MTBRON
魚雷艇戦隊 Motor Torpedo Boat Squadron

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※1973年6月30日まで、アメリカ海軍では艦隊内の区分は昇順であり、空母戦隊、戦艦戦隊、巡洋艦戦隊、駆逐隊、および潜水隊はDivision、駆逐戦隊および潜水戦隊などはSquadronと呼称していた。さらに駆逐艦および潜水艦は2~3個戦隊で隊群、Flotillaを編成した。現在のSquadronはかつてのDivisionに相当するものである
※第1魚雷艇戦隊(Motor Torpedo Boat Squadron One: MTBRon 1)は、1941年12月7日の真珠湾攻撃当時、ハワイ海軍基地内の真珠湾魚雷艇基地 Pearl Harbor PT Boat Baseを拠点とした第二次大戦期のアメリカ海軍魚雷艇隊である。ウィリアム C. スペクト少佐 Lt. Comdr. William C. Spechtが指揮を執り、12隻の魚雷艇で編成されていた。真珠湾攻撃後、MTBRon 1はミッドウェー環礁へ派遣され、ミッドウェー海戦に参加した。そののち、MTBRon 1はアリューシャン作戦への参加を命じられた。MTBRon 1は1940年7月24日に編成され、1945年2月9日に閉隊した
構成
PT-1PT-2PT-3PT-4PT-5PT-6PT-7PT-8PT-9
構成
(運用拠点は真珠湾魚雷艇基地 Pearl Harbor PT Boat Base)
PT-20PT-21PT-22PT-23PT-24PT-25PT-26PT-27PT-28PT-29PT-30
構成
(運用拠点はミッドウェー環礁 Midway Atoll)
構成
(運用拠点はアダック島 Adak Island)
PT-22、PT-24、PT-27、PT-28
日付 主な出来事
1940/4 1940年4月、アメリカ海軍は魚雷艇戦隊の構想を策定した。魚雷艇戦隊は12隻の艇で構成され、各艇に指揮官が配置される。戦隊内の魚雷艇長(担当将校)と乗組員は、艇と乗組員の空き状況に応じて戦隊内の艇間を移動した。必要性や損失状況に基づき、艇は必要に応じて戦隊間で転属させることができた。1941年12月7日から1945年10月1日までに、合計690隻の魚雷艇が建造された。これらの魚雷艇は43の魚雷艇戦隊に配備された。第1魚雷艇戦隊は当初、実験艇であるPT-1PT-2PT-3PT-4PT-5PT-6PT-7PT-8PT-9で編成されていた。PT-1とPT-2は当初第1戦隊に配属される予定であった。しかしヴィマーレト・エンジン Vimalert engineの納入待ちで完成が大幅に遅れたため、納入時には既に旧式化していた。分隊での運用には就かず、小型艇 small boatに再分類された。これらの初期試作艇の試験・評価終了後、第1魚雷艇戦隊の艇は新型の77フィート(約23.5m)エルコ海軍部門製魚雷艇に置き換えられた
1941/12 1941年12月7日、アメリカ合衆国と大日本帝国との間で第二次大戦が勃発した際、第1魚雷艇戦隊は真珠湾魚雷艇基地に配備されていた。基地内の12隻の魚雷艇のうち、6隻は真珠湾潜水艦基地 Pearl Harbor PT Boat Baseに隣接する弾薬庫湾(マガジン・ロック Magazine Loch)のS-13ドック dock S-13に停泊していた。残りの6隻はB-12埠頭 dock B-12で給油艦ラマポ Ramapo(AO-12)への積み込み作業中であり、フィリピン海軍基地へ移送される予定であった。海軍工廠のクレーンがラマポへのボート積み込みに使用されていた。第1戦隊の要員は潜水艦用艀である工作船(非自走)YR-20上で朝食を終えようとしていた。YR-20は第1戦隊の魚雷艇補給艦として運用されていた。魚雷艇は艀の側面および前方部に、2艇ずつ3つのグループに分かれて係留されていた。YR-20は真珠湾魚雷艇基地のS-13バース Berth S-13に停泊中だった。当時魚雷艇は潜水艦と同じ魚雷を使用していたため、魚雷艇基地は潜水艦基地とスペースを共有していた。1941年12月7日の攻撃時、真珠湾魚雷艇基地にいた6隻の魚雷艇は次の通りであった:PT-20PT-21PT-22PT-23PT-24PT-25。