合国軍の砲撃により損傷
◎1865/11/9 Mound CityにてFrank Bennetに売却
◎1866 解体
ピッツバーグ Pittsburgh James B. Eads 1862/1/16 ◎Pittsburgと綴る場合もあり
◎1861 起工
◎1861 進水
1862/2/14 Fort Donelsonにてアメリカ連合国軍の砲撃により損傷、のちに修理
◎1862/10/1 海軍に移管
1863/4/29 Grand Gulfにてアメリカ連合国軍の砲撃により損傷
◎1865/11/29 Mound Cityにて売却
1870/6 放棄
セント・ルイス
123
St. Louis James B. Eads 1862/1/31 ◎1861/9/27 起工
◎1861/10/12 進水
1862/2/14 Fort Donelsonにてアメリカ連合国軍の砲撃により損傷
1862/3/15〜4/17 Island No. 10包囲攻撃中にアメリカ連合国軍の攻撃により損傷
◎1862/9/8 バロン・ド・カルプ Baron de Kalbと改名
◎1862/10/1 海軍に移管
1863/1/10〜11 Fort Hindmanにてアメリカ連合国軍の攻撃により損傷
1863/3/11〜23  Fort Pembertonにてアメリカ連合国軍の攻撃により損傷
1863/7/13 Yazoo Riverにて魚雷(機雷?)により沈没


排水量:396t(旧測定法による総トン数203t) 全長:49.37m(48.46mともいわれる) 幅:15.24m(14.17mともいわれる) 吃水:1.21m(1.85mともいわれる) 主缶:缶3基 主機/軸数:McCord & Junger式機関2基/外輪2基、2軸 速力:7.0kt 兵装:279mmスムースボア砲2門(1863年10月には12ポンド・スムースボア砲1門を増強) 装甲:水線50.8mm、甲板25.4mm、操舵室76.2mm
↑USS Chillicothe. Engraving, dated 22 February 1864, published Bufford's Print Publishing House, 313 Washington St., Boston, Massachusetts. Courtesy of Belle Mather, 1932. U.S. Naval Historical Center Photograph.

↑Image courtesy of Shipbucket.
艦名 NAME 建造所 就役日 退役日 除籍日 備考
チリコシ Chillicothe Joseph Brown 1862/9/5 ◎1862 起工
◎1862 進水
◎1862/9 修理、改装(〜1863/1初め?)
1863/3/11〜23  Fort Pembertonにてアメリカ連合国軍の攻撃により損傷
◎1863/9 Mound Cityにて修理
◎1865/11/29 Mound Cityにて売却
1872/9 ケアロにて焼失


排水量:511t?(旧測定法による総トン数442t) 全長:53.34m 幅:15.84m 吃水:1.52m 主缶:缶5基 主機/軸数:McCord & Junger式機関4基(サイズ558.80mm×2.01mおよび457.20mm×0.54m)/外輪2基、2軸 速力:6.0kt 兵装:279mmスムースボア砲2門(前方)、228mmスムースボア砲2門(後方) 装甲:砲台76.2mm、甲板25.4mm 乗員:144名
↑USS Indianola. Watercolor by Dr. Oscar Parkes. Courtesy of Dr. Oscar Parkes, London, England, 1936. U.S. Naval Historical Center Photograph.
艦名 NAME 建造所 就役日 退役日 除籍日 備考
インディアノラ
12
Indianola Joseph Brown 1862/9/27
(1863/1/14?)
◎1862 起工
◎1862/9/4 進水
◎1863/1/12 海軍に移管
1863/2/24  New Carthageにてアメリカ連合国海軍艦艇の衝角攻撃により損傷、座礁、アメリカ連合国軍に拿捕
1863/3/4 Vicksburgにて拿捕(アメリカ連合国軍はアメリカ合衆国軍に拿捕されるのを防ぐため弾薬庫を爆破)
◎1965/1/5 離礁、Mound Cityへ曳航
◎1865/11/29 Mound Cityにて解体のため売却


排水量:915t?(旧測定法による総トン数575t) 全長:54.25m 幅:22.86m 吃水:2.13m 主缶:缶6基 主機/軸数:Charles W. McCord式機関4基(サイズ762.00mm×2.13mおよび508.00mm×0.60m)/外輪2基、2軸 速力:8.8kt 兵装:279mmスムースボア砲3門(前方)、228mmスムースボア砲2門(後方) 装甲:砲台152.4mm
↑USS Tuscumbia. Moored to the shore on the Western Rivers, circa 1863. U.S. Naval Historical Center Photograph.
艦名 NAME 建造所 就役日 退役日 除籍日 備考
タスカンビア Tuscumbia ニュー・オールバニー 1863/3/12 1865/2 ◎1862 起工
◎1862/12/12 進水
◎ケアロにて竣工
1863/4/29 Grand Gulfにてアメリカ連合国軍の砲撃により損傷、のちに修理
◎1863/8 メンフィスの海軍基地にて修理
◎1863/11 メンフィスの海軍基地にて係船
◎1864/5 Mound Cityにて修理
◎1865/2 不活性化工事
◎1865/11/29 Mound CityにてW. K. Adamsに売却
◎1867 兵装を撤去、船体はCache Riverにて浜に引き上げられる
1870/10 焼失


Update 23/11/27