攻撃が始まると、魚雷艇は最初に高射砲を撃ち、襲来する航空機を撃ち落とした。ラマポに乗船中または積み込み中の6艇(PT-26PT-27PT-28PT-29PT-30PT-42)は、攻撃してきた九九式艦上爆撃機(“Val”)九七式艦上攻撃機(“Kate”)A6M零戦に対して射撃を行うことができた。各艇の空気圧縮機 compressed airは起動が必要であった。なぜなら、各魚雷艇に装備された二連装.50口径機関銃砲塔を操作するには圧縮空気が不可欠だからである。攻撃時の第1戦隊当直士官はN. E. ボール少尉 Ens. N. E. Ballであった。攻撃中、ジョイ・ヴァン・ザイル・デ・ジョン Joy Van Zyll de Jongは敵雷撃機1機の撃墜に貢献したと記録されている。ジョージ B. ハフマン一等兵曹 George B. Huffman, TM1cはPT-23とともに敵雷撃機1機の撃墜に貢献したと記録されている。12隻の魚雷艇は攻撃機に対し4,000発以上の砲弾を発射した。PT-23は攻撃で最初の三菱A6M零式戦闘機を撃墜した。攻撃後、一部艇は真珠湾内外で対潜哨戒を実施した。フィリピンが日本軍に陥落したため、12隻の魚雷艇はフィリピンへ派遣されなかった。1942年5月、自力で1,385マイル(約2,224km)の航海を経てミッドウェー環礁 Midway Atoll防衛支援に向かった。途中、PT-23はクランクシャフト破損で故障し、修理のため真珠湾へ帰還した。魚雷艇の航続距離は約500マイルであるため、MTBRon 1はネッカー島 Necker Island、フレンチ・フリゲイト・ショールズ French Frigate Shoals、リシアンスキー島 Lisianski Islandで給油のため停泊した
1942/6 ミッドウェー海戦(連合軍側呼称:Battle of Midway、1942年6月4日~7日)において、MTBRon 1は対空支援任務を担当した。PT-21とPT-22はA6M零戦1機を撃墜した功績が認められた。MTBRon 1はミッドウェー島周辺哨戒任務に配属された。また、MTBRon 1は墜落艇として海上救助活動を行い、撃墜されたパイロットを救助した。ミッドウェー海戦時、MTBRon 1の指揮官はクリントン・マッケラー Jr. 大尉 Lieutenant Clinton McKellar, Jr. が務め、基地はサンド島 Sand Islandに置かれた。PT-29とPT-30はミッドウェーの西55マイルにあるクレー環礁 Kure Atollに配備された。戦闘後、1942年7月15日にMTBRon 1は真珠湾へ帰還した。魚雷艇のみで構成されるMTBRon 1(PT-22、PT-24、PT-27、PT-28)は、1942年7月から始まったアリューシャン作戦に参加するため、アダック島 Adak Islandに派遣された。魚雷艇の基地は、アダック島のフィンガー湾にあった。アダック島には、米海軍基地、飛行場、補給施設、病院、アンドルー・ラグーン Andrew Lagoonにある水上飛行機基地、スイーパー・コーヴ Sweeper Coveにある港、レクリエーション・センターがあった。1942年11月にエリセ諸島 Ellice Groupのフナフティ Funafutiへ移動し、同年12月22日に第3(2)戦隊 Squadron 3(2)へ移管された
“3”の番号を持つ戦隊が2つ、“2”の番号を持つ戦隊が2つあった。2番目の戦隊を1番目と区別するため、“2(2)”と“3(2)”の呼称が用いられる
第1魚雷艇戦隊の魚雷艇のうち、現存するのは2隻のみである。戦争終結時、魚雷艇は不要となり、膨大な燃料を消費したため、ほぼ全てが廃棄された。第1魚雷艇戦隊のプロトタイプP魚雷艇であるPT-3とPT-8の2隻が現存している。PT-3とPT-8は魚雷艇設計競争に参加し、PT-8は合板ダービー(Plywood Derby)の一環であった。全長58フィートのPT-3は合板ダービーには参加しなかった

↑PT-42 at a fueling dock at Pearl Harbor. Image courtesy of en.wikipedia.org.

↑Image courtesy of Shipbucket.


Update 25/11/